2013年11月21日(木)2013-11-21

 秘密保護法案は、もしかすると憲法の改悪よりも深刻な事態を招く、最悪の法だと思っている。これが可決されたら、日本は戦後の民主国家から、北朝鮮や中国、アラブのいくつかの国家のような、アンチ民主主義国家となりうるだろう。そうなっても、有権者には何もできない社会になるだろう。
 この法案の何が悪いのか、「絶対」と「相対」を軸に、私の考えを表明しておこうと思う。私は法学を原理的に学んだわけでもないので、この文章は論ではなく、あくまでも現在を考えるための手がかりである。
 近代と民主主義は、「絶対」への批判から始まったと私は思っている。キリスト教圏で、社会を司る原理は、神だとか王だとか皇帝だとかの絶対的な言葉だった。「絶対的」であるとは、何人もそれを疑ったり批判したりしてはならないということである。その掟が正しい理由は、神(など絶対者)の言葉であるからであり、それ以外の説明は存在しない。絶対的な言葉とは、その存在理由を説明する必要のない言葉なのである。
 そのような絶対的な言葉への疑いを、社会のある一定の量の人々が抱くようになり、為政者が自分の決めた絶対的ルールの正しさについて説明をしなければならなくなり、現実には人々の納得できる説明ができなくなったとき、社会を司るルールは神など絶対者の言葉でなく、みんなで合議の上で決めた言葉としよう、つまり議会で決めた法に拠ろう、としたのが、民主主義ではないかと思う。
 ここで重要なのは、社会を司る言葉である法に対して、誰でも疑う権利を持っている、という点である。絶対的な言葉は疑いを許さなかったが(だからその言葉の主以外改変は許されなかったが)、相対的な言葉である法はどんな者でも疑ってよいのである。疑った結果、間違いを含んでいると一定量の者が認めれば、その法は議会で変えることができる。
 しかし、秘密保護法の場合、その法が秘密であると指定した秘密については、疑うことが許されない。なぜ秘密なのか、それを秘密とすることが妥当であったのかどうか、その存在理由を説明する必要がなくなる。秘密指定の範囲に事実上制限がなく、それを検討する外部機関も設置せず、しかるべき期間の後での公開が義務づけられてもいない。つまり、空間的にも時間的にも、その秘密を相対化することはできない。為政者がそう望めば、その秘密は永久に闇に葬り去られる。そして秘密に抵触した者は、秘密に触れたという理由だけで、罰せられる。なぜその秘密に触れたら罰せられるのか、その理由も説明する必要はない。つまり、秘密の指定をする者は、絶対的な存在となるのである。秘密保護法の言葉と、指定された秘密は、絶対的な言葉として社会を司り始める。あらゆる法を機能停止させる法が、秘密保護法である。法を超える超法規である。
 すべてのルールは相対化され、誰でも疑うことができ、議会を通じて変えることができるのが、民主主義の根幹なのだから、そのルールの中に疑ってはならない絶対的な領域ができるのは、民主主義に抜け穴ができることであり、土台から民主主義が崩壊していくことを意味する。
 例えば、外国大使館の敷地内には治外法権があり、日本の国境の内側にあっても日本の法の支配が及ばない。日本社会の人は、その大使館の内側のルールについては、疑うことを許されない。秘密保護法が成り立てば、日本政府自体が治外法権を持つようなものである。日本政府が秘密保護法に基づいて行うことは、日本社会の有権者が疑うことを許されず、変えることもできず、理由もわからないまま従わなければならない。
 戦前戦中に軍政の暴走を止められなかった一つの要員は、社会を司るルールの中に、触れてはならない部分があったからである。治安維持法に基づく取り締まりは、その理由を説明する必要がない。天皇の意思と言葉に基づくとされれば、疑うことは許されない。その両者において、説明にならない説明として用いられたのが、「国体を護る」という言葉である。この言葉が出てきたら、いったい何が国体なのか、どう国体を傷つけたというのか、説明を求めたり疑義を挟むことは許されない。
 民主主義の根幹は、すべてを相対化することである。何をどういう理由で秘密としたのか、その秘密指定は妥当だったかのか、少なくとも一定の未来(その秘密指定に責任を負う者がまだ生きているぐらいの未来)に検証できなくては、民主主義は失調する。民主主義でなければ何であるのかといえば、独裁政治か、宗教原理主義の体制である。理由のわからないルールの言葉にただ支配されるか、神の絶対的な言葉を受け入れて洗脳されるか、どちらかである。オカミに弱く、その場の空気に従いやすく、その空気を疑わない傾向の強い日本社会は、宗教国家の様相を帯びやすい。戦前の日本もそうだった。
 秘密保護法下の社会では、何を自分たちは秘密にされ、知らないでいるのか、わからなくなる。機密に近い一部の行政機関の人間やメディアの人間だけが、うすうすと、どうやらあの関連のことを自分たちは知らされないでいるらしいと感じるだけで、社会の大半は、秘密にされていること自体を知らなくなる。何が秘密になっているのかを知らなければ、与えられる情報をただ鵜呑みにすることになる。大本営発表が機能するのは、社会がそのような状態になっているときである。安倍政権はすでに、この手法をとって政権運営をしている。肝心なこと、騒ぎになりそうなことは隠しておけば、何をしても今の世間は騒がない、と知っている。それを法の言葉としてルール化してしまえば、疑っている者たちをも封じ込められるというわけだ。
 このような秘密保護法を、アメリカは制定することを求めている。民主主義を破壊しうる法を、民主主義を信奉するアメリカが要求しているということは、アメリカは秘密保護法下で起こる人権侵害を黙認することになるだろう。日本は、サウジアラビアやムバラク政権下のエジプトなどの「親米アラブ国家」のような存在になりかねない。
 絶望的なのは、民主主義を破壊するこの法が、民主的な選挙の結果によって成立するという事実だ。秘密保護法案に賛成か反対かの世論調査では、反対の法が多数を占める。けれど、先週の内閣支持率は、50%を大きく超えている。日本の民主主義の岐路であるこの法案について、内閣支持率に結びつくほど重視している有権者は少数派なのだ。
 私は民主主義という制度は、サッカーに似ていると思う。あるチームの中に、そのチームの方針について無関心な者が半数近くいたら、そのチームは機能しないだろう。このチームがうまく行かないのはチームを引っ張る選手がいないからだ、誰かもっと責任持って引っ張れよ、と選手たちが思っていたら、チームは崩壊するだろう。俺は守備の人間だから攻撃のことはそっちで決めてくれ、と思っている選手が何人かいたら、サッカーにならないだろう。守備陣が頼りないから俺が守備までする、と思って、攻撃の選手が守備までも一人で全部引き受けようとしたら、そのチームも勝てないだろう。チームが機能するというのは、それぞれの選手が自分の役割を100%こなすために、他のポジションの選手の役割を理解しようとし、話し合い、信頼と責任を作り上げたときに可能となる。たまにしか集まれない代表も、お互いに関心を持ち、異なる意見をぶつけ合うことで共有できるビジョンを作り上げ、本番のときだけでなく所属クラブでの日常から考え努力をし続けてこそ、チームの体裁を取り始める。
 民主主義も同じである。政治の決めることに日ごろから関心を持ち、自分なりに考え、その意見を時間をかけてぶつけ合うことで、共有できるビジョンを作り上げれば、社会は有機的に変わっていくだろう。今の日本社会は、有権者(選手)が日ごろはチームの方針やビジョンについて関心を持たず、さして考えもせず、大きな試合の時だけ思いつきのような意見を口にし、有能な監督をよこせと要求し、うまく行かなければ監督や他のチームメイトのせいにし、うまく行かない本当の原因を探ろうとはせず、だからその原因を取り除くこともできず、チームはどんどん崩壊している、といったところであろう。自分がどうにかしようという自覚を持ち、そのために全力で他の選手とも協調する、という態度のない状態では、よい結果は得られるはずもない。
 選手ほどの重責を担うのは難しいと思うのなら、せめて自分の応援するチームをより魅力的にするために関心を持ちづけるサポーターぐらいの努力はできるだろう。
 民主主義とは、その社会に生きている人間たちが、必要に応じて自分たちの手で社会を作り変えられる制度である。民主主義を手放したら、私たちは自分たちで自分の社会を変えることはできなくなる。今まで以上に、誰かの利益のための犠牲者として生きるほかなくなる。その地獄ぶりは、そのような社会になってみないとわからないのだろうか。

2013年8月19日(月)2013-08-19

 中島岳志さんの新刊『血盟団事件』を、渇きを癒やすように読んだ。昭和初期の白色テロを克明に追ったノンフィクションでありながら、私はもう間もなく訪れる近未来を先取りして読んでいるような気分だった。私の感覚としては、きわめてリアルな近未来小説だった。
 私は中島さんがこの本の執筆を公にしてから、ずっと刊行を待ち続けていた。私も10年前に血盟団事件に深い関心を持ち、『ロンリー・ハーツ・キラー』という小説を書くためにいろいろと調べたからだ。
 期待に違わないどころか、10年前に出ていたらとため息すらついてしまう。膨大な証言と資料と実地調査を重ねた、とてつもない労作である。中島さんのノンフィクションの書き方は、まず、その当事者の言葉を徹底的に読み込み、さらに他の資料にもあたり、同時に当事者の関係した場所を実際に訪ね歩き、あたかも中島さんがその当人であるかのように、目にした光景を幻視しようとする。当人が憑依したかのような書き方が、中島さんのノンフィクションを限りなく文学に近づけている。想像で補って物語を作るのではない。書かれるのはほとんど、当事者たちの言葉や資料にある言葉だが、それを正確な文脈に還元するために、中島さんは当事者に成り代わってみようとする。この書き方とそっくりなのは、伊藤整の『日本文壇史』だ。あの作品が小説以上に小説であり、時空を読む場に再生してしまうのは、伊藤整が消えて、当事者たちの言葉がよみがえっているからだ。
『血盟団事件』も、そのように書かれている。それがこの異様なリアリティの理由である。
 私が血盟団事件に興味を持ったのは、「先鋭化」「純化」ということにずっとこだわっていたためだった。なぜ動機は正しいはずの行いが、おぞましい結果をもたらすことがありうるのか。オウム真理教のことなども考えながら、正しさがおぞましい暴力に転化する原理として、「先鋭化」「純化」があると思った。血盟団事件は、まさに先鋭化のもたらした悲劇だった。
 事件を起こした青年たちのまじめさ、一途さ、正義感は、オウム真理教の信者たちと通ずるものがある。麻原彰晃同様、血盟団事件の中心、井上日召も、地味で目立たない平凡な者たちと、エリートの学生たちを、ともに惹きつけた。麻原と井上日召が異なるのは、世俗的な権勢欲だろうか。
 両者とも、それなりの修業を経て、仏教を媒介にした世界観に覚醒した。その経験に裏打ちされた教義は、外部の者がいかにいかがわしい目で見ようが、それをはじき返すだけの強さがある。その強さに青年たちは惹きつけられ、信仰を持つにいたる。
 そこに先鋭化の萌芽がある。信仰は、それ以上は理屈で解体できないという絶対性の感覚に基づくものだからだ。それが純粋であるほど、相対化が難しくなる。自分のしていること、信じていることを、立ち止まって考えることはなくなる。絶対性の感覚に支えられて、迷いは消える。
『血盟団事件』では、井上日召が覚醒する様子、青年たちが井上日召を絶対的に信じていく様子が、克明に描かれる。その過程を私には批判などできない。なぜなら、そのようなある種究極の信用を求める強い気持ちは、私の中にもあるからだ。おそらく誰でも飢えているものだと思う。でもそこにたどり着けるのは、厳しさに耐えうる少数の者なのだ。
 宮内勝典さんが『善悪の彼岸』で、オウム真理教の教義を徹底的に論破し尽くしたように、『血盟団事件』は、彼らを支えた井上日召の世界観、教義を、徹底的に読み込んでいく。この作業はきわめて重要である。かれらの絶対性の感覚を支えていたのは、その教義の内容自体なのだから。これを見落としたり軽視したら、かれらのテロ行為の中に存在する道理を見失う。そしてその道理自体は、何人たりとも軽々しく否定はできない。それがかれらの存在を賭けた、この社会への批判そのものである以上。
 絶対性の感覚をもたらすのは、血盟団の時代では天皇である。「現人神」であったのだから、疑いえない存在として信仰の対象であったのはいうまでもないが、面白いのは、血盟団の者たちの中にも、その絶対性への信仰を相対化する視点を持った者たちがいたことだ。農本主義者、権藤成卿の『自治民範』で説かれた社稷自治に共鳴した者たちである。この部分には非常に驚いた。
 青年たちの「純化」を促進した要素の一つは、「男たちの絆」である。これもあの時代には特別なことではなかっただろうが、かれらの中の取り決めとして、どんなに優秀でも女性は同志に加盟させない、という一項があった。
 私が『ロンリー・ハーツ・キラー』で考えたのは、先鋭化、純化に歯止めをかけるために「男たちの絆」を放棄すること、だった。女性が平和主義者だと言いたいのではなく、「純」=一様になっていくことが、危うさを高めるということである。『血盟団事件』でも、井上日召の娘の証言などから、その構造は垣間見られるようになっている。
 現代と昭和初期の、過酷で不平等な社会環境の驚くほどの類似を前に、中島さんは青年たちの心持ちに寄り添い限りなく共感しながらも、それが虚しい暴力となり、さらには批判していたはずの国家に収奪されていってしまった原因を、しっかり見つめている。本文の中で説明されるわけではないが、読んだ者がそれを考えるよう、周到に準備されている。先鋭化、純化を立ち止まらせ、なおかつその志を失わないためにはどうしたらいいのか。そのヒントは、例えば中島さんの『「リベラル保守」宣言』を読めば、見えてくるかもしれない。

2013年5月6日(月)2013-05-06

なぜ右傾化するのか

 先月の総選挙の後、私はさまざまな友人知人と会うたびに、「こんな選挙結果になるとは思わなかった。信じられない」といった言葉を何度も耳にした。こんな結果になってほしくなかったという気持ちは私も同じだが、「信じられない」とは思えなかった。社会はこの結果の予兆となるようなサインで満ちあふれていたのだから。
 年末年始に読んだ本を並べてみる。在特会(在日特権を許さない市民の会)を追ったルポ『ネットと愛国』(安田浩一著)、木嶋佳苗裁判の記録『木嶋佳苗劇場』と傍聴記『毒婦』(北原みのり著)、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告の手記『解』。どれも気が滅入る本ばかりだが、まとめて読むと、なぜあのような選挙結果になったのか、非常によく納得できる。特に『ネットと愛国』は、あの総選挙の特色であった「気分としての右傾化」を扱っており、選挙結果の予言の書といってもいい。
 列挙した本に共通するのは、登場するのがいずれも「他人との関係が苦手な人たち」であることだ。それも大半が男性。在特会には本質的に孤立感を抱えた、気の弱そうな者たちが集う。木嶋佳苗被告の事件の被害者たちも、女性との関係はおろか、一般的に人との関係を深いレベルで築くことに難を抱えている。加藤智大は友人は普通にいたが、本当に信頼している相手はほとんどいなかった。ここに例えばオウム真理教の信者を加えることもできよう。
 存在が等閑視されているような孤独感から、在特会はきわめて差別的な暴言を叫んでデモをする。それは、自分たちの存在を認めろという承認欲求であり、本当は人と関わりたい欲望のきわめていびつな表現である。加藤智大の凶行も、私にはほぼ同様に思える。木嶋佳苗事件の被害者たちは、木嶋との絆に異様な執着を見せている。冷静に考えれば詐欺とわかりそうな事態に陥っても、木嶋との関係はかれらの存在の根幹を支える大切なものであり、失うことは考えられなかった。在特会の男性たちがもし木嶋佳苗と出会っていたら、街宣活動より木嶋とのつきあいを優先するのではないか、とさえ想像した。
 このように信頼関係から疎外された人たちは、いまや日本社会のマジョリティーだと、私は感じている。それが見えにくいのは、存在が最初から消されているからだ。その中でも特に経済的に抑圧されていたり、地味で目立たない者たちが、「下への平等」を求める行動に出始めた、というのが先の選挙ではないか。そんな選択をしたら自分たちが苦しむ、と考えるより、「いい目にあっている(とかれらが見なしている)連中が傷つく選択をすることで、自分たちと同じ地平に落ちればいい」という衝動のほうが勝っているということだ。それほどまでに、他人を信じる可能性から見放されているのだ。
 在特会はメディアを、かれらなりの侮蔑語である「左翼」と罵る。メディアは、いい目にあっている連中の既得権益にかなった報道でゆがんでおり、真実はネット上の情報でこそ明らかになると信じているからだ。だが、この傾向は在特会だけではない。例えば、放射能をめぐる情報でも、原発に反対する人たちの一部で似たような傾向が強く見られる。福島で自民党議員が全勝したのはとてつもない不正が行われたため、といった主張を信じるなど。私も新聞をはじめ今のメディアのものの見え方には深刻な疑念を感じているが、既存のメディアとネット上の情報を二項対立的に捉えることにも危険を感じる。
 つまり、社会中に不信感がつのるあまり、俗説や謀略論に飛びつきがちなメンタリティが醸成されているのだ。それが、現実とは異なる想像上の敵を作り出し、攻撃してよいのだという気分にゴーサインを与える。不毛な対立構造だが、それが今の社会の構図である。
 「こんな選挙結果になることが信じられない」のは、そのような人たちの存在に関心を向けてこなかったせいでもあるかもしれない。対立的な批判より、向き合うことが求められている。

(北海道新聞2013年1月18日朝刊 各自核論)

2012年12月15日(土)2012-12-15

 戦後最悪の総選挙が明日に迫った。今まで棄権しなかった私が、今回は本当にやめようと何度も思った。投票したい候補がいないとか、どうせ変わらないといった段階よりももっと手前の、この社会に参加するのがもう嫌だという拒絶感からだ。投票に行く気がしないのではなく、行きたくないのである。
 それでも投票に行く。なぜなら、棄権することも選択行為の一つであり行為の責任を負うので社会からの離脱にはならないのだし、また、投票権を持っている者の責任を果たすことまで放棄したくはないからだ。この社会はいまだに完全な平等選挙制度を実現できていない。その中で投票権を持っていることは、じつはとてつもなく大きな権力を与えられていることなのだ。その自覚まで失くしたくはない。
 この社会に参加したくないという気分は、今の政治の劣化、悪化の原因が、政治家のせいばかりではないと思うからだ。政治家は、最高の権力を与えられているという意味で、このひどい社会状況の責任を最も負うけれど、その政治家に最高の権力を与えているのが誰かといえば、有権者なのだ。独裁制でもなければきわめてたちの悪い不正選挙で民意と無縁の結果になる、という風土でもない以上、私は、政治の劣化は、この社会自体の劣化の表れだと思っている。すなわち、有権者の劣化である。政治の場で起こっていることは、会社でも地域社会でも家族内でも学校でもメディアでも司法の場でも起こっていることなのだ。だから、誰かを悪者にして叩いて責任を押しつけても、何も変わらない。それどころか、その当事者意識の欠如こそが、この社会、有権者たちの劣化の最大要因であり、その態度を繰り返すから悪化する一方になる。
 この悪化に歯止めをかける波が、前回の総選挙ではやって来た。けれど、その波は、民主党のふがいなさと有権者の忍耐力のなさによって、引いてしまった。有権者は再び当事者意識を欠如させて、同じく当事者意識を欠くばかりのメディア(特に新聞)と互いをエスカレートさせあい、政治を機能失調へ追い込んだ。
 今回の選挙活動では、これまでだったら暴言や失言とさえ呼べるような極右的な言辞が飛び交った。今までなら支持を落としたり、いったん政治活動を停止せざるを得なくなるような暴力的言説だが、今の社会では支持を増やす。私から見れば、言うほうもどうしようもないが、それを支持する人間がこれだけたくさんいることのほうが、より深刻だ。なぜなら、今は震災の経済的精神的ダメージから立ち直るべきときであるのに、近隣諸国の挑発に乗って武力に金を注ぎ込むようなことを目指すのは、その金や労力を使って被災地復興に力を注ぐ気などない、と表明しているようなものなのだから。何という冷たい社会、冷たい有権者、冷たい政治家たちだろう。
 原発事故、震災の被害から明らかになったのは、地方の荒廃である。この社会が地方を見捨ててきたという問題が、何よりも一番はっきりし、そのことがこの社会にもたらすダメージの大きさを、私たちは身をもって体験した。だから、政治もこの社会の住人も、そのことを解決し乗り越えなければ、この社会を不安のないものに変えることはできないはずだ。だが、その意思表示の最も大きなタイミングである総選挙で、この社会は地方から目を逸らし、武力やら人権を奪う憲法改正やらに熱狂している。この絶望、この怨恨の念は、日本社会をさらに破壊していくにちがいない。
 恨みと復讐の情念に取り憑かれたこの社会に、私は巻き込まれなくない。そのためのイベントに見える、今度の選挙には参加したくない。しかし、参加しないことなどできず、棄権がたんに恨みと復讐のスパイラルを加速するだけなのならば、投票するしかない。
 スパイラルを止められるとはもはや思わない。でもその加速度を緩めることは、投票によってできるはずだ。超最悪に対し最悪を選ぶだけの投票でも、行くことには意味がある。自分が、絶望に身をゆだねないために。絶望に身をゆだねるとは、恨みと復讐のスパイラルに身を任すことだから。

2012年11月20日(火)2012-11-20

言葉が引き寄せる戦争

「最悪の場合、日本で戦争が起こるかもしれない」。
 そんな言葉を冗談ではなく日本社会で目や耳にするなどという事態は、47年の私の人生で初めてである。尖閣諸島をめぐる中国との関係悪化のただ中、にわかに「戦争」という言葉が世に増殖し始めた。
 中国政府の先行きが不透明で、また未曾有の軍備拡張を続け、制服組の発言力が次第に増している中、その可能性がまったくないとは私も思わない。政治は、最悪を想定しながら外交を行うべきだとも思う。しかし、最悪を想定するのはあくまでもその芽を事前に交渉で摘むためであって、相手をより先に威圧するためではない。今、社会に流通する「戦争」という言葉には、「そうなる前に相手を叩け」と言わんばかりの攻撃性が含まれているように感じる。
 私はこの状況をとても異様に感じる。どのように異様か。例えばオウム真理教の地下鉄サリン事件を思い出してみよう。
 さまざまな証言によると、オウム真理教が社会を教団の敵と見なし、テロを行っていく武闘路線へ転換したのは、教祖の麻原彰晃が総選挙でほとんど票が取れなかったことが一つのきっかけだったとされている。麻原は、社会の陰謀によって得票数が操作された、と本気で思い込んでいたという。それほど自分たちの教団は社会から敵視され、実際に抹殺されようとしている、という被害妄想が麻原の中で膨れあがり、やられる前にこちらからやってやる、という行動に出たのだ。
 オウム真理教がその当時、日本社会で白眼視されていたのは事実である。だが、世の中が積極的に教団を抹殺しようとしていたわけではなかった。「やるかやられるか」といった二項対立状態ではなく、話し合う努力をすれば共存を探れる余地はいくらでもあった。実際には「嫌われている」だけだったのが、教祖の心の中では「殺されようとしてる」に変わってしまったのだ。
 不安と怒りに心を支配されている状態で、「攻撃されるかもしれない」「戦争になるかもしれない」と思い始めれば、それはたちまち現実になる。戦争を避けられる選択肢がいくつもあるにもかかわらず、「戦争」が強迫観念となり、それ以外の現実がないかのように感じられてくる。「振り込め詐欺」のニセ電話でパニックに陥った被害者が、冷静に考えれば詐欺だとわかりそうな場面でも、たやすく大金を振り込んでしまう精神状態と同じだ。そうなると、取るに足らないいさかいが、殺し合いにまで簡単にエスカレートする。
 今の日本は、とにかく叩いて憂さを晴らしたいという欲求に満ちている。いわば「バッシング依存症」の状態で、より刺激の強いバッシングでないと気が済まなくなっている。罵倒とも言えるようなその言動で支持されてきた橋下徹大阪市長が、「日韓で竹島の共同統治を」と述べたとたん、支持率を激減させる。政治家たちはもはや、バッシング中毒の社会に煽られて、攻撃的な発言を繰り出すようなありさまだ。
 自分たちを戦争に導くのは、「戦争になるかもしれない」と思って恐慌状態に陥る私たち自身の心だ。その恐怖が、無謀で冗談のような攻撃を引き起こす。不安を粉砕したくて熱狂と興奮を求め、戦争に解放すら感じるようになる。中国と日本の双方がそのような状態に陥ったら、それこそ明日にでも戦争は現実化するだろう。どちらかが小さくでも先に手を出せば、もはや揺るぎのない理由ができてしまう。尖閣諸島が問題なのではない。相手が攻撃してくるかもしれないという恐怖がある中で、実際に相手が攻撃してきたという事実が、妄想に正当性を与え、その妄想を実現化させてしまうのだ。お互いの被害妄想を本物にするために挑発しあっているのが、今の現状である。

(初出:北海道新聞2012年10月19日付朝刊 各自核論)