2012年12月15日(土) ― 2012-12-15
戦後最悪の総選挙が明日に迫った。今まで棄権しなかった私が、今回は本当にやめようと何度も思った。投票したい候補がいないとか、どうせ変わらないといった段階よりももっと手前の、この社会に参加するのがもう嫌だという拒絶感からだ。投票に行く気がしないのではなく、行きたくないのである。
それでも投票に行く。なぜなら、棄権することも選択行為の一つであり行為の責任を負うので社会からの離脱にはならないのだし、また、投票権を持っている者の責任を果たすことまで放棄したくはないからだ。この社会はいまだに完全な平等選挙制度を実現できていない。その中で投票権を持っていることは、じつはとてつもなく大きな権力を与えられていることなのだ。その自覚まで失くしたくはない。
この社会に参加したくないという気分は、今の政治の劣化、悪化の原因が、政治家のせいばかりではないと思うからだ。政治家は、最高の権力を与えられているという意味で、このひどい社会状況の責任を最も負うけれど、その政治家に最高の権力を与えているのが誰かといえば、有権者なのだ。独裁制でもなければきわめてたちの悪い不正選挙で民意と無縁の結果になる、という風土でもない以上、私は、政治の劣化は、この社会自体の劣化の表れだと思っている。すなわち、有権者の劣化である。政治の場で起こっていることは、会社でも地域社会でも家族内でも学校でもメディアでも司法の場でも起こっていることなのだ。だから、誰かを悪者にして叩いて責任を押しつけても、何も変わらない。それどころか、その当事者意識の欠如こそが、この社会、有権者たちの劣化の最大要因であり、その態度を繰り返すから悪化する一方になる。
この悪化に歯止めをかける波が、前回の総選挙ではやって来た。けれど、その波は、民主党のふがいなさと有権者の忍耐力のなさによって、引いてしまった。有権者は再び当事者意識を欠如させて、同じく当事者意識を欠くばかりのメディア(特に新聞)と互いをエスカレートさせあい、政治を機能失調へ追い込んだ。
今回の選挙活動では、これまでだったら暴言や失言とさえ呼べるような極右的な言辞が飛び交った。今までなら支持を落としたり、いったん政治活動を停止せざるを得なくなるような暴力的言説だが、今の社会では支持を増やす。私から見れば、言うほうもどうしようもないが、それを支持する人間がこれだけたくさんいることのほうが、より深刻だ。なぜなら、今は震災の経済的精神的ダメージから立ち直るべきときであるのに、近隣諸国の挑発に乗って武力に金を注ぎ込むようなことを目指すのは、その金や労力を使って被災地復興に力を注ぐ気などない、と表明しているようなものなのだから。何という冷たい社会、冷たい有権者、冷たい政治家たちだろう。
原発事故、震災の被害から明らかになったのは、地方の荒廃である。この社会が地方を見捨ててきたという問題が、何よりも一番はっきりし、そのことがこの社会にもたらすダメージの大きさを、私たちは身をもって体験した。だから、政治もこの社会の住人も、そのことを解決し乗り越えなければ、この社会を不安のないものに変えることはできないはずだ。だが、その意思表示の最も大きなタイミングである総選挙で、この社会は地方から目を逸らし、武力やら人権を奪う憲法改正やらに熱狂している。この絶望、この怨恨の念は、日本社会をさらに破壊していくにちがいない。
恨みと復讐の情念に取り憑かれたこの社会に、私は巻き込まれなくない。そのためのイベントに見える、今度の選挙には参加したくない。しかし、参加しないことなどできず、棄権がたんに恨みと復讐のスパイラルを加速するだけなのならば、投票するしかない。
スパイラルを止められるとはもはや思わない。でもその加速度を緩めることは、投票によってできるはずだ。超最悪に対し最悪を選ぶだけの投票でも、行くことには意味がある。自分が、絶望に身をゆだねないために。絶望に身をゆだねるとは、恨みと復讐のスパイラルに身を任すことだから。