完璧な白鵬2017-05-29

 大相撲5月場所、白鵬の全勝、しかも勝ちを拾ったような相撲は一つもなく、すべて完璧な勝ち方という圧倒的内容での優勝に、ここ1年半の相撲観戦の息苦しさから私も解放された。
 優勝のインタビューも心憎かった。「国家を歌えて最高の気持ち」という一方で、高安の大関確定に「彼のお母さんはフィリピン人ですから、フィリピンの国民の皆さんに『めでたいな』と言いたい」と述べる。途中休場した横綱の鶴竜や稀勢の里をねぎらい、高安のがんばりも評価する、この大相撲全体を支える人たちへの細やかな目配りはもう、来るべき理事長のようだ。ここ1年半の「日本人中心主義」「稀勢の里中心主義」から解放されて、どれほど風通しよく感じたことか。
 この開放感は、稀勢の里が休場したことで、稀勢ばかりに集中した報道が、フラットに力士全体に向かうようになったことが大きいだろう。報道はいけしゃあしゃあと、「稀勢の里に人気が集中」「稀勢が圧倒的に脚光を浴びている」などというが、稀勢の里シフトを引いて「日本人力士優勝待望キャンペーン」「日本人横綱待望キャンペーン」を張ったのは、相撲協会と結託したNHKと報道陣である。自分たちでブームを作り出しておいて、あたかも自然と世の中が稀勢の里を応援し続けていたような言い方をするのは、恥ずべき欺瞞だ。もちろん、稀勢には罪はなく、そのとんでもない重圧を受けながら、期待以上の結果を出しているのはすごいと思う。まあ、どんな相撲を取ろうが失敗しようがずっと味方でいてくれるあの絶大な人気のおかげで、これまで自分の中で安定させられなかった自信をようやく持つことができたから横綱になれた、とも言えるが。だから期待に応えたくて、怪我を押しても出場したのだろう。
 高安の大関昇進も嬉しい。白鵬同様、相手の動きを見て反応することに長けているから、今場所はものすごい圧力と切れ味鋭いいなしの組み合わせで勝ち星を重ねた。パワーとうまさの光る相撲だ。これで、いなしではなくパワーの押しと四つを組み合わせた相撲を取れるようになったら、即横綱だろう。太い腕(かいな)とパワーを武器とした武蔵丸みたいな横綱になれるのではないか。
 高安がフィリピン人のお母さんを呼んで、その姿が映ったのも良かった。私は、何かと親を取材したり映したがる、日本のスポーツ報道の家族主義をものすごく嫌いだが、高安のお母さんの存在が普通の姿としてテレビに映るのはいいことだと思っている。高安のお母さんも、その役割を果たす使命感も持って、あえてカメラを拒まないでいるのではないか。
 それはやはりお母さんがフィリピン出身である御嶽海についても同じだ。御嶽海母はもっと頻繁に国技館に来ては、友達と応援団のようになって応援している。その御嶽海は、殊勲賞受賞インタビューで、高安関の存在はどういうふうに感じているか、との問いに、「すごい大きいですね。やりとり、連絡もちょいちょいしてますけども、すぐ追いつきますと言ったばかりなんで、ヤス関の活躍をしっかり見て、追っていけたらなと思います」と答えている。経歴上は特につながりのない2人だが、やっぱりルーツを同じくする母を持つ者同士、絆を築いていて、気持ちが通じ合っているのだ、と感銘を受けた。
 また今場所は、鳴戸親方が部屋持ちとして、師匠デビューした場所でもあった。元・琴欧洲の鳴戸親方は、かつての東関親方(元・高見山)、今の武蔵川親方(元・武蔵丸)に続く、外国ルーツの親方である。、亡き間垣親方(元・時天空)は実現できなかったが、やがて元・旭天鵬の大島親方もモンゴル出身力士として初めての部屋を持つだろうし、遠い先には白鵬だってそうなるだろう。(注・5月場所後に大島親方は友綱親方となって、友綱部屋を継承した。)
 こういう力士が普通になっていきつつあるのだから、もう「日本人力士」とかいった分け方や価値付けはやめようではないか。そういう言動は、現代において「選挙権は納税している男だけが持つもの」とか言うぐらい、古くさい。
 来場所は、怪我を治して鶴竜と稀勢が万全の体調で出場すること、鶴竜が優勝争いに絡むこと、相星の稀勢と白鵬が、今場所の日馬富士対白鵬のような(近年なかなか見られないすごい相撲だった!)、ガチの横綱決戦を行うことを期待したい。白鵬も稀勢も、それを何より望んでいることだろう。

白鵬がいると土俵が締まる2017-05-24

 白鵬の調子が、怪我以前に戻ってきた。足の指や肘は万全とは言えないだろうが、それでも絶好調だ。白鵬の調子がいいと、土俵が締まる。白鵬がいるだけで、土俵のレベルが上がる。それだけハイレベルな相撲を取る白鵬についていき、倒さないと、優勝できないからだ。
 先場所、先々場所は、物語的には盛り上がったのだろうけれど(私はその物語には乗れないので、盛り上がらなかった)、相撲全体のレベルは低下していた。白鵬の調子が悪かったり休んだりしたからだ。そうすると、なんとなくその場所は相撲から厳しさが失われる。白鵬の休場した場所の内容を振り返ると、だいたいそうだ。
 この印象は、単なる思い込みではないことが、昨日、NHKの調査で実証された。力士の立ち合いのスピードや腰の低さ等々を、試験的にデータを取ってみたのだ。
 すると、立ち合いのスピードは、白鵬が圧倒的に1番だった。日馬富士をも上回っているのだからすごい。
 さらには、身長に対する相対的な腰の低さ(立ち合いのかがんだ姿勢で地面から回しまでの距離を測る。そして全員が同じ身長だとしたらどのぐらいの高さになるか、換算する)も、なんと白鵬が3位なのだ。しかも、白鵬自身で比較しても、今場所はここ2場所よりずっと低くなっている。
 つまり白鵬は、十分に腰の割れた低い姿勢から、圧倒的なスピードで立つ。なので、立ち合いでほぼ確実に先手を取ることができ、余裕を持って自分主導の相撲が取れる。ただでさえ上手くて強い白鵬、立ち合いでも誰も勝てないのでは、無敵なわけだ。
 白鵬がいると、この低くて速い立ち合いに対抗するべく、他の力士もレベルを上げようとする。だから、全体として取り組み内容のレベルが上がる。と、思うのです。
 それにしてもインタビューの宇良は可愛いね。

相撲の持久力2017-05-21

 5月場所7日目の稀勢の里対御嶽海の取り組み、稀勢の里は素晴らしかった。御嶽海は期待通り、鋭い立ち合いから稀勢の里の左を封じて浅く食らいつき、一気に寄り立てる。御嶽海に勝機のある攻めだったけれど、稀勢に左を浅く差すことを許していたのが、致命的だった。この左で土俵際、圧力のある御嶽海の寄りをこらえると、土俵中央に戻って一息つく。
 これで御嶽海の勝機は消えた。御嶽海は稀勢がこらえたあと、自分の腰をさらに落として、すぐにまた寄り立てる必要があった。けれど、有利な体勢ながら、御嶽海は動けなかった。最初の攻めで力を使い果たしてしまったのだろう。私にはもう疲れているように見えた。
 稀勢の里は、その肉体の存在自体がものすごい圧力と重さを放っている。稀勢と組むだけで、その凄まじい圧力と重さに対抗するために、全体力を動員しなければならない。そのためには動き続けなければならない。遠藤や嘉風みたいに。
 御嶽海もそうしたかったのだろうが、力尽きて、止まってしまった。こうなると、ただ組んで止まっているだけで、稀勢の圧力と重さを受け止めるために体力を消耗していく。最後、稀勢に寄られていくときは、御嶽海はもぬけの殻だった。
 この相撲からわかることは、まず御嶽海は何らかの稽古がまだ足りていないのではないかということだ。成長著しく相撲は上手く力強くなっているが、横綱を倒すには体力が続かなかった。
 そして稀勢の左腕は、だいぶ良くなっているということ。浅い左差しながら、御嶽海の寄りをこらえ、最後はその左をねじ込むように寄っていけた。つまり、次第に稀勢らしい相撲が取れるようになってきている。
 それにしても、今場所は稽古不足の中、御嶽海に体力勝ちできるのだから、稀勢のこれまでの稽古の蓄積がいかに物を言っているか、ということだ。この点は素晴らしいと思う。

大相撲中継が「スター主義」化している2017-05-19

 稀勢の里で相撲ブームが爆発してから、NHKの相撲中継が「スター主義」に堕しつつある。これまでは、優勝争いの直前ぐらいになるまでは、地味な力士同士の取り組みでも、その力士たちについてアナウンサーと解説があれこれと話を展開させていた。そこには、相撲中継についてのプロ意識があった。
 だが今は、序盤戦から注目力士の話題ばかり。地味な力士同士の対戦になると、控えにいる注目力士にスポットを当て、同じ予想、同じ話を繰り返す。地味な力士たちの無視される度合いがひどくなっている。
 勝ち馬に乗れ、と促すようなこのあり方、もうほんと、ウンザリ。ブームの観客が勝ち馬に乗るように、土足で土俵を踏みにじっていくようなありさまは、この中継の仕方にも原因がある。
 一昨日3日目の相撲、白鵬対千代翔馬戦で、仕切りのときに両者が呼吸を合わせあってなかなか立てずにいた時、立ちそうで立たなかった瞬間、館内がどよめいた。それで集中を乱された白鵬が、仕切り直しを求めた。こういうとき、館内がどよめいてはいけないのだけど(そしてこれまでなら実際に皆どよめくことなくかたずを呑んで見守っていたけれど)、今の館内はこういうことで簡単にどよめいてしまう。
 呆れたのは、アナウンサーと解説が、白鵬が神経質になっている、みたいなことを言ったことだ。たぶん、あの状況なら、たいていの力士が仕切り直しを求めるだろう。
 こういう物語の作り方は、やがて相撲を衰退させる。スター主義に頼ったら、地道なファンは育たなくなる。相撲の将来を食いつぶすような真似は、NHKはすべきではない。


照ノ富士への差別ヤジ2017-03-27

 昨日の照ノ富士対琴奨菊戦で激しいブーイングが飛び、次の取り組みである日馬富士が「聞いたこともない、すごい言葉」が聞こえ、「相撲を取るどころじゃなかった。集中してるけど耳に入ってしまう」と苦言を呈した事件。そのえげつないブーイングとは、「モンゴルに帰れ」という差別発言だった。これをスポーツ報知が見出しにとり、「照ノ富士、変化で王手も大ブーイング!『モンゴル帰れ』」と報じたのだ。
 この記事を目にしたとたん、目から火が出て頭が爆発しそうなほど、私は怒りにとらわれた。この事態は幾重にも差別の野放し事件として、問題がある。
 まず、「〇〇へ帰れ」は「ヘイトスピーチ対策法」が禁じるヘイトスピーチ、つまり差別の言葉だと、法務省が規定している。何がヘイトスピーチに当たるかについて、法務省は「①命や身体、財産に危害を加えるように告げる②著しく侮蔑する③地域社会からの排除をあおる――ことなどを「不当な差別的言動」として挙げて」おり、「③の「地域社会からの排除をあおる言動」は、「○○人はこの町から出て行け」「○○人は祖国へ帰れ」などが当たる」と説明している(朝日新聞2017年2月6日付朝刊)。つまりこのヤジは、違法な差別行為なのである。
「差別意識はなかった」などという言い訳がよく見られるが、差別の認定は、言われたほうの傷を基準に考えられている。暴力を振るったほうの言い分より、振るわれたほうの言い分を重視するのは、あらゆる暴行に対して当然の姿勢である。なぜなら、振るった側のほうが常に力が強いのだから、振るった側は暴力だと感じずに暴力を振るうことはしばしば起こるからだ。なので、差別の言葉も、意識のあるなしではなく、何が差別に当たるか、これまで蓄積されてきた基準で判断するべきなのだ。だから、差別の基準は、広く知らせる必要があるし、学ぶ必要がある。世界のスポーツはそれを共通の基準として理解し、差別の起こらないよう対策を取り続けている。
 さらに問題なのは、スポーツ報知がその違法な差別行為に加担するような報道をしたことである。この文言を問題視するための記事ではなく、このヤジに乗る形で照ノ富士を批判する記事である。このヤジを違法な差別だと認識していないから、安易に利用して見出しに取ったのだろう。
 この記事が出てから、さまざまなレベルで、この事件と記事が差別であることを批判する声が巻き起こった。さすがに事態の重大さに気づいたスポーツ報知は、「26日付の紙面およびスポーツ報知HPで掲載した大関・照ノ富士関の記事と見出しで、観客のヤジを記述した部分に、ヘイトスピーチを想 起させる表現がありました。人権上の配慮が足りず、不快な思いをされた皆様におわびし ます」という謝罪の言葉とともに、見出しを修正した。本当は「ヘイトスピーチを想起させる」ではなく「ヘイトスピーチに当たる」と書くべきであり、まだ逃げを打っているのだが、それでもこの対応はまずは評価してよいだろう。
 残る問題は、自らの主催する競技の会場で差別があったことに、日本相撲協会がどう対応するか、である。
 これがサッカーのJリーグで起こったら、間違いなくその観客は特定され、無期限の入場禁止処分が科せられるだろう。加えてクラブ側にも厳しい処置が降りるだろう。浦和レッズの「Japanes Only」事件では、無観客試合が科された。主催者には、その会場内での暴力を防止する責任がある。
 だが、相撲では、何も起こらない。それを究明して防止策をとることもない。BuzzFeed Newsによると、
「当の日本相撲協会は今回の差別発言問題をどう捉えているのか。
 3月29日、BuzzFeed Newsの取材に応じた協会の広報担当者は「お客様がどのような発言 をしたのか、実際の音声を確認していないのでそれ以上は申し上げられない」と答えた。
 確認するかどうかにもついては「確認する方法がない」。
 差別発言に対して注意喚起をするのか尋ねると、「(観客は)相撲協会の ホームページ に ある観戦に関する規約を守ってほしい」と話す。
 差別発言に限った注意喚起をする予定はこの時点ではない。」
 世界中から観客が来て、世界各地から力士が入門している競技なのに、このありさまである。これでは、「日本人」力士応援のために差別はしてください、と奨励しているようなものだ。
 何度も書いてきたとおり、今の本場所の館内には、聞くに耐えない差別的声援がたくさん飛んでいる。場所を追い、ブームが高じるほどに、その声援も増えて濃くなっていく。それは、そのことが差別であり、観戦のルール上してはいけない行為なのだ、と誰も教えないからだ。いつの間にか、誰もがしている普通の応援が、そのまま差別になっていても、気づかないのだ。
 土俵上にいる力士たちには、観客の声ははっきり聞こえてくるという。最近の日本人に偏った差別的な応援も、日本出身ではない力士たちには聞こえているだろう。それでも淡々と気にせずに取ってきたけれど、今度の件は日馬富士が相撲を取れなくなるほど、モンゴル力士の心を傷つけるものだった。同じモンゴル人として、また照ノ富士の兄弟子として、もう看過できないと思った日馬富士は、あえて注意したのだろう。その真意を、メディアはきちんと伝えたのだろうか。相撲協会は心に留めたのだろうか。
 私は、自分の愛する相撲に、日本社会の差別文化をリードなどしてほしくない。なのに、そうなるばかりである。やりきれない怒りと悲しみを感じる。