大相撲の土俵女人禁制問題について2018-04-05

 昨日、巡業の土俵上で挨拶していた舞鶴市長が突然倒れ、駆け寄った女性たちが心臓マッサージなどを施している最中に、「女性の方は土俵から降りてください」とアナウンスがあった問題。ニュースを知り、その場の映像を見た時には私の頭も沸騰し、感情的な言葉を吐いてしまって落ち込んだが、その後の八角理事長のコメントを読んで、まずは納得した。コメントは次のようなもの(4月5日付スポーツ報知より)。
「本日、京都府舞鶴市で行われた巡業中、多々見良三・舞鶴市長が倒れられました。市長のご無事を心よりお祈り申し上げます。とっさの応急措置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます。応急措置のさなか、場内アナウンスを担当していた行司が『女性は土俵から降りてください』と複数回アナウンスを行いました。行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫(わ)び申し上げます」。
 余計な言い訳をせずに対応が間違っていたことを認めたのだし、昨日の過ちに関しては、終わりにするべきだ。
 こういうことが起きるたびに、私はひどく消耗する。私もこの対応には怒りを覚えたが、それは長年、この件(本場所などの土俵上を女人禁制にしていること)に嫌な思いをし続け、苦しい思いを抱えてきたからだ。このことは後ほど展開する。
 昨日の事例は確かに批判されるべき出来事だが、いまの巷では、相撲界はいわば「非国民的」な非常識集団なのだからいくらでもバッシングしていい、という空気のもと、相撲をよくするとかその文化を現代に合ったものに変えていくといった観点など全く欠いたまま、ひたすら自分たちが溜飲を下げるための対象としてバッシングされ続けている。昨日の件への批判も、大半はそんな心根から発せられた、言い捨てのようなものだった。叩いていいという空気ができたらいくらでも叩いてよくてそうすれば正義の気分を持っていられて実際には憂さ晴らしの暴力でしかなくてもマジョリティの側からのバッシングだから罪悪感を抱かないでいられる、って、もう究極の理想的な全体主義でしょ。
 そんな反応の中には、「貴乃花親方はこういう協会の旧弊な体質を変えようとしていたのだ」というような意見もあって、あきれた。あの人ほど、戦前のような家父長制をベースとする復古主義的な相撲に戻そうとしている人はいないのであって、協会の誰よりも女人禁制主義者ですよ。世を教育勅語の世界に戻そうとする人を、改革派の英雄に祭り上げているメディアの姿勢は、橋下徹前大阪市長をヒーローに祭り上げたのと同じ姿勢であり、そのメカニズムやメンタルの精緻な分析は、松本創さんの名著『誰が『橋下徹』をつくったか』を読むとよーくわかる。貴乃花親方は、民主的な相撲協会を実現するうえで、最大の障壁なのだ。
 なので、バッシングではなくて、自分にとっての相撲を壊してほしくないという思いから、私は今回の事件について批判を述べたい。
 2007年から11年までに噴出した不祥事の後、相撲協会は明らかにそれまでの相撲協会から変わろうと、さまざまな努力はしていると思う。多々、認識の甘い点があるため、もっと徹底して変えなくてはならないものを変えられないでいたりして、その最大の事例が、相撲の現場における暴力容認、鉄拳制裁は必要悪、みたいな意識だろう。日馬富士の事例から垣間見えたのは、これは日馬富士の性格の問題ではなく、相撲界全体でまだ共有されている暴力文化の問題だな、ということだった。その後、細かく、暴力の問題が発覚しているのは、そういうことだろう。同時に、それが相撲界の中でも問題視されるようになったから、顕在化することも多くなったのだろう。その意味では、変わろうとする意識が形を伴いつつある証拠であり、いいことだと思う。
 ただ、顕在化するたびに、先に述べたような、たんなる苛烈な集団いじめでしかないメディアと世間からのバッシングにさらされる。そして事件の当事者が廃業に追い込まれていく。バッシングの欲望は、ターゲットの敗北を眺めて優越感に浸るのを目指しているから、そこまで追い込まないと気が済まない。
 私はここにはものすごい違和感がある。こういうあり方はおかしいし、あってはならないと思っている。
 これはあくまでも私の相撲観だが、相撲は社会的なセイフティーネットの役割をどこかに持ち合わせていると思う。家族や地域社会で支えきれない、端的に言えばはみ出し者たちを10代半ばから預かり、生活を含めた居場所としていく。かつての芸能の側面が強かった時代は、よりその色が濃かっただろう。今はだいぶその色は薄いけれど、関取や役付にはなれない力士や行司、呼び出し、床山たちの世界には、まだそういう要素が残っていると私は感じている。相撲部屋が疑似家族制なのは、未成年のはみ出し者を育てる場所としての家族環境、という意味合いもあっただろう。
 そこで重要なのは、失敗を許す環境である。指導の仕方は硬軟いろいろあるだろうが、失敗から学ばせて成長させていく場であることが、個々人の尊厳を作っていく。はみ出し者たちも多くいる集団だから、派手な失敗も多いだろうし、時には度を越すこともあろう。でもそこで相撲界から放逐するのでなく、学ばせていく。その機能が大相撲にはあると思うのだ。
 しかし、今のメディアと世の態度は、これと大きくかけ離れている。一度失敗をした者は、相撲界から追放しないと気が済まない。ここには、相撲界をよくする意思も、失敗した個人を学ばせて経験値を上げようという意思も、皆無だ。あるのは、人が落ちていくのを見て喜びを感じるという嗜虐性のみだ。
 もちろん、同じ過ちを繰り返し続けるとか、度を超しすぎた事件を起こすとか、その人の経験や立場など、勘案するべき事項はある。けれど、まだ若く経験の少ない者の過ちに関しては、学んで立ち直らせることに全力を注ぐべきだし、相撲界が蓄積させてきたその経験は活かすべきなのだ。それが社会的包括だと思う。
 その中で、では相撲界がどんな基準で、過ちを判断し、どの方向に導くのか、その点がいまは本当に問われるべきこととなっている。そして私の大きな不満と違和と苦しさもそこにある。
 鉄拳制裁の問題に関しては、徐々にではあるけれど、改善して行こうとしているので、見守りたい。
 けれど、差別の問題は手付かずだ。
 一つは、私がずっと書き続けてきて『のこった』という本にもした、外国人や民族、国籍差別の問題。館内で起こる差別的な声援に対し、今だに何の対応もなされていないし、モンゴル力士、特に白鵬をターゲットにしたメディアとネットの差別的攻撃に対しても、相撲協会は何も手を打ちもしなければ、声明を出したりもしない。それどころか、横審が差別を煽る言動をしても、それを受け入れている。親方になるために日本国籍が必要という、国籍差別の条項を見直す機運も、まったくない。
 そしてもう一つが、今回、顕在化した、性差別の文化の問題である。この記事によると、(「女人禁制の土俵、いまも賛否 「女性総理になったら、杯を誰が…」」朝日新聞with news)
「いまも女性は国技館の土俵には立てない。毎年夏に国技館で開かれる「わんぱく相撲全国大会」には、女子が地方予選で優勝しても出場できない。
 力士の断髪式でも、息子は土俵に上がって引退した父親のまげにハサミを入れられるが、娘は、それができない。土俵の下から花束を渡す子が多い。」
 横綱貴乃花のファンだった私は、貴乃花の引退以降、十余年にわたって相撲を見るのをやめていたが、その原因に、2000年に起きた太田房江・大阪知事(当時)を土俵に上げない問題があったことを、今回、思い出した。大阪場所で優勝力士への知事賞の表彰をしようとしたところ、相撲協会から、「女性は土俵に上がれない」として却下された事件である。
 身分制そのもののようなこの対応に私自身がやりきれない思いでいっぱいになったし、私の親しい女性の友人たちから、「そんな相撲をそれでも見るんだ?」という批判的な眼差しを浴びせられた。ただでさえ、貴乃花ファンであることに、自分でも分裂した苦しさを抱えていたのに(力士として心酔していることと、人間としてはどうしても受け入れられないという拒絶感と)、こんな時代錯誤の差別を押し通そうとされたら、もうこちらも耐えられない。その気分も、私を相撲から離れさせた大きな要因だった。
 そのことを忘れていたのは、近年は、女人禁制問題が顕在化していなかったからだ。私もつらくなるので、きっと、はっきりとは意識に上らせないようにしていたのだろう。けれど、相撲協会はこの件では何ら変更を告げていないので、女人禁制はそのままである。そしてそれは先に挙げた記事の例として、細部に現れている。
 今回、若い行司が観客の「土俵上に女性を上げていいのか」という強い声に混乱し、ついアナウンスをしてしまった背景には、大相撲界は今だに国技館の土俵を女人禁制にし続けていることがある、と私は思っている。そのように教えこまれて形作られた価値観のベースがあるから、慌てた時にそちらに触れてしまったのではないか。
 差別の行為をする人には、多くの場合、差別している意識はない。それが自然だと思っているから。しかし、された側は人間として否定されたような強烈な傷を受ける。
 大相撲の、土俵に女性を上げないというしきたりは、どんな経緯や歴史があろうが、現代では、性差別はしてよいというメッセージにしかならない。私は条件なしで、このしきたりは廃止すべきだと思っている。さもないと、相撲の文化が常に、属性で人を排除し傷つけ続けることになる。私はそういうことに加担していると思いながら相撲を見ることに耐えられない。相撲協会は、そういう人から相撲を奪わないでほしい。
 それが暴力になるような伝統はいくらでも変えればよい。伝統はそうやって変化しながら、時代を生き残るものなのだから。伝統の名で差別を温存するなら、それはネトウヨや差別を目的とした暴力主義者のやっていることと、なんら変わりはなくなる。こういうことを言うと、歌舞伎云々という話がすぐ出てくるが、歌舞伎界がどういう姿勢を取ろうが、相撲は相撲で、現代の人権の基準に則ったあり方にしてほしい。
 今回、問題が顕在化したのをいい契機として、国技館や本場所の土俵にも女性が上がれるよう、そろそろ変えるべきではないか、という議論をしてはどうだろうか。確実に相撲の信頼回復と人気につながるはずだ。