館内の「コール」について2016-11-25

 九州場所13日目、優勝争いも大詰めを迎えている。
 まず、稀勢の里から。今年に入ってにわかに稀勢の里キラーになっている栃ノ心が、会心の相撲で稀勢の里を倒した。私が思うに、横綱を三タテにした相撲は確かに強かったが、立ち合いから自分のペースだったかというと、すべての取り組みで押し込まれていた。相手をよく見ているという見方もあるが、前半の無気力相撲の延長で、決していい立ち合いをできていないとも言える。それでも勝ったのは、白鵬に負け寸前から逆転したことで、にわかに闘争心に火がついたせいだろう。白鵬戦以降、稀勢の里はいつもと違い、立ち合い前に目を細めて相手にガンを飛ばしている。つまり、喧嘩上等の気分で臨んでいたのであろう。綱取りの間は、自分に集中しよう平静であろうと努めていて、こういう目はしていなかった。その結果、鶴竜戦、日馬富士戦と、自分の武器である強烈な左差し一本で相手を吹き飛ばした。
 しかし、格下の栃ノ心にも喧嘩上等で臨んでしまった。今日も栃ノ心を目を細めて睨みつけていた。それが、相手の攻めに「意固地になって」(伊勢ケ浜親方)右ノド輪で攻め返し、自分の武器である左からの攻撃を忘れるという愚を犯す原因となった。左から攻めれば、栃ノ心には負けない。でも、やられたらやり返すということで頭がいっぱいになり、栃ノ心のペースにはまってしまった。芽生えつつある苦手意識も、足を引っ張っただろう。逆に栃ノ心は、うまく取れば勝てるという自信を持って臨んでいただろう。この取り組みも、凄まじく集中した栃ノ心のほうがいい立ち合いをし、稀勢は押し込まれた。まだチャンスが潰えたわけではないが、前半で無気力相撲を取って早々に優勝争いから脱落した力士が、そうあっさりと優勝できはしない。
 ところで、今場所は、いわゆる「コール」(手拍子とともに力士の名を三拍子で呼ぶ声援)が、地元九州出身の力士と綱取りの豪栄道に集中し、稀勢の里に対してはほとんど起こっていなかった。先場所まではあんなに稀勢コールばかりだったのに、綱取りがなくなるとこの扱いか、現金なものだ今の観客は、と私でさえ稀勢に同情したくなるほどだった。ところが、白鵬戦になると、途端に前日とは段違いのコールが起こる。そして横綱を破るごとにそのコールは大きくなっていく。
 大変感じが悪い。百歩譲って、にわかに優勝の目が出てきた強い力士を応援したくなるのは当然ではないか、と言うのなら、今場所は、素晴らしい内容で圧倒的に強く安定している横綱・鶴竜にもっと声援が飛んでいいはずである。初日から13日目まで、ずっとトップを走って優勝争いを引っ張っているのだ。しかも(残念ながら)いつも優勝している横綱ではない。この絶好調ぶりに、館内が鶴竜を応援してもいいはずだ。だが、鶴竜コールは、一度も起こってはいない。10年前だったら、今場所の鶴竜は確実に大声援を受けただろう。
 これが何を意味するか、言うまでもないだろう。今の相撲は、国籍・民族で、応援される・されないが左右されるのである。感じが悪いこと、おびただしい。コールが起こるようになってから今まで、私はモンゴル系の力士に大コールが起こったのを聞いたことはない。この場所も、モンゴル系の力士に対して私がコールを耳にしたのは、わずかに子ども数人の声による、貴ノ岩と照ノ富士への声援だけである。私も毎日相撲中継をくまなく見ているわけではないので、もしかしたらもう少しあったかもしれないが、いずれしても、館内を覆うコールが起こるのは、「日本人」力士に対してだけと言ってよい。そもそもコールなどという、それまで相撲には存在しなかった応援が登場したのは、「ニッポン」を応援するという、この日本人自画自賛ブームの一環でしかない。「ニッポン」であれば、相撲でも何でもいいのである。そして、「日本人」力士なら、誰でもいいのである。そのようなメンタリティと、非日常空間で盛り上がりたいという衝動とが、無意識のうちにモンゴル系力士を仮想敵としてしまっているのだ。
 話題変わって、今日の解説は、私の大好きな旭富士の伊勢ケ浜親方。サービス精神ゼロ。感情や物語も無視。視聴者の期待に応えるつもりなし。ひたすら、最小限の言葉で的確な取り口の解説をするのみ。普通の解説では聞かれない微細なレベルまで、二言三言で明解に説明してくれる。
 それによると、遠藤は立ち合いがワンパターンなのが、命取りになっているという。低い姿勢から左差し右前みつを狙うという形のみ。相手からしたら、何をしてくるかわかっているので対応しやすい、と。立ち合いの鋭さの進化に目を奪われていたが、確かにそうだ。「勝った相撲はいい内容だけど、負けた相撲は内容ゼロ」と遠藤自身が言っているが、その理由はここにある。

横綱の資格(「品格」じゃないよ)2016-11-20

 ああ、豪栄道、やはり……。
 昨日の魁聖戦はいまいちの内容だったものの、今場所の強い精神力の豪栄道であろうとしてはいた。だから連敗を止めたことに意味はあったと思った。けれど、今日の隠岐の海戦は、先先場所までの情けなくて惨めな豪栄道に戻ってしまった。私は判定に対しては同体取り直しでもいいのではないかと感じたが、豪栄道の綱取りという意味では、失格だと思った。
 先日書いた通り、横綱は負けない能力が重要である。不利な時にしのぐ力、調子の悪い時でもやり過ごす力、重圧の中でもつぶれない力。豪栄道が横綱になってもやっていけるかどうかを測るには、一敗した後に立て直せるかどうかが鍵だった。そしてその試験に豪栄道は通らなかった。
 二敗はまだ優勝圏内である。そして、もしこの後勝ち続けて優勝したなら、横綱にすることは異論ない。けれど、綱を張り続けられるとは思えない。横綱になるということは、綱取りを毎場所続けるようなものなのだ。白鵬が場所前、豪栄道について、強い相撲を取り続けることができれば横綱にはなれるかもしれないが、横綱を続けることはなってみないとわからない、みたいなことを言っていて、その奥深さに戦慄した。横綱は絶対的な孤独を生き続けなければならない存在なのだ。私はそのことを、貴乃花以上に、白鵬から学んだ。
 その横綱の資格を見せ始めたのが、鶴竜だ。遠藤、玉鷲と、今場所の台風の目を続けて退けた。それも、横綱らしい勝ち方で。無傷の勝ち越しで単独トップ。優勝争いに絡むだけでなく、優勝争いを引っ張るのが、横綱の役割だ。鶴竜がこんなに横綱らしい横綱だったって、ずっと知っていたよ。自信さえ揺るぎなくなれば、こうなるって、わかっていたよ。

九州場所と白鵬2016-11-18

 さて、九州場所。
 かつて相撲は東北以北の北の出身者が圧倒的に多く、特に北海道、青森出身力士の独壇場だったが、今は幕内では北海道の関取はゼロ、青森も宝富士だけ。
 それに比して、九州出身力士は隆盛を誇っている。わが嘉風は大分県。福岡が琴奨菊に松鳳山、熊本が佐田の海に正代、鹿児島が千代鳳と、幕内だけでも6人もいる。九州も昔から相撲どころではあるけれど、特に今は大いに盛り上がっている。それは館内の声援を聞いていても感じるだろう。これらの力士への応援は毎日すごい。
 日本人力士だから応援をするというのは嫌な感じなのに、地元の力士を応援するというと不快感がなくなるのは、不思議かもしれないが、全然不思議ではない。サッカーで言えば、日本代表よりも地元のクラブの勝利のほうが大切と感じるサポーターのようなもの。非日常で憂さを晴らすのではなく、日常の一コマとして、労力をかけて地道に応援するというか。
 その感じは、白鵬に対する声援を聞いているとわかる。国技館だと、アンチ白鵬がにわかに増え、白鵬じゃない日本人力士を応援するという空気があるが、テレビで館内の声援を聞いている限り、九州場所ではそんな雰囲気はあまりなさそうに感じる。むしろ、白鵬を素直に応援している印象がある。実際、白鵬は九州場所で6年連続優勝するなど、めっぽう相性がいいのだ。
 そんな九州場所で、大記録の1000勝を達成できたのも、白鵬のよく口にする相撲の神様の計らいかもしれない。当日は白鵬1000勝を待ち望む観客が目立ち、大いに沸いた。白鵬もとても率直に喜びを表していた。大鵬の32回の優勝を越えるときは、ピリピリになって孤独感を全面に漂わせていたが、この1000勝は笑顔でよかった。もっとも、九州場所のアイドルでありヒーローだった魁皇の1047勝という前人未到の記録を九州で越えるとなると、複雑かもしれないが。
 その魁皇だった現・浅香山親方の、白鵬1000勝に対するコメントも、素晴らしかった。「力強い相撲だった。自分は長く相撲を取っただけで地位も年齢も違うから、自分の記録とは比べることはできないし、比べるのは申し訳ないくらい。白鵬はまだまだ若いし、通過点だろう」(NHKニュース)。あんな大記録を打ち立てた人なのにこの謙虚さ。魁皇の人柄が滲み出ていて、なんで九州場所で魁皇があんな爆発的人気を誇ったのか、よくわかる。
 6日目には、この場所の台風の目となっている玉鷲と遠藤が、それぞれ全勝の豪栄道と白鵬を破るという波乱が起きている。綱取りの豪栄道にとって、私はこれは悪くないと思う。横綱にとって必要なのは、負けないこと。勝つこと以上に負けないこと。たとえ負けても、引きずらずに翌日には立て直して、再び負けないでいること。これができないと、綱を張り続けるのは難しい。だから、下位力士に一敗は痛いけれど、むしろ横綱たる資格があるかどうかを測るにはいい展開だろう。ここを乗り越えての優勝ならば、文句なく横綱になれると思っている。大関陣の中でも最も情けなく、優勝争いをすることも期待されず、事実無関係のままだった豪栄道は、あの屈辱の日々から成長したのだなあと感じさせる、強くて揺るぎない相撲を取り続けていて、私の評価もすっかり反転した。
 遠藤が白鵬を破る日はいつか来ると思っていたけれど、怪我以来、それは遠のいたと残念に感じていた。それを引き戻した遠藤、楽しみすぎる。ひたむきに正攻法でとても相撲がうまい遠藤は、どこか貴乃花に似ている。勝ったときの相撲の美しさなんか、貴を彷彿とさせる。2年前は照ノ富士と遠藤が横綱、大関としてライバルになると思っていたので、照ノ富士にも早く復活してほしい。

『ロンリー・ハーツ・キラー』より引用2016-09-28

星野智幸コレクション第2巻「サークル」収録 長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』より、第2部モクレンの意見広告

私は殺しません
 あえて意見広告まで打って、こう宣言してみせるのは、せめて私の友人・知人たちには、私のことをこれまでと同じように信用していてほしいからです。
 私は誰も殺しません。
 保証はありません。この言葉だけが担保です。でも、それ以上の保証はあるでしょうか? 言葉を信じる、それ以外に、他人を信用する方法はあるでしょうか?
 無条件で信じろ、とは言いません。信じてもらうために、私が信用するに値する言葉を使う人間かどうか判断していただきたくて、ここに意見を書いている次第です。
 そもそも、殺さないことを宣言するだなんて、滑稽だ異常だと思う人もいるでしょうが、私はそうは思いません。殺さないなんてあたりまえじゃないか、それをわざわざ表明しなくちゃならないなんて嘆かわしい、などとは、まったく考えません。殺さないことがあたりまえではない世の中はいくらでもあり得るし、現にあったし、今もそうです。私が宣言するのは、どんな世の中になろうが私は殺さない、ということです。殺さないことはもはや常識でも何でもない以上、私が何を考えているのかははっきり言わないとわからないでしょうから、言うまでです。必要なら、どれほど当然と思われることでも、私は意思表明していいと思っています。
 逆に、正当防衛という考え方がまるで常識であるかのように普及していますが、私はその考えもあたりまえのこととは思いません。どこかの投書で読んだ、「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「殺してもよい」は「死んでもよい」である、という感覚のほうに、よりリアリティを感じます。暴論となることを恐れずに言えば、正当防衛を訴えて殺人を犯す人の心の中にも、このような感覚がなかったとは言えないのではないでしょうか?
 この続きは、ぜひ小説で読んでください。

 正当防衛の名の下に身の危険を感じたら相手を殺してもよいという空気が支配的になっていく社会で、モクレンという登場人物は、殺さないことを宣言する意見広告を打ちます。この「殺さないことがもはや常識でも何でもない社会」は、この作品を書いた2002年当時、極端な世界像でしたが、今、差別などの暴力で人の心を殺しても咎められず、病人や高齢者は死なせるべきだと言った殺人を促すような暴言がメディアでまかりとおり、実際に障害者や病人が無差別に殺される世となっている現在は、まさにこの小説の世界と地続きです。モクレンのこの宣言に、まさか書いた自分が励まされようとは、思いもしませんでした。
 このあたりのテーマについては、10月23日(日)に青山ブックセンターで行われる刊行記念のトークで詳しくお話ししようと思います。イベントの詳細はこちら。14時から。1000円。要申し込み。

豪栄道全勝優勝2016-09-25

 賞賛に値する優勝だった。引いたり叩いたりせず、下がらずに相撲を取りきろうとしての全勝は文句ない。長い間苦しかった胸の内は、本人とファンにしかわからないだろう。
 遠藤の技能賞も嬉しい。白鵬に次ぐ、美しい相撲を見せた。この力士は見目麗しいから女性ファンの厚さが目立つが、実は相撲好きにはたまらない才能を持っている。足腰の柔らかさ、絶対に引こうとしない姿勢、前さばきのうまさ、勝負勘の良さ、まったく無駄のない相撲の美しさ、調子に乗らず求道的な態度。加えて今場所は、よく喋った。寡黙だった遠藤が、ざっくばらんに胸の内を明かすようになった。何か心構えを変えたのだろう。それがあの平常心につながったのかもしれない。豪栄道の優勝を14日目まで引っ張ったのは、ひとえに遠藤の頑張りのおかげである。13勝2敗で準優勝なのだから、技能賞だけでなく敢闘賞もあげろよ、ケチくさい相撲協会と相撲記者ども。
 ところで、解説の舞の海さんが、豪栄道が大関昇進の時のコメント「大和魂でがんばる」といったことを引き合いに出し、ようやく大和魂を見せてくれた、と言ったが、逆ではないか。大和魂なんかにこだわっていたから、あの不甲斐ない成績だったのだろう。今場所は、豪栄道自身が言うように、「自分の相撲」に徹したから、うまくいったのだ。人のことなんか考える余裕がないところまで追い込まれて、自分に集中したから、情けない自分を封印できた。「大和魂」を見せてやる、なんて思っていたら、大関陥落していただろう。「大和」以前に、どこの人間だとかは関係なく、自分自身であることこそが自分を支えることを知ったのではないか。勝負の時は気持ちで負けないように闘志を燃え立たせたろうが、それは相手が誰でも同じ。特に、優勝の鍵を握る稀勢の里戦、両横綱戦は、すごい気迫だった。これは大和魂でもなんでもなく、大関豪栄道という力士の闘志だ。それを大和魂などというチンケな言葉で一般化して消費するのは、個人として戦っている力士に失礼だろう。国家や民族のために戦っているわけでも何でもない。自分と、それを支えて応援してくれる人のためであって、それは個人の関係性の問題だ。稀勢が、何場所も続くプレッシャーに崩れていったのは、まさに大和魂的な期待を背負わされたからだ。稀勢の里という力士の個性や人格や相撲を応援されたわけではないから、もたなかったのだ。