謹賀新年2018-01-01

 あけましておめでとうございます。
 昨年は仕込みの年でしたが、後半は相撲エッセイ集『のこった』を刊行、ちょうど相撲界で事件が起きたときだったので、巻き込まれました。
 今年は、近いところでは、3年ぶりの小説となる『焰』(新潮社)を2月に刊行します。新しい試みをしているので、ご期待ください。また、『夜は終わらない』の文庫を2月に、『呪文』の文庫も秋に予定しています。
 そして何よりも、来年に発表する予定の長編を書くという大きな計画が待っています。
 昨年の目標として「サルサ手話短編集づくり来るべき長編の準備腰痛を治してフットサルへの本格復帰、書斎の整理」と、「たべるのがおそい」3号に書きましたが、短編集づくりとフットサル復帰以外は、かないませんでした。
 今年は、私生活では今を楽しみ、小説では近くはない未来を見据えて、そこに届けるようなつもりで考えていきたいと思います。
 今年もよろしくお願いします。

鳥取ループ裁判に行ってきた2017-12-25

 今日は対鳥取ループ裁判の第7回口頭弁論を傍聴してきた。9月25日の第6回公判に続いて、2度目の傍聴である。

 この裁判は、鳥取ループを名乗る被告が、「全国の部落の地名や関係者の個人情報をインターネットに公開している」という暴力と差別を問うもの。詳しくは、この裁判にも関わっている若手たちが作っているABDARC(アブダーク)のサイトを見てほしい。
 私でさえ、この公判に行くには、朝から精神的な武装が必要である。さもないと、激しく感情を乱され、傷つけられるから。なぜなら、被告の鳥取ループは、裁判もヘイトの材料として利用して、楽しんでいるからである。被差別部落の地名や個人情報がさらされるというアウティングの暴力が問題となっているのに、その裁判で提出される、プライバシーを含むあらゆる情報を、公判の公開原則を悪用して、ネットにさらすのである。今日の公判ではまさにこの点が問題となったが、つい先ごろ、大阪高裁での別の裁判で、訴えた原告の個人情報が記載された裁判資料を鳥取ループがネットで公開していた件に関し、削除と賠償金支払いを命じられたとのことである(参照)。
 初めて傍聴した9月の公判で、自らが己の弁護人となってヘイト言説を当事者の前で述べ立てる鳥取ループ本人を見たときは、私はコントロールを失いそうになった。原告は毎回、これに直面させられるのかと、いたたまれない思いになった。
 この苦痛は、李信恵さんが桜井誠ら在特会の人たちに民族的差別発言で傷つけられた件の裁判を、大阪地裁に傍聴しに行ったときにも、味わわされたものだった。
 裁きを得るためには、事実を明るみに出さねばならず、それは訴えた側が、差別された詳細な記憶・記録と真正面から向き合うことに他ならず、さらには自らを差別した当人がそこにいて、再び裁判の場で差別をしてくることに立ち向かわねばならないのである。この、「被差別の再現劇」が必然的に引き寄せてしまう暴力を最小限に抑えるために、肝心なのは、この再現性は差別をなくすためにあるのだということを共有している者たちが見守ることだと、その傍聴の際に体で学んだのだ。
 けれど、関東に住む私は大阪地裁の公判にはなかなか足を運ぶことができない。そのぶん、東京地裁で行われている部落差別の裁判にはもっと頻繁に行くことができる。それぞれは別の人たちが苦しんでいる別の事件だけれど、差別や憎悪を拡大させようとしている者たちへの裁判という点では同じ意味を持つ。どちらも、他人を貶めることで力を手に入れようとするやり方が標準になりつつある今の社会を作っている、暴行者たちである。私は私で今、相撲という場で進行している差別に直面させられている。あちこちで発生している暴力が、互いに相乗効果を得ながら急拡大している以上、自分にできる範囲で、それを許さない意思を示していくしかない。つまり、差別者たちに、差別やヘイトをしても力を得ることはできない、という体験をしてもらうのだ。
 この裁判が私にもたらす明るい可能性は、若い世代がABDARCを作って、よりオープンに、よりカジュアルに、より敷居を低く、差別問題を考える場を広げていこうとしていることである。これは例えば、今年に波が訪れた、よりカジュアルでよりオープンな姿をとったフェミニズムのあり方とも、私には重なる。
 差別について、漠然としかわからないので、基礎的なことを知ってみたいという人は、ABDARCのサイトのQ&Aなどを読むといいかもしれない。
 ABDARCはイベントも開催していて、その記録なども載っている。第1回イベント「私たちの部落問題」での講演「インターネットと部落差別の現実」はこちらで読めるし、私の感想はこちら



都議選についての殴り書き2017-07-03

 小池都知事が、極右で、都の住民のために行政を行うことなんか眼中になくて、安倍政権以上に民主主義を破壊する意思を持っていて、それを安倍政権以上に巧みに熱狂を起こして実行する政治家であることは、都知事としての行動に十全に示されていたから、選挙の結果には残念な気持ちしかないし、選挙後に都民ファーストの会代表に極右の男が何ら民主的手続きも踏まずに就任したことにも驚かない。小池都知事は、権力さえ握ったら民主的に進めるつもりはないことを、これまでも態度で示し続けているんだから。
「自民ザマアミロ」とは思うけど、熱狂でまた投票が行われた以上、小泉首相のころからずっと続いている、政策でなくて熱狂という、有権者の姿勢が民主主義を骨抜きにする過程はまた一段階進んだと認めざるを得ない。自民党の魔の2期目議員とか言っているけど、熱狂に煽られ、その党の名前さえついていればトップ当選するような状況で当選した議員たちの中には、そんなのが大量に混ざっているわけで、今回も同じだと思うべき。なぜなら、追い風であるという理由だけで立候補する政党を選ぶという候補者の態度は、有権者を舐めているわけで、それを当選させるのならば、有権者自らが舐めてくださいと言っているようなものなのだから。いい加減、学ばないのかな。
 自民が負けたのは、傲慢さが怒りを買ったこととスキャンダルまみれになったからで、極右の姿勢が嫌われたからでは、必ずしもない。都民ファーストに投票した人たちは、極右だから支持したわけではないないだろうけれど、これから都民ファーストが「改革」などと称しながら極右ぶり強権志向をむき出してにしても、スキャンダルにまみれない限り、支持率はあまり変わらないだろう。
 現実を見ないと、次に待っているのはさらなる悪化。サッカーや将棋同様、三つも四つも先の未来を考えて今を判断しないと、希望は単なるガス抜きにしかならない。それは「希望依存症」という、現実逃避でしかない。

「私たちの部落問題」2017-06-27

 625日(日)に上智大学で行われた「私たちの部落問題」という講義とトークのイベントに行ってきた。本当に本当に素晴らしかった。心から、参加してよかったと思った。
 上智大学の出口真紀子先生の「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業の枠であり(この授業自体、すごく魅力的)、かつABDARC(アブダーク)というグループが企画した公開イベントでもあるため、学生も外部の人もいろいろと混ざり合い、会場を直前に大きな教室に変えねばならないほど、ぎっしり満席に近かった。
 ABDARCとは(Anti-Buraku Discrimination Action Resource Center)の略で、「鳥取ループ裁判」という非常に悪質な部落差別事件の裁判に関わりながら、差別全般をなくすよう取り組んでいる、若い世代の有志の集まりである。「鳥取ループ」とは、「全国各地の被差別部落の所在地などの情報をインターネット上に晒している宮部龍彦氏らがそれらのアウティング行為をする際に名乗っている名称が鳥取ループ」(ABDARCのサイトより)。
 恥ずかしいことに、私は「鳥取ループ裁判」もABDARCも、最近まで知らなかった。そもそも、中上健次をこれだけ読んでおきながら、部落差別については基礎をきちんと学んだことがなかった。でも人とのつながりの中でアブダークや裁判のことを知り、このイベントを知り、遅まきながら向き合うべき時が来たと思った。
 会場に入るなり感激したのは、聴覚障害者のためのモニターが用意されていて、話される内容がリアルタイムの打ち込みで文字化される、と説明があったことだ。
 これもとある集まりで知り合った難聴の方から、UDトークを入れるなどしてくれないとシンポジウムや講演は聞きたくても聞きに行けない、とうかがってから、いつも気になるようになっていた。
 私自身も軽度の難聴で、会場が静かであれば聞き取りにさほど困難は感じないが、それでも声の小さい方のお話や映像の音声となると、途端にわからなくなることがある。なので、これは大変助かった。
 今回はUDトークではなく、すべて手打ちだった。担当した方は決してその道のプロではなく、大変だったと思う。ありがとうございました。
 そして、本当に恥ずかしいことだけど、初めて知った今の部落差別の実態は、想像を絶するひどさだった。川口泰司さんがパワーポイントで示したネットによる差別の具体例を見て、初めてヘイトデモを目にしたときのような、体のわななくようなショックを受けた。激情がほとばしりそうになるのを抑えるのがやっとだった。インターネットを使ってアウティング(晒し)を拡散させていく部落差別が凄まじいことになっていると知識としては知っていても、具体例は見てこなかったので(検索したくないし)、それを目にして、自分が暴力を受けた気分になった。差別とは心に対する暴力なのだ。川口さんはご自身とご家族の体験も語られたが、私は怒りと悲しみの感情が決壊してしまった。川口さんは体を張って、差別の現場がここにあることを示されていた。
 イベントが始まるときにも、まさにここが差別の現場であることを示す強烈な出来事があった。言論の自由とは、身の危険を感じずに安心して自己表現できる環境のことだが、それが何によって保証されるのか、根本から考えなければならない出来事だった。暴力による恐怖の存在する中では、どんな保証も空約束でしかない。
 この事件への対処によって、この場での言論の自由が保証されることが明確になったことが、会場に力を与えたと思う。その後の登壇者も、まさに体を張って発言されていた。そのことが、このイベントを生命力に満ちたものにした。
 部落問題の基礎を話してくださった齋藤直子さんのお話がまた素晴らしくて、要は部落を差別する根拠はあやふやで誰にも実証も論証もできるものではなく、差別する理由は差別される側ではなく差別する側にある、ということを、聞く人にもそのロジックの訳のわからなさを体験させるという形で教えてくれた。
 齋藤さんはつい先日、『結婚差別の社会学』(勁草書房)という本を出され、これも現代の結婚差別がどんな形で起こっているか、たくさんの証言から示しながら、差別の力学を分析したものだが、差別の実態を示すだけでなく、それに悩む人と共に考えるような実践的な側面も持っている。差別をなくそうという意思が貫かれていて、自分は差別意識を持っていないと思っている人たちがじつは関わっていることの多い部落差別の現実を知るために、必読の書である。
 トークでは、マジョリティが差別の実態を知らずに間違ったイメージで思い込んで無関心のままである限り、差別は続き、放置され、悪化していく一方なので、マジョリティにどう現実を伝え、当事者、非当事者、両者の問題なんだと認識してもらえるか、について話し合ったが、とても根本的で一筋縄ではいかない問題なので、結論が出るわけではない。ただ、まさに今日、このイベントに参加したことで、この問題ではマジョリティでありこれまで関わりのなかった私が、小さな一歩を踏み出せた。主催してくださった方々の意思のおかげである。
 打ち上げでABDARCの方々とお話ししていて、ここ数年で起こったヘイトスピーチへのカウンター活動を、アンチ部落差別活動にも導入していきたいというようなことをうかがい、カウンター活動は確実に差別を無効化していくための実践的な知恵として蓄積・方法化されてきているのだなあと、会の始まりに起こった事件の対処も含めて、実感した。そのことは、劣化する一方の社会にあって、明るい要素だ。
 このイベントのタイトルは「私たちの部落問題」である。この「私たち」には、私も入る。当事者にも非当事者にも、一緒の社会を作っている以上、自分たちの問題なのだ。当事者が生きやすい社会は、非当事者も生きやすい。そして、誰もが何らかの当事者性を持っている。そう感じられるイベントや場が増えれば、明るい要素はますます増えるだろう。ABDARCと「鳥取ループ裁判」に注目してほしい。
 そうそう、日曜日の上智大学という環境もよかった。なぜなら、上智大学にあるイグナチオ教会には、日曜のミサのためにいろいろなルーツの人たちが集っているから。私はあの雰囲気が大好きで、特に今はフィリピン系のコミュニティが大きくできていて(この日も女の子たちがダンスの練習をしていた)、この人たちがみんな高安に夢中になっているはずだと思うとワクワクするのだ。その傍でビッグイシューを売っているおじさんもいる。これがどこでも普通の光景になるといいな。

岡村淳さんの傑作『ブラジルの土に生きて』改訂版を見る2017-05-06

 ブラジル在住の記録映像作家、岡村淳さんの長編ドキュメンタリー『ブラジルの土に生きて』改訂版を、メイシネマ祭2017で見た。2000年の完成以来、何度見てきただろうか。

 改訂版は岡村さんが昨年、すべての会話に日本語字幕をつけるという大作業の他、細かなブラッシュアップを行なったバージョンだ。新作も多々控えているなか、あえてそこまでする何かがあるのだろうと、気になっていた。
そして実際、それだけの労力をかけただけの素晴らしい作品だった。
 9年前に左耳が難聴になって以来、日本語の音声だけで字幕のない映画を見るのが少し苦痛だったので、まずは字幕があるだけでこんなに映画に集中できるのか、と、そのことが嬉しかった。

 さらに、字幕版で衝撃的だったのは、主役の一人である石井延兼さんと娘のノブエさんが交わす会話の内容が、はっきりと表されたことである。この場面は、私の記憶では、日本語とポルトガル語が混ざった会話の内容がややオブラートに包まれたようになっており、あまりにもプライベートだから立ち入ってはいけないのかな、と感じていた。けれど、今回はそれが注釈付きでつまびらかになっていて、やはりその内容に衝撃を受けたのだった。

 娘のノブエさんは、若いころに反政府活動をしている最中に行方不明となり、長い間、消息不明だった。その後、チリに亡命、さらにフランスにわたってパートナーと暮らしていることが判明、親子は再会を果たせたのだ。

 この作品では、もう再会を果たした後の、時々行われるノブエさんの里帰りが収められているのだが、延兼さんは高齢で体も悪く、次の里帰りでまた会えるのか心もとない中、会話が交わされている。その内容は、この作品を見て確かめてほしい。

 かつてこの軍政の暴力の、ごく普通の生活に刻まれたあまりに生々しい爪痕を、私はただ言葉もなく受け止めるだけだった。けれど、共謀罪が来週にも強行採決されようとしている現在、自分に降りかかりかねない出来事として、体のこわばるような感覚とともに見た。

 この日の上映会のアフタートークで岡村さんは、「私は祖国(日本)が心配です。ブラジルも大変だが、ブラジルのことはあまり心配していません。ブラジルには、すぐさま反対や異論の声を上げる人たちがたくさんいるからです。でも日本はあまり声が上がらないまま、決定的なできごとが決まっていく。祖国はどこへ行ってしまうのでしょう」というようなことを、おっしゃっていた。この作品を改訂版として改めて披露することには、この気持ちが込められているのだと、私は深く共感した。

 それにしても記憶力はいい加減なもので、覚えていないシーンがいつくもあった。今の私だからこそ、見えてくる場面や細部があるのだ。

 その一つは、石井家に集まる一族が、実に多様であることだ。日中戦争前に、軍国主義を深める日本を厭うて、ブラジルでの可能性にかけて飛び出した石井延兼さん。ろくに知らない延兼さんに嫁ぐことになってブラジルに渡った妻の敏子さん。その娘でフランスに亡命したノブエさん。スイスで医師をしている、石井さんの孫とそのおつれあいのスイス人。移民した石井家の中から、再移民している人たちがこのように混在しているのだ。それぞれのアイデンティティは、親同士、きょうだい同士でも理解できないほど、異なっている。また、明治生まれの石井夫妻の人生には、敏子さんのあまりに魅力的な生きざまを通じて、ジェンダーの問題まで深く表されている。

 このドキュメンタリーにはつまり、世界が凝縮されている。世界で起こりうることが、この一家族を追っただけの記録に、ほとんど起こっている。今回、私が気がついて、心を奪われたのは、この事実だ。全力で生きる人の日常を、静かにじっくりしっかりと全力で見つめれば、世界は自ずとその全貌を現す。私は勝手に、これからを生きるための実に様々なメッセージを、受け取った。

 なお、岡村淳作品の上映会は、岡村さんのサイトで告知されていますが、コアな長編を見る機会としては、5月15日(月)高円寺pundit'での上映会があります。
 また、運営する私の不手際でしばらく行方不明になっていた岡村さんの文章を集めたサイト、「岡村淳 ブラジルの落書き」も、再開しました。こちらもご一読を。