都議選についての殴り書き2017-07-03

 小池都知事が、極右で、都の住民のために行政を行うことなんか眼中になくて、安倍政権以上に民主主義を破壊する意思を持っていて、それを安倍政権以上に巧みに熱狂を起こして実行する政治家であることは、都知事としての行動に十全に示されていたから、選挙の結果には残念な気持ちしかないし、選挙後に都民ファーストの会代表に極右の男が何ら民主的手続きも踏まずに就任したことにも驚かない。小池都知事は、権力さえ握ったら民主的に進めるつもりはないことを、これまでも態度で示し続けているんだから。
「自民ザマアミロ」とは思うけど、熱狂でまた投票が行われた以上、小泉首相のころからずっと続いている、政策でなくて熱狂という、有権者の姿勢が民主主義を骨抜きにする過程はまた一段階進んだと認めざるを得ない。自民党の魔の2期目議員とか言っているけど、熱狂に煽られ、その党の名前さえついていればトップ当選するような状況で当選した議員たちの中には、そんなのが大量に混ざっているわけで、今回も同じだと思うべき。なぜなら、追い風であるという理由だけで立候補する政党を選ぶという候補者の態度は、有権者を舐めているわけで、それを当選させるのならば、有権者自らが舐めてくださいと言っているようなものなのだから。いい加減、学ばないのかな。
 自民が負けたのは、傲慢さが怒りを買ったこととスキャンダルまみれになったからで、極右の姿勢が嫌われたからでは、必ずしもない。都民ファーストに投票した人たちは、極右だから支持したわけではないないだろうけれど、これから都民ファーストが「改革」などと称しながら極右ぶり強権志向をむき出してにしても、スキャンダルにまみれない限り、支持率はあまり変わらないだろう。
 現実を見ないと、次に待っているのはさらなる悪化。サッカーや将棋同様、三つも四つも先の未来を考えて今を判断しないと、希望は単なるガス抜きにしかならない。それは「希望依存症」という、現実逃避でしかない。

「私たちの部落問題」2017-06-27

 625日(日)に上智大学で行われた「私たちの部落問題」という講義とトークのイベントに行ってきた。本当に本当に素晴らしかった。心から、参加してよかったと思った。
 上智大学の出口真紀子先生の「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業の枠であり(この授業自体、すごく魅力的)、かつABDARC(アブダーク)というグループが企画した公開イベントでもあるため、学生も外部の人もいろいろと混ざり合い、会場を直前に大きな教室に変えねばならないほど、ぎっしり満席に近かった。
 ABDARCとは(Anti-Buraku Discrimination Action Resource Center)の略で、「鳥取ループ裁判」という非常に悪質な部落差別事件の裁判に関わりながら、差別全般をなくすよう取り組んでいる、若い世代の有志の集まりである。「鳥取ループ」とは、「全国各地の被差別部落の所在地などの情報をインターネット上に晒している宮部龍彦氏らがそれらのアウティング行為をする際に名乗っている名称が鳥取ループ」(ABDARCのサイトより)。
 恥ずかしいことに、私は「鳥取ループ裁判」もABDARCも、最近まで知らなかった。そもそも、中上健次をこれだけ読んでおきながら、部落差別については基礎をきちんと学んだことがなかった。でも人とのつながりの中でアブダークや裁判のことを知り、このイベントを知り、遅まきながら向き合うべき時が来たと思った。
 会場に入るなり感激したのは、聴覚障害者のためのモニターが用意されていて、話される内容がリアルタイムの打ち込みで文字化される、と説明があったことだ。
 これもとある集まりで知り合った難聴の方から、UDトークを入れるなどしてくれないとシンポジウムや講演は聞きたくても聞きに行けない、とうかがってから、いつも気になるようになっていた。
 私自身も軽度の難聴で、会場が静かであれば聞き取りにさほど困難は感じないが、それでも声の小さい方のお話や映像の音声となると、途端にわからなくなることがある。なので、これは大変助かった。
 今回はUDトークではなく、すべて手打ちだった。担当した方は決してその道のプロではなく、大変だったと思う。ありがとうございました。
 そして、本当に恥ずかしいことだけど、初めて知った今の部落差別の実態は、想像を絶するひどさだった。川口泰司さんがパワーポイントで示したネットによる差別の具体例を見て、初めてヘイトデモを目にしたときのような、体のわななくようなショックを受けた。激情がほとばしりそうになるのを抑えるのがやっとだった。インターネットを使ってアウティング(晒し)を拡散させていく部落差別が凄まじいことになっていると知識としては知っていても、具体例は見てこなかったので(検索したくないし)、それを目にして、自分が暴力を受けた気分になった。差別とは心に対する暴力なのだ。川口さんはご自身とご家族の体験も語られたが、私は怒りと悲しみの感情が決壊してしまった。川口さんは体を張って、差別の現場がここにあることを示されていた。
 イベントが始まるときにも、まさにここが差別の現場であることを示す強烈な出来事があった。言論の自由とは、身の危険を感じずに安心して自己表現できる環境のことだが、それが何によって保証されるのか、根本から考えなければならない出来事だった。暴力による恐怖の存在する中では、どんな保証も空約束でしかない。
 この事件への対処によって、この場での言論の自由が保証されることが明確になったことが、会場に力を与えたと思う。その後の登壇者も、まさに体を張って発言されていた。そのことが、このイベントを生命力に満ちたものにした。
 部落問題の基礎を話してくださった齋藤直子さんのお話がまた素晴らしくて、要は部落を差別する根拠はあやふやで誰にも実証も論証もできるものではなく、差別する理由は差別される側ではなく差別する側にある、ということを、聞く人にもそのロジックの訳のわからなさを体験させるという形で教えてくれた。
 齋藤さんはつい先日、『結婚差別の社会学』(勁草書房)という本を出され、これも現代の結婚差別がどんな形で起こっているか、たくさんの証言から示しながら、差別の力学を分析したものだが、差別の実態を示すだけでなく、それに悩む人と共に考えるような実践的な側面も持っている。差別をなくそうという意思が貫かれていて、自分は差別意識を持っていないと思っている人たちがじつは関わっていることの多い部落差別の現実を知るために、必読の書である。
 トークでは、マジョリティが差別の実態を知らずに間違ったイメージで思い込んで無関心のままである限り、差別は続き、放置され、悪化していく一方なので、マジョリティにどう現実を伝え、当事者、非当事者、両者の問題なんだと認識してもらえるか、について話し合ったが、とても根本的で一筋縄ではいかない問題なので、結論が出るわけではない。ただ、まさに今日、このイベントに参加したことで、この問題ではマジョリティでありこれまで関わりのなかった私が、小さな一歩を踏み出せた。主催してくださった方々の意思のおかげである。
 打ち上げでABDARCの方々とお話ししていて、ここ数年で起こったヘイトスピーチへのカウンター活動を、アンチ部落差別活動にも導入していきたいというようなことをうかがい、カウンター活動は確実に差別を無効化していくための実践的な知恵として蓄積・方法化されてきているのだなあと、会の始まりに起こった事件の対処も含めて、実感した。そのことは、劣化する一方の社会にあって、明るい要素だ。
 このイベントのタイトルは「私たちの部落問題」である。この「私たち」には、私も入る。当事者にも非当事者にも、一緒の社会を作っている以上、自分たちの問題なのだ。当事者が生きやすい社会は、非当事者も生きやすい。そして、誰もが何らかの当事者性を持っている。そう感じられるイベントや場が増えれば、明るい要素はますます増えるだろう。ABDARCと「鳥取ループ裁判」に注目してほしい。
 そうそう、日曜日の上智大学という環境もよかった。なぜなら、上智大学にあるイグナチオ教会には、日曜のミサのためにいろいろなルーツの人たちが集っているから。私はあの雰囲気が大好きで、特に今はフィリピン系のコミュニティが大きくできていて(この日も女の子たちがダンスの練習をしていた)、この人たちがみんな高安に夢中になっているはずだと思うとワクワクするのだ。その傍でビッグイシューを売っているおじさんもいる。これがどこでも普通の光景になるといいな。

都知事選について2016-07-18

 都知事選、これまで黙ってきたけれど、書くだけ書いておく。
 私は今回の知事選は認めたくないという気持ちでいる。辞任には値しない理由で知事を辞任に追い込んで、有権者自身に何の利益があるのだろうか。
 私は舛添知事の都政を、それなりに評価している。舛添憎しの人は、タカ派言論人時代の発言をやり玉に挙げて、ボロクソに言っていたが、都知事になってからの舛添氏は、極右化の時代にあって、むしろリベラルに感じさえするほどの言動だった。前回の都知事選では私は宇都宮氏に投票したが、舛添氏が当選したとき、次善の結果だなと思った。実際、知事になってすぐ、ヘイトスピーチは許されないとはっきり明言したし、ホームレス襲撃事件にも許されないことだと批判した。今や、それらの暴力に対し、ゴーサインを出すかのような態度を取る政治家や首長が少なくない中で、舛添知事の姿勢は明確で評価されるべきものだった。ただ、ヘイトスピーチを禁じる条例制定には消極的だったり、行政として制度で対応していくと言っていた貧困対策は不十分だったり(特に住宅政策はもっと現場に耳を傾けてほしかった)と、批判したい点もあったが、それは任期半ばで辞任させるという話ではない。
 また、都有地を韓国人学校に貸し出すことを決めたことも、特筆に値する。まさに、この時代の悪い流れを断ち切ろうとする決断だった。だが、これも辞任によって白紙になってしまう可能性が高くなっている。
 そして何より、森喜朗の言いなりにならず、オリンピックの費用を激減させたこと。他のどんな知事が、あの強権に対してここまでできただろうか。金にケチだというなら、ケチだからこそできたことではないか。この難しい案件で都の官僚、議会をコントロールする行政手腕は政治家として有能な証だし、舛添知事の功績として最大の評価を与えてよいと思う。
 私も、言論人時代の舛添氏は、大嫌いだった。その見方が変わったのは、厚生労働大臣の時だ。労働行政は芳しくなかったけれど、少なくとも厚生の分野では、生来の優秀な官僚になりうる能力を発揮し、かつ官僚を抑える政治家としての力量も見せ、労を惜しまず現場からの声を聞き、案外とよい行政を行ったと思う。タカ派的言動が鳴りを潜めてきたのもそのころからだった。そこには、親の介護体験も大きく影響していただろう。
 舛添氏の金の問題を等閑視してよいとは私も思わない。態度に傲慢なところがあるのもいただけない。だが、議会を通じて糾せば済むレベルの話ではないか。それをよりよい政策実現の駆け引きに使うなりすればよいではないか。政策に賛同できないのであれば、次の選挙で落とせばいい。
 結局、ほとんど誰も舛添氏の行った政策を見てないのだなと思う。この非難の嵐の間、政策をある程度検証したうえでの批判など、皆無だった。生活保護バッシングと何も変わらない。叩いてよい対象となったから、叩いただけだ。そして、その暴力の欲求は、相手が降参するまで追い詰めないと、収まらない。
 こんなことで、政治が成熟するわけがない。湯浅誠さんが言うように、政治は結果だ。どんな政策を実行できたかが大切で、その政治家を好きだとか嫌いだとかは、そのあとで考慮すべき要素なのだ。私だって人としては好きではない。でも、気に食わないから辞めろと言えるのは、自分たちが政治に参加して責任を負っているという意識が希薄だからだ。
 それでも相手を打ちのめしたい衝動を抑えられないのは、その当人の傷ついたアイデンティティの問題だと、私は感じている。そして、有権者が自分のアイデンティティの問題を政治に持ち込むのは、大いに気をつけるべきだと思っている。これはこないだの参院選や各種のデモについても思う。集団的熱狂にアイデンティティを置き過ぎ、自分の心の拠り所としてしまうと、その外部が見えなくなり、外部の人たちの考え方が許せなくなる。これは自分にもその傾向があるから、自戒を込めて言っている。
 舛添知事の都政は、この極右化、ポピュリズム化する社会の中で、防波堤的存在になっていたと思う。舛添氏が辞めることで得をするのは、リベラルではなく、極右化を希求する人たちだ。
 原発の反対運動は80年代までに原理主義化して、自分たちの理想以外の声を許さなかったがゆえに、マジョリティの関心を失い、気がつけば54基もの建設を許してしまった。リベラルな人たちは同じ過ちを繰り返そうとしているとしか、私には思えない。
 この都知事選の結果がどうなるのか。私は、後悔してもしきれない結果も大いにありうると思っている。
「都知事選、小池氏が序盤先行 鳥越・増田氏が追う」
 野党共闘で出た鳥越氏も、ジャーナリストとしては尊敬しているが、青島都知事の例を思い返すと、都政というのは一筋縄でいくものではなく、大丈夫だろうかという心配ばかりが先立つ。何だか、あのときと似ているのだ。
 5年で4回の都知事選という異常事態の中(いったい幾らかかっているのだ)、世のバッシング欲のために行うことになったこの選挙を、私は受け入れたくない。だが、選挙権を空洞化させたくもないので、投票には行く。自分たちで政治を壊している証としての選挙なのだと記憶しながら。

参議院選について2016-07-10

 参議院選がいかに大切かについて、書きます。
 憲法改正がかかっているという意味でももちろん大切なのですが、私はより根本的な意味から、参議院議員がいかに必要かを感じています。
 それは自殺対策支援を見てきたからです。一般的には派手な政策ではなく、あまり知らない人も多いと思いますが、自殺者がこのところ減少しているニュースは見たことのある人も多いでしょう。
 これは政治が動いたからです。そして、それを動かした中心は、参議院議員たちなのです。
 まず、政治が動いたというのは、自殺対策基本法という法律を、10年前に議会が作ったことです。この法律では、自殺は個人の問題ではなく、社会的な要因が引き起こす、追い込まれた末の死であり、行政はそれを防ぐための措置を取らなくてはならない、ということを明記しました。
 行政は法律に縛られ法律で動くので、自殺対策基本法ができたことで、自殺対策をしなければならなくなったのです。その成果が少しずつ出ているわけです。
 今年は、この法律が成立してから10年で、法律の足りないところもはっきりしてきたため、より具体的に突っ込んだ法律とするよう、改正されました。
 これらすべては、官僚主導ではなく、議員が動くことで、官僚の理解も進み、この法案と政策に文字通り命をかける官僚と一緒になって、実現したことです。
 政治家に働きかけたのは、民間で自殺対策支援をしている人たちです。10年前には、民主党の故・山本孝史参議院議員が民間の現場を知り、各党各会派の議員に呼びかけ、賛同した議員が党利党略を超えて超党派の議員連盟「自殺対策を推進する議員の会」を作り、議員立法として成立させました。
 今年の改正法案も、同様に超党派の議員連盟が精力的に動いて、成立にこぎつけました。
 専門性を持つ民間と政治家と官僚とが、よい形で連携し、民主党政権であろうが自民党政権であろうが、変わらずに自殺対策を進められたのです。
 なぜ、超党派の議員が協働できたのか、私は気になっていましたが、「自殺対策を推進する議員の会」の自民党議員は、「参議院だからできた」と言っていました。解散のある衆議院では、どうしても政局に支配されてしまう。党利党略に距離を置くことが難しくなる場合も多いが、参議院はそこから距離を置くことができる。加えて良識の府であるという自負もある。
 現状のような強大な与党が揺るぎない状態にあっては、党派を超えて政官民を連携させた自殺対策のような方法は、実際の制度を変えていく上で、私は唯一と言ってもいいぐらい重要なやり方ではないかと思います。
 差別・ヘイトスピーチを禁じた反ヘイト法が成立した過程にも、似た要素が多々あったと思います。
 政局に左右されず、党派にとらわれずに立法にこぎつけうるという点で、参議院議員は大切な機関なのです。地味かもしれないが、現実の政治は地味なことの積み重ねで行われます。それが、制度をよりよく変えるための唯一の方法です。
 まずは参議院議員の選挙で投票することが、その一歩です。少しだけ労力をかけて、投票所に足を運んでください。見えないところで、少しずつ変わっていくかもしれないのだから。

2014年12月11日(木)2014-12-11

     シニカルな沿道

 ヘイトスピーチの氾濫を沈静化させたいという意思を表明するため、11月2日の「東京大行進」に参加した。昨年に続いて2回目の実施であるが、参加者は昨年の倍以上の約2800人(主催者発表)。実際に2回とも歩いた私にも、去年より爆発的に増えたという実感がある。
 新宿の中心を練り歩くコースだったのだが、街頭の反応はなかなかよかった。特に、外国人やセクシュアル・マイノリティー、路上生活者たちに、何らかの賛意を表明する人が多かった。飛び込みで行進に加わる人も少なくない。
 差別的な暴力が野放しで、まわりも見て見ぬふりをするような状態だった昨年から比べると、異を唱えようとする人々が増えているのは確かだろう。
 だが、社会全体がそれとは逆方向へ動いていることも感じた。ヘイトに無関心である人たちの反応の仕方に、ある傾向が見られたのだ。
 例えば、行進が大きな交差点に差しかかったとき。信号待ちの通行人が、「いつまで道ふさいでんだよ、迷惑なんだよな」とつぶやくのが聞こえた。私の知人は別の場所で、「道路占拠してまですることか」という声を聞いたという。
 おそらく、その人たちはヘイトスピーチに賛同というわけではないが、反対デモにも関心はないといったところだろう。無関心なら、無関心なりの態度を取ればよいと思う。だが、そこでシニカルな拒絶反応を示してしまう。私はここに、日本社会の性格がよく表れていると思うのである。
 世界中どこでも、デモは行われている。韓国でもメキシコでもブラジルでもアルゼンチンでも、私はデモを見た。そのデモに反対する人々が、カウンター行動をするのも見た。無関心な通行人もむろんいる。だが、その通行人がシニカルで軽蔑的な態度を取る様子は、見たことがない。
 要は、他人のすることを、そこまでいちいち気にしていないのだ。同調圧力が常態となっている日本では、「迷惑」という言葉のもとに、いちいち気にして難癖をつけないと気がすまない。特に、政治的社会的な言動に対しては、激しいアレルギー反応を示す。
 これは私の現場である純文学の業界でも同様である。小説が政治的だったり社会派的だったりする題材を扱っていると、図式的な紋切り型と見なして強い拒絶を示す書き手が少なくない。だが、世界の小説に目を向ければ、政治が小説の中に描かれるのはごく普通のことである。なぜなら、政治は生活の一部だから。政治的主張を小説で行ったのなら批判されるべきだが、政治を描くことにまで拒否反応を示すのでは、たんに政治をタブー視しているだけになってしまう。沿道のシニカルな態度とあまり変わらない。
 そしてさらに憂うべき事態も進行している。活字メディアによる、自粛である。この原稿を書いている間に、私はとても看過できない事例を二つも知った。一つはリベラルな出版社のケースで、右派に攻撃されかねないという判断により、刊行予定の本から一部の文章を削除したというのである。私の聞いた限りでは、そのくだりは事実誤認を含んだりするものではなく、何の問題もないように感じられた。もう一つは新聞社が原稿をボツにしたケースで、やはり内容的に問題にならないばかりか、むしろ新聞社としては載せて当然の記事だと思えた。いずれも、直接の圧力があって屈したわけではなく、メディアが自ら自由な言論を放棄している。世の空気に進んで同調しているという意味で、自粛というよりもはや自己検閲の領域に入りつつある。これは氷山の一角であろう。
 このように、日本社会はさまざまな領域にいたるまで、虚無的な態度が染み渡っている。ヘイトの衝動をもたらす源は、この虚無だと私は思うのである。
      (北海道新聞2014年11月14日朝刊 各自核論)