政治について2022-07-26

 政治について。
 選挙のたびに、だいたい民主党、立憲民主党に投票している。けれど、もう何年も、投票するたびに罪悪感を抱いている。なぜなら民主党は、特に立憲民主党になったあたりからは明確に、自民党政治の補完勢力だとしか思えなくなったから。もはや本気で政権交代を目指すことなく、「政権を担いうる自民党以外」という選択肢を、ただただ消滅させていくだけの勢力としか、感じられないからだ。この党に投票し続けることは、自民党政権を延命させる補完勢力に加担している、という気持ちになる。気持ち、ではない、事実そうなのだ。
 立憲民主党が自民党政権の補完勢力であると感じる最大の根拠は、安倍政治に対する正確な分析がまるでできていないことである。特にその根幹をなす経済政策、アベノミクスの評価だ。アベノミクスのせいで経済は悪くなった、格差は開いたと批判し続けてきたが、事実はまったく違う。
 たとえば、このブログを読めばわかる通り、「失われた30年」をようやく終わらせることができたのは、アベノミクスによるものだ。(このブログでは今の円安に対して金利引き上げをするのはなぜおかしいか、についても詳細に解説してあります。一読の価値あり)
https://note.com/gyamaguchi/n/nfe629f91d172?fs=e&s=cl
 解説されているようにデータがはっきり示しているだけでなく(これを統計の改変と思う人は、ほぼネトウヨと同じ思考方法だと疑ったほうがいい)、私はこの社会の中間層のマジョリティの人々から、経済が良くなり自分の経済状態も上向きに安定していることをいろいろ聞いた。新卒の雇用が良いことも聞いた。もちろんコロナ前だが。アベノミクスを批判するリベラルな人たちの耳には、その人たちの声は入ってこない。
 安倍政治で問題だったのは、社会福祉政策と貧困対策、人権政策だ。この問題のターゲットになる人たちに対しては、徹底して冷たかった。そして、ヘイトスピーチを容認するかのような態度をとったことで、この社会にヘイトとは言った者勝ちという文化を定着させたこと、他人の意見を聞かず強権的に組織を運営することをよしとした結果、日本中のごく小さな組織までもが強権的運営をするようになったこと。
 問題は書ききれない。私だってテレビで安倍総理の顔を見るのも声を聞くのも嫌だった。けれど、だからこそ、本気で政権交代を実現させることでしか、あの首相を引きずり下ろすことはできないと思ったし、そのためには、安倍政治がなぜあんなに支持され、選挙で勝ち続けられるのか、正確に分析する必要があると思った。そしてそれがアベノミクスの成功によるものであることは、そう理解の難しいことではないように思えた。
 安倍政治の経済政策は、ごくまっとうなマクロ経済政策で、これは左派の政治が行うものだと私は学んだ。民主党の経済政策は、財政均衡を求める規律政策で、財務省が強固に求めている超保守派の経済政策だ。数年前にEUのスペイン、イタリア、ギリシアで財政危機が起きたとき、財政均衡を条件とするEUはドイツが中心となって厳しい緊縮財政策を求めた。これは貧乏人に対し、借金をしてでも助けてやる、のではなく、借金を返したら助けてやる、といってる政策で、苦しい人たちからさらに搾り取るやり方だった。猛反発がそれぞれの国で起こり、急進左派ポピュリズムの勢力が台頭した。ギリシアのチプラス首相、スペインのポデモスなど、緊縮財政策に反対し、積極材政策を訴える勢力である。
 赤字国債がほぼ国内で購入されている日本と、対外債務が巨額な南欧の諸国とでは、経済政策も変わってくるが、いずれにせよ、財政均衡策は、ケチな金持ちがさらに庶民から吸い上げて貯金を貯め込むような政策であり、金の流れを停滞させることで金のある人間がより生殺与奪券を持つようになる、特に経済的弱者に非常に冷酷な経済政策だ。
 アベノミクスはその反対の政策であり、民主党が掲げてきたのはこの、中間層にも弱者にも冷酷な経済政策である。私には、民主党が敗北し続けた原因は明白に思える。
 何年か前に、「リベラル懇話会」というリベラルな立場の学者の有志が、民主党と勉強会を行い、経済政策についてもマクロ経済政策の重要性をレクチャーしている。
https://libekon.wordpress.com/
 が、当時の民主党はこれを自分たちの政治にまったく反映させなかった。私としては、民主党が自民党の補完勢力に成り下がってしまったのは、このときだったと思っている。変われる最後のチャンスを逸してしまった。あの時点で、民主党はもう、安倍政治に負け続ける一本道を選んでしまった。
 立憲民主党の掲げる人権政策はどれも必要だし、その専門的な能力を持つ立憲の議員も国会には居続けてもらわないとならない。だから、私も投票して無駄だったとは思っていない。
 けれど、私は自分のアイデンティティのために投票はしない。政治で大事なのは、その政党が好きとか嫌いとか、その政治家を尊敬できるとかできないとか関係なく、少しでもマシな制度を作って運用してくれることだ。民主党はアベノミクス以上にしっかりしたマクロ経済政策を訴えて、世のマジョリティの票も集めることに精力を注ぐべきだった。そうすれば、政権交代は可能性を増し、掲げている人権政策を遂行する機会も得られた。
 しかし、自分たちを支持してくれるリベラル層の夢にどっぷり浸かり、共産党との選挙協力という毒まんじゅうに手を出した。支持政党のない中道のマジョリティから目を背け、ジリ貧の左派政党同士で組むことを選んだ。こんな見事な補完勢力ぶりはあるだろうか。自民党に投票する中間層からは、票を奪おうとしないのだから。
 もはや民主党は小政党への道まっしぐらである。嫌いな安倍の政治はロクでもないものに決まっていると決めつけ、安倍政治の成果から目を逸らした。民主党も、そこにアイデンティティを委ねた支持者たちも、自分たちの見たくないことを見ないできたのだ。私はそれを希望依存症と呼んでいるが、現実を見たいようにしか見ないという意味で、それは歴史修正主義者たちと同じメンタルの構造にあると思っている。これをカルト状態という。
 安倍政治を止めてより良いものにするためには、敵を正確に知らなくてはならなかった。敵の強みと弱点を、正確に見極めなければならなかった。なのに、「おまえの母さんデベソ」と言っていれば勝てるかのような態度を取り続けた。
 私がこんなことを言うのは恐ろしいが、維新やN党や参政党の台頭するなか、政党政治が崩壊していくことの歯止めは安倍元首相となってしまっていた。その意味がどれほど深刻か、民主党は受け止められなかった。この人が亡くなった今、自民党はどこまで持ちこたえられるか。ほどなく、より最悪な政治家が権力を持つことになるかもしれない。それは政党政治のふりをしながら、実際はそれを崩壊させる勢力となるだろう。

追記・ナチスのくだりは乱暴すぎる論でしたので、削除しました。

『マスコミ・セクハラ白書』2020-03-03

AppleTV +(アップル版のNetflixみたいなもの)で、鳴り物入りで作られたドラマ『ザ・モーニングショー』がすごく良かった。アメリカのドラマの底力を見せられた。
大手テレビ局の報道番組の看板キャスターである男性が、複数の女性スタッフからセクハラで訴えられ、降板させられるところから始まる。#MeTooをテーマにした作品だが、優れているのは、その告発にとどまらず、被害者加害者傍観者それぞれの人物の立場から出来事を描いている点だ。それぞれの言い分、見え方、振舞う理由があり、それらを丁寧に押さえている。誰の中にも悪人と善人の要素があり、出来事には複雑な過程があり、シングルストーリーで決めつけられるわけではないのだ。
そうであっても、このドラマは振るわれた暴力に理解や達観を示すような真似はしない。ドラマ終盤で詳らかにされていくセクハラの実態は、あまりにもおぞましい。そして、その恐怖と痛みが加害者の世界像には入ってこない様子まで描いて、出来事を徹底して批判する。
リアルすぎて私は自分が被害者の被害を追体験している気分になり、震えがきて、涙が止まらなくなった。レイプのノンフィクション『ミズーラ』を読んでいる時と同じ状態になった。
AppleTV +は1週間は無料体験できるので、ぜひ見てほしい。
内部が圧倒的男社会である日本のメディアで、このレベルのドラマが作られるのはまだ当分先だろうが、じつはこのドラマに匹敵する本が先ごろ刊行された。
『マスコミ・セクハラ白書』(文藝春秋)で、新聞社や出版社、テレビ局などで働く女性社員や、フリーランスの女性ライターらが、これまで受けてきたセクハラを明らかにした本である。WiMN「メディアで働く女性ネットワーク」が企画刊行した。
セクハラ・性暴力を報じる側にいたメディアの女性たちが、自分たちの組織・業界に蔓延するセクハラ・性暴力の被害の当事者として、自分たちを語ったわけである。
これが、どれほど勇気と気力のいることか、自分の傷がまた化膿するような行為か、前書きと後書きを読むだけでずしんと伝わってくる。
この本を私自身も無傷では読めない。
私は大学を卒業してから、まず新聞社に記者として就職した。
研修の段階で、私はすでにつまずいていた。同期の男同士で交わす会話は、女性体験(恋愛話とは異なる)や品評や風俗などの手柄話がかなりの割合を占めていたのである。そのありさまは、本書第1章の「『おっさんクラブ』ノリという魔物」で詳細に書かれているのと同じだ。記者になる男たちは、大学時代の男友達より、そういうことにより積極的な人が多かった。こういう経験に満ちていないと、一人前の記者にはなれないんだ、と私は思い込んだ。日々、苦痛の連続だった。
結局、私はなじめず、脱落した。それだけが理由ではないが、私は会社を辞めた(バブル時代だったから簡単に辞める決断ができたのは確か)。
その後曲折を経て小説家デビューし、今度は文学業界で生きることになった。ところが、ここもまったく同じ文化だったのである。尊敬していた男の書き手たちの、そのような言動を見るにつけ、心砕かれた。それで私は、業界の端にはいるけれど、その人間関係からは離れた。
そして、背を向ける態度をとってきたことに、ずっと苦しい思いをしているわけである。『マスコミ・セクハラ白書』を、被害を受けた当の女性たちに語らしめている大きな動機に、その被害をなかったことのようにして黙って流してきてしまった、そのために温存に加担してしまったという罪の意識がある。ヘテロ男性である私がそれ読むとき、耐え切れないほどの責任を感じる。
この本に書かれていることは、メディアの中だけでなく、日本中に満遍なく行き渡っていることだ。ただ、メディアはそれを報じ、批判してきた。だからこそ、自分たちの現場を明らかにする使命を、この語り手たちは感じたのだろう。
お互いに聞き合って記事にする、という方法からは、相互に語ることがその先へ進む力になるという、回復のあり方もほの見える。
本書は、何と、メディアからは黙殺に近い扱われ方をしている、とも聞く。挙げられた声に応えて、声の命を止めずに生きさせるのは、言葉を受け取って読む側の役割だ。
例えば安倍首相の会見の横暴さを変えたいなら、メディアを支配する権力性を批判できる体質にかえていかなければならない。そのためにも、このセクハラの実態を尊厳を持って語った本が、もっと広く読まれる必要があると思う。


入管政策2019-03-24

 在留特別許可が10年で8割減となっていることについて、私の信頼する、外国人ビザの件を長年手がけてきた弁護士の友人は、下に引用する見解を述べています。
 入管政策については、入管の特質をよく見極めている人の分析を知らないと、的外れな批判になってしまうし、そうであるかぎり入管の思うツボです。痛くもかゆくもないでしょう。
 友人の弁護士は、入管について、個々人の役人の性格や思惑を超えた、さらには政党の政策さえ超えた、より大きな流れと「管理行政なるものの意思」みたいなものに動かされていることを、現場からずっと指摘しています。それを理解しないと、入管政策を動かしうるほどの批判は成立しないでしょう。

 以下、友人の弁護士の見解です。
「理由はいくつかある。1つ目は入国管理の厳格化で不法滞在者そのものが激減したこと、2つめはそれに伴い異議申出をする件数が激減したこと、3つめはそのような状況のもとで単純な婚姻在特等が減り、実刑判決を受けた者など難易度が高い事件の割合が増えたこと、4つめは約10,000件が許可されていた時代は不法滞在者半減計画遂行中で目標達成のために在特のバーゲンセールを行っていたこと、5つめは2009年の改正ガイドラインがもともと不法入国者を不法残留者と違って不利に扱うなど厳格化を施行していたこと、6つめは2012年改正の在留管理の厳格化で在特に消極的な入管の態度が優勢になったこと、7つめは出国命令制度と仮放免中の就労禁止で単純な婚姻在特なら帰国して再入国の方が合理的になったこと。単純に数が減った、許可率が低くなったというのであれば、1~4のインパクトは明確。厳格化は5~7だけど、こちらは影響はなかなか判定しにくい。」
「「五輪がどうの」って、基本的に入管にそういうトピカルなネタに反応する発想はないよ。だから五輪が終わっても元には戻らない。入管制度は、入管にとどまらないより大きな「管理の厳格化、非人間化」という思想のもとで理解しなければならない。」
「背景にはこの20年で劇的に進化したテクノロジーの進歩と、そうした進歩のために可能になり、それゆえに強化された管理の思想がある。外国人登録証が紙で作られていた時代には、摘発しきれないがゆえにお目こぼしされていた部分が、今はなくなってしまったが、それに抗う思想がない。そこを一番強く感じる。」


ピクサーのアカデミー賞映画『リメンバー・ミー』は移民の物語だった2018-04-15

 メキシコの「死者の日」を題材にしたピクサーのアニメ『COCO(邦題は『リメンバー・ミー』)』のスペイン語版を、ようやく見た。ハマった。滂沱の涙。これは「死者の日」の物語の形を取っているけれど、じつは移民の物語だ。本当によくできている。メキシコ人やラテンアメリカの人の文化やメンタリティをよく捉えたうえで、その人たちの多くがどこかで経験するだろう、移民の別離と再会の感情を繊細にすくい上げている。
 ネタバレになるので、ストーリーは紹介しない。とにかく主人公の少年ミゲルは、ひょんなことから、死者の日に死者の国へ紛れ込んでしまうことになる。
 この死者の国と生者の国をつなぐのが、大きな淵にかかった橋。死者の日には、死者はこの橋を渡って、生者の国に行き、親しかった生者たちとの一夜限りの再会を楽しむ。といっても、生者には死者の姿は見えない。帰ってきているだろうな、と漠然と感じるだけ。
 この橋は、アメリカとメキシコの国境を暗示している。なぜなら、死者の国を出るときに、死者たちは「出入国管理局」めいたゲートを通過しなくてはならないから。そのゲートでは、死者は写真を取られ、データと照合され、生者の国で親族たちが確かにその死者を祭壇に祀って戻ってこられる準備がなされている、と確認できると、死者はゲートを通過して橋を渡れる。一方、死者の国に帰ってくるときは、生者の国からのお土産を渡せば済む。つまり、生者の国がアメリカで、死者の国がメキシコということになる。メキシコにいる者たちは、アメリカに親族がいて呼び寄せてくれないと、正規には入国できないのだ。
 そして、日本語版のタイトルともなっている主題歌、「リメンバー・ミー」。映画の核となる部分で歌われるのだが、これが英語版の歌詞と、スペイン語版の歌詞では微妙に表現が異なる。
 ガエル・ガルシア・ベルナルが吹き替えで歌う、スペイン語版の「Recuérdame(レクエルダメ、「エ」にアクセント)」は以下の通り。
「Recuérdame hoy me tengo que ir, mi amor
Recuérdame
No llores por favor
Te llevo en mi corazón y cerca me tendrás
A solas yo te cantaré
Soñando en regresar

Recuérdame, aunque tenga que emigrar
Recuérdame
Si mi guitarra oyes llorar
Ella con su triste canto te acompañará

Hasta que en mis brazos estés
Recuérdame」
 もう、歌詞を見ているだけで号泣しそうになる。
 この中に、「Recuérdame, aunque tenga que emigrar」という一節がある。「移民しなければならないとしても、ぼく(パパ)を忘れないで」というような意味。英語版では、「Though I have to travel far」となっていて、移民というニュアンスは弱められている。
 スペイン語の歌詞はもう、移民、出稼ぎに命がけで遠い異国に行く別離の歌という側面が濃厚なのだ。これをアメリカにいるメキシコ移民やラテンアメリカの移民たちが見たら、まさに自分たちの物語だと感じるだろうし、その心を歌う歌に感情を揺さぶられずにはいられないだろう。トランプ大統領への批判に満ちた今年のアカデミー賞で、この作品が長編アニメ賞を受賞したのも、作品のできのよさだけではなく、この政治的な側面の優しく根源的な表現によるものだろう。
 移民のことに関係が薄い人が見れば、それはそれで深く感銘を受けるドラマとして作られている。でも、移民という出来事に無関係でない人が見れば、まさにそのようなドラマがもう一つ立ち上がって、胸に迫ってくる。物語を幾重にも重ねて、でもシンプルに作るこの奥行きの深さに、私は感嘆した。物語作りの経験の深さと、政治性への感性の豊かさと、それを表現する優雅な手つき。書き手としては、とっても学ぶところも多かった。でもそれ以上に、受け手として、この物語に心の底から感銘を受けた。
 でもこの主題歌、「COMO」にちょっとメロディーが似てるよね。
 なお、私はこの作品を、パソコンでリージョンコードを変えて見ればいいと思い、メキシコのブルーレイディスクで入手したのだが、私のパソコンの再生機はDVDのみでブルーレイ対応ではなかった。がっかりして、ダメもとでテレビにつないであるブルーレイ対応のハードディスク録画機で再生したところ、なんと普通に見られるではないか。ブルーレイディスクについては、日本とメキシコは同じリージョンコード(リージョンA)だったのだ。8つのリージョンに分かれているDVDに対して、ブルーレイは3つのみ、しかもアメリカも日本やメキシコと同じなので、これらは日本の再生機で普通に見られるということのようだ。知らなかった。

「私たちの部落問題」2017-06-27

 625日(日)に上智大学で行われた「私たちの部落問題」という講義とトークのイベントに行ってきた。本当に本当に素晴らしかった。心から、参加してよかったと思った。
 上智大学の出口真紀子先生の「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業の枠であり(この授業自体、すごく魅力的)、かつABDARC(アブダーク)というグループが企画した公開イベントでもあるため、学生も外部の人もいろいろと混ざり合い、会場を直前に大きな教室に変えねばならないほど、ぎっしり満席に近かった。
 ABDARCとは(Anti-Buraku Discrimination Action Resource Center)の略で、「鳥取ループ裁判」という非常に悪質な部落差別事件の裁判に関わりながら、差別全般をなくすよう取り組んでいる、若い世代の有志の集まりである。「鳥取ループ」とは、「全国各地の被差別部落の所在地などの情報をインターネット上に晒している宮部龍彦氏らがそれらのアウティング行為をする際に名乗っている名称が鳥取ループ」(ABDARCのサイトより)。
 恥ずかしいことに、私は「鳥取ループ裁判」もABDARCも、最近まで知らなかった。そもそも、中上健次をこれだけ読んでおきながら、部落差別については基礎をきちんと学んだことがなかった。でも人とのつながりの中でアブダークや裁判のことを知り、このイベントを知り、遅まきながら向き合うべき時が来たと思った。
 会場に入るなり感激したのは、聴覚障害者のためのモニターが用意されていて、話される内容がリアルタイムの打ち込みで文字化される、と説明があったことだ。
 これもとある集まりで知り合った難聴の方から、UDトークを入れるなどしてくれないとシンポジウムや講演は聞きたくても聞きに行けない、とうかがってから、いつも気になるようになっていた。
 私自身も軽度の難聴で、会場が静かであれば聞き取りにさほど困難は感じないが、それでも声の小さい方のお話や映像の音声となると、途端にわからなくなることがある。なので、これは大変助かった。
 今回はUDトークではなく、すべて手打ちだった。担当した方は決してその道のプロではなく、大変だったと思う。ありがとうございました。
 そして、本当に恥ずかしいことだけど、初めて知った今の部落差別の実態は、想像を絶するひどさだった。川口泰司さんがパワーポイントで示したネットによる差別の具体例を見て、初めてヘイトデモを目にしたときのような、体のわななくようなショックを受けた。激情がほとばしりそうになるのを抑えるのがやっとだった。インターネットを使ってアウティング(晒し)を拡散させていく部落差別が凄まじいことになっていると知識としては知っていても、具体例は見てこなかったので(検索したくないし)、それを目にして、自分が暴力を受けた気分になった。差別とは心に対する暴力なのだ。川口さんはご自身とご家族の体験も語られたが、私は怒りと悲しみの感情が決壊してしまった。川口さんは体を張って、差別の現場がここにあることを示されていた。
 イベントが始まるときにも、まさにここが差別の現場であることを示す強烈な出来事があった。言論の自由とは、身の危険を感じずに安心して自己表現できる環境のことだが、それが何によって保証されるのか、根本から考えなければならない出来事だった。暴力による恐怖の存在する中では、どんな保証も空約束でしかない。
 この事件への対処によって、この場での言論の自由が保証されることが明確になったことが、会場に力を与えたと思う。その後の登壇者も、まさに体を張って発言されていた。そのことが、このイベントを生命力に満ちたものにした。
 部落問題の基礎を話してくださった齋藤直子さんのお話がまた素晴らしくて、要は部落を差別する根拠はあやふやで誰にも実証も論証もできるものではなく、差別する理由は差別される側ではなく差別する側にある、ということを、聞く人にもそのロジックの訳のわからなさを体験させるという形で教えてくれた。
 齋藤さんはつい先日、『結婚差別の社会学』(勁草書房)という本を出され、これも現代の結婚差別がどんな形で起こっているか、たくさんの証言から示しながら、差別の力学を分析したものだが、差別の実態を示すだけでなく、それに悩む人と共に考えるような実践的な側面も持っている。差別をなくそうという意思が貫かれていて、自分は差別意識を持っていないと思っている人たちがじつは関わっていることの多い部落差別の現実を知るために、必読の書である。
 トークでは、マジョリティが差別の実態を知らずに間違ったイメージで思い込んで無関心のままである限り、差別は続き、放置され、悪化していく一方なので、マジョリティにどう現実を伝え、当事者、非当事者、両者の問題なんだと認識してもらえるか、について話し合ったが、とても根本的で一筋縄ではいかない問題なので、結論が出るわけではない。ただ、まさに今日、このイベントに参加したことで、この問題ではマジョリティでありこれまで関わりのなかった私が、小さな一歩を踏み出せた。主催してくださった方々の意思のおかげである。
 打ち上げでABDARCの方々とお話ししていて、ここ数年で起こったヘイトスピーチへのカウンター活動を、アンチ部落差別活動にも導入していきたいというようなことをうかがい、カウンター活動は確実に差別を無効化していくための実践的な知恵として蓄積・方法化されてきているのだなあと、会の始まりに起こった事件の対処も含めて、実感した。そのことは、劣化する一方の社会にあって、明るい要素だ。
 このイベントのタイトルは「私たちの部落問題」である。この「私たち」には、私も入る。当事者にも非当事者にも、一緒の社会を作っている以上、自分たちの問題なのだ。当事者が生きやすい社会は、非当事者も生きやすい。そして、誰もが何らかの当事者性を持っている。そう感じられるイベントや場が増えれば、明るい要素はますます増えるだろう。ABDARCと「鳥取ループ裁判」に注目してほしい。
 そうそう、日曜日の上智大学という環境もよかった。なぜなら、上智大学にあるイグナチオ教会には、日曜のミサのためにいろいろなルーツの人たちが集っているから。私はあの雰囲気が大好きで、特に今はフィリピン系のコミュニティが大きくできていて(この日も女の子たちがダンスの練習をしていた)、この人たちがみんな高安に夢中になっているはずだと思うとワクワクするのだ。その傍でビッグイシューを売っているおじさんもいる。これがどこでも普通の光景になるといいな。