2012年11月20日(火) ― 2012-11-20
言葉が引き寄せる戦争
「最悪の場合、日本で戦争が起こるかもしれない」。
そんな言葉を冗談ではなく日本社会で目や耳にするなどという事態は、47年の私の人生で初めてである。尖閣諸島をめぐる中国との関係悪化のただ中、にわかに「戦争」という言葉が世に増殖し始めた。
中国政府の先行きが不透明で、また未曾有の軍備拡張を続け、制服組の発言力が次第に増している中、その可能性がまったくないとは私も思わない。政治は、最悪を想定しながら外交を行うべきだとも思う。しかし、最悪を想定するのはあくまでもその芽を事前に交渉で摘むためであって、相手をより先に威圧するためではない。今、社会に流通する「戦争」という言葉には、「そうなる前に相手を叩け」と言わんばかりの攻撃性が含まれているように感じる。
私はこの状況をとても異様に感じる。どのように異様か。例えばオウム真理教の地下鉄サリン事件を思い出してみよう。
さまざまな証言によると、オウム真理教が社会を教団の敵と見なし、テロを行っていく武闘路線へ転換したのは、教祖の麻原彰晃が総選挙でほとんど票が取れなかったことが一つのきっかけだったとされている。麻原は、社会の陰謀によって得票数が操作された、と本気で思い込んでいたという。それほど自分たちの教団は社会から敵視され、実際に抹殺されようとしている、という被害妄想が麻原の中で膨れあがり、やられる前にこちらからやってやる、という行動に出たのだ。
オウム真理教がその当時、日本社会で白眼視されていたのは事実である。だが、世の中が積極的に教団を抹殺しようとしていたわけではなかった。「やるかやられるか」といった二項対立状態ではなく、話し合う努力をすれば共存を探れる余地はいくらでもあった。実際には「嫌われている」だけだったのが、教祖の心の中では「殺されようとしてる」に変わってしまったのだ。
不安と怒りに心を支配されている状態で、「攻撃されるかもしれない」「戦争になるかもしれない」と思い始めれば、それはたちまち現実になる。戦争を避けられる選択肢がいくつもあるにもかかわらず、「戦争」が強迫観念となり、それ以外の現実がないかのように感じられてくる。「振り込め詐欺」のニセ電話でパニックに陥った被害者が、冷静に考えれば詐欺だとわかりそうな場面でも、たやすく大金を振り込んでしまう精神状態と同じだ。そうなると、取るに足らないいさかいが、殺し合いにまで簡単にエスカレートする。
今の日本は、とにかく叩いて憂さを晴らしたいという欲求に満ちている。いわば「バッシング依存症」の状態で、より刺激の強いバッシングでないと気が済まなくなっている。罵倒とも言えるようなその言動で支持されてきた橋下徹大阪市長が、「日韓で竹島の共同統治を」と述べたとたん、支持率を激減させる。政治家たちはもはや、バッシング中毒の社会に煽られて、攻撃的な発言を繰り出すようなありさまだ。
自分たちを戦争に導くのは、「戦争になるかもしれない」と思って恐慌状態に陥る私たち自身の心だ。その恐怖が、無謀で冗談のような攻撃を引き起こす。不安を粉砕したくて熱狂と興奮を求め、戦争に解放すら感じるようになる。中国と日本の双方がそのような状態に陥ったら、それこそ明日にでも戦争は現実化するだろう。どちらかが小さくでも先に手を出せば、もはや揺るぎのない理由ができてしまう。尖閣諸島が問題なのではない。相手が攻撃してくるかもしれないという恐怖がある中で、実際に相手が攻撃してきたという事実が、妄想に正当性を与え、その妄想を実現化させてしまうのだ。お互いの被害妄想を本物にするために挑発しあっているのが、今の現状である。
(初出:北海道新聞2012年10月19日付朝刊 各自核論)