2013年11月21日(木)2013-11-21

 秘密保護法案は、もしかすると憲法の改悪よりも深刻な事態を招く、最悪の法だと思っている。これが可決されたら、日本は戦後の民主国家から、北朝鮮や中国、アラブのいくつかの国家のような、アンチ民主主義国家となりうるだろう。そうなっても、有権者には何もできない社会になるだろう。
 この法案の何が悪いのか、「絶対」と「相対」を軸に、私の考えを表明しておこうと思う。私は法学を原理的に学んだわけでもないので、この文章は論ではなく、あくまでも現在を考えるための手がかりである。
 近代と民主主義は、「絶対」への批判から始まったと私は思っている。キリスト教圏で、社会を司る原理は、神だとか王だとか皇帝だとかの絶対的な言葉だった。「絶対的」であるとは、何人もそれを疑ったり批判したりしてはならないということである。その掟が正しい理由は、神(など絶対者)の言葉であるからであり、それ以外の説明は存在しない。絶対的な言葉とは、その存在理由を説明する必要のない言葉なのである。
 そのような絶対的な言葉への疑いを、社会のある一定の量の人々が抱くようになり、為政者が自分の決めた絶対的ルールの正しさについて説明をしなければならなくなり、現実には人々の納得できる説明ができなくなったとき、社会を司るルールは神など絶対者の言葉でなく、みんなで合議の上で決めた言葉としよう、つまり議会で決めた法に拠ろう、としたのが、民主主義ではないかと思う。
 ここで重要なのは、社会を司る言葉である法に対して、誰でも疑う権利を持っている、という点である。絶対的な言葉は疑いを許さなかったが(だからその言葉の主以外改変は許されなかったが)、相対的な言葉である法はどんな者でも疑ってよいのである。疑った結果、間違いを含んでいると一定量の者が認めれば、その法は議会で変えることができる。
 しかし、秘密保護法の場合、その法が秘密であると指定した秘密については、疑うことが許されない。なぜ秘密なのか、それを秘密とすることが妥当であったのかどうか、その存在理由を説明する必要がなくなる。秘密指定の範囲に事実上制限がなく、それを検討する外部機関も設置せず、しかるべき期間の後での公開が義務づけられてもいない。つまり、空間的にも時間的にも、その秘密を相対化することはできない。為政者がそう望めば、その秘密は永久に闇に葬り去られる。そして秘密に抵触した者は、秘密に触れたという理由だけで、罰せられる。なぜその秘密に触れたら罰せられるのか、その理由も説明する必要はない。つまり、秘密の指定をする者は、絶対的な存在となるのである。秘密保護法の言葉と、指定された秘密は、絶対的な言葉として社会を司り始める。あらゆる法を機能停止させる法が、秘密保護法である。法を超える超法規である。
 すべてのルールは相対化され、誰でも疑うことができ、議会を通じて変えることができるのが、民主主義の根幹なのだから、そのルールの中に疑ってはならない絶対的な領域ができるのは、民主主義に抜け穴ができることであり、土台から民主主義が崩壊していくことを意味する。
 例えば、外国大使館の敷地内には治外法権があり、日本の国境の内側にあっても日本の法の支配が及ばない。日本社会の人は、その大使館の内側のルールについては、疑うことを許されない。秘密保護法が成り立てば、日本政府自体が治外法権を持つようなものである。日本政府が秘密保護法に基づいて行うことは、日本社会の有権者が疑うことを許されず、変えることもできず、理由もわからないまま従わなければならない。
 戦前戦中に軍政の暴走を止められなかった一つの要員は、社会を司るルールの中に、触れてはならない部分があったからである。治安維持法に基づく取り締まりは、その理由を説明する必要がない。天皇の意思と言葉に基づくとされれば、疑うことは許されない。その両者において、説明にならない説明として用いられたのが、「国体を護る」という言葉である。この言葉が出てきたら、いったい何が国体なのか、どう国体を傷つけたというのか、説明を求めたり疑義を挟むことは許されない。
 民主主義の根幹は、すべてを相対化することである。何をどういう理由で秘密としたのか、その秘密指定は妥当だったかのか、少なくとも一定の未来(その秘密指定に責任を負う者がまだ生きているぐらいの未来)に検証できなくては、民主主義は失調する。民主主義でなければ何であるのかといえば、独裁政治か、宗教原理主義の体制である。理由のわからないルールの言葉にただ支配されるか、神の絶対的な言葉を受け入れて洗脳されるか、どちらかである。オカミに弱く、その場の空気に従いやすく、その空気を疑わない傾向の強い日本社会は、宗教国家の様相を帯びやすい。戦前の日本もそうだった。
 秘密保護法下の社会では、何を自分たちは秘密にされ、知らないでいるのか、わからなくなる。機密に近い一部の行政機関の人間やメディアの人間だけが、うすうすと、どうやらあの関連のことを自分たちは知らされないでいるらしいと感じるだけで、社会の大半は、秘密にされていること自体を知らなくなる。何が秘密になっているのかを知らなければ、与えられる情報をただ鵜呑みにすることになる。大本営発表が機能するのは、社会がそのような状態になっているときである。安倍政権はすでに、この手法をとって政権運営をしている。肝心なこと、騒ぎになりそうなことは隠しておけば、何をしても今の世間は騒がない、と知っている。それを法の言葉としてルール化してしまえば、疑っている者たちをも封じ込められるというわけだ。
 このような秘密保護法を、アメリカは制定することを求めている。民主主義を破壊しうる法を、民主主義を信奉するアメリカが要求しているということは、アメリカは秘密保護法下で起こる人権侵害を黙認することになるだろう。日本は、サウジアラビアやムバラク政権下のエジプトなどの「親米アラブ国家」のような存在になりかねない。
 絶望的なのは、民主主義を破壊するこの法が、民主的な選挙の結果によって成立するという事実だ。秘密保護法案に賛成か反対かの世論調査では、反対の法が多数を占める。けれど、先週の内閣支持率は、50%を大きく超えている。日本の民主主義の岐路であるこの法案について、内閣支持率に結びつくほど重視している有権者は少数派なのだ。
 私は民主主義という制度は、サッカーに似ていると思う。あるチームの中に、そのチームの方針について無関心な者が半数近くいたら、そのチームは機能しないだろう。このチームがうまく行かないのはチームを引っ張る選手がいないからだ、誰かもっと責任持って引っ張れよ、と選手たちが思っていたら、チームは崩壊するだろう。俺は守備の人間だから攻撃のことはそっちで決めてくれ、と思っている選手が何人かいたら、サッカーにならないだろう。守備陣が頼りないから俺が守備までする、と思って、攻撃の選手が守備までも一人で全部引き受けようとしたら、そのチームも勝てないだろう。チームが機能するというのは、それぞれの選手が自分の役割を100%こなすために、他のポジションの選手の役割を理解しようとし、話し合い、信頼と責任を作り上げたときに可能となる。たまにしか集まれない代表も、お互いに関心を持ち、異なる意見をぶつけ合うことで共有できるビジョンを作り上げ、本番のときだけでなく所属クラブでの日常から考え努力をし続けてこそ、チームの体裁を取り始める。
 民主主義も同じである。政治の決めることに日ごろから関心を持ち、自分なりに考え、その意見を時間をかけてぶつけ合うことで、共有できるビジョンを作り上げれば、社会は有機的に変わっていくだろう。今の日本社会は、有権者(選手)が日ごろはチームの方針やビジョンについて関心を持たず、さして考えもせず、大きな試合の時だけ思いつきのような意見を口にし、有能な監督をよこせと要求し、うまく行かなければ監督や他のチームメイトのせいにし、うまく行かない本当の原因を探ろうとはせず、だからその原因を取り除くこともできず、チームはどんどん崩壊している、といったところであろう。自分がどうにかしようという自覚を持ち、そのために全力で他の選手とも協調する、という態度のない状態では、よい結果は得られるはずもない。
 選手ほどの重責を担うのは難しいと思うのなら、せめて自分の応援するチームをより魅力的にするために関心を持ちづけるサポーターぐらいの努力はできるだろう。
 民主主義とは、その社会に生きている人間たちが、必要に応じて自分たちの手で社会を作り変えられる制度である。民主主義を手放したら、私たちは自分たちで自分の社会を変えることはできなくなる。今まで以上に、誰かの利益のための犠牲者として生きるほかなくなる。その地獄ぶりは、そのような社会になってみないとわからないのだろうか。

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