稀勢の優勝2017-03-26

 左からの攻めを封じて右のみで相撲を取って、稀勢の里が優勝した。しかも、本割、決定戦と照ノ富士に連勝して。そのこと自体はすごいことだし、価値ある優勝だと思う。今場所の優勝の価値が下がってしまいそうになっていたけれど、それを取り戻しての優勝だし、怪我する前の12日間、優勝に値する横綱相撲を取り続けてきたのだから、文句なしである。ただし、本割での突き落としの際、稀勢の里は照ノ富士のマゲを思いきり掴んで引きずり落としている。本来なら反則負けを取られてもおかしくないが、昨日の照ノ富士の卑怯な勝ちがこれで相殺されたということで、見なかったことにする。
 ただ、もうこんなことは起こらないでほしい。怪我を押して、力士生命を失うことを賭けての優勝が称揚されることは、少しも喜ばしくない。稀勢の里の怪我が致命傷でなくて、また元通りの相撲が取れるようになることを祈るのみだ。
 照ノ富士も、あんな無理な相撲を取り続けた結果、また膝の傷を悪化させた。今日の相撲では、膝が負荷に対してまったく耐えられなかった。こんな相撲を繰り返していたら、一時的に復活しても、すぐに力士生命の終わりが来る。負担を減らす相撲を覚える努力をしてほしい。怪我人決戦はもう見たくない。

無意識のモンゴル人力士叩き2017-03-26

 大阪場所はダイジェストで見ており、生中継での館内の様子はあまりきちんと見ているわけではないので、これはあくまで印象に過ぎないのだが、気になるので書いておく。
 14日目、ご当地場所である兵庫県出身の実力者、妙義龍は、7敗ともう後がない。14枚目だから、負け越せば十両に陥落する可能性も出てくる。対戦相手は、このところ力をつけて来た千代翔馬。勝負はあっけなく決まった。立ち合いから千代翔馬に突き落とし気味のいなしを食らったら、自分からバランスを崩すようにして土俵に崩れ落ちた。傷めている膝が堪えられないのだろう。
 異様だったのは、この時の館内だ。妙義龍の呆気ない敗戦と負け越し決定にがっかりし、ため息をつくのはわかる。だが、館内はシーンと静まり返ったまま、千代翔馬が勝ち名乗りを受けても拍手もないというのは、おかしくないか。
 千代翔馬は普通に相撲を取っただけで、非難されるような卑怯な手を使ったわけでもない。どちかというと、妙義龍の自滅気味の敗戦だった。にもかかわらず、千代翔馬を無視している。
 こんな館内の空気は私はほとんど味わったことはない。勝ち力士に拍手するのは、プロ力士への礼儀だ。誰も千代翔馬を応援していないだけでなく、ご当地力士を負け越しに追い込んだ相手を無視する。こんなことは大相撲では起こらなかった。
 13日目の横綱対決では、日馬富士が会心中の会心の相撲で稀勢の里を秒殺。しかし稀勢の里が肩に大きな怪我を負ったがために、ネット上では日馬富士を罵りバッシングする言葉があふれた。これにはさすがに稀勢の里ファンが怒っていた。
 14日目、照ノ富士対琴奨菊という、優勝を占う一番。琴奨菊はこれに負けると大関復帰が絶たれる。稀勢の里が怪我をした今、照ノ富士はこの一番に勝つと限りなく優勝に近づく。そんな大一番で、照ノ富士はなんと立ち合いに変化するという、期待を裏切る相撲で勝った。私もがっかりしたし、頭に来た。大阪体育館に足を運んだお客さんはなおさらだろう。ブーイングが飛んでも仕方はない。
 しかし、問題はその後、次の取り組みの日馬富士と玉鷲が土俵に上がっても、まだ罵声を放ち続けている人が大勢いたことだ。経験豊かな日馬富士が「あんなブーイングは初めて」「聞いたこともない、すごい言葉で言ってきた」と驚くほどのえげつない罵声が飛び交った。そして、日馬富士は集中を乱され、負けてしまう。「相撲を取るどころじゃなかった。集中してるけど耳に入ってしまう。次の一番に集中してる人のことも考えてほしい。大けがにもつながるから」(日刊スポーツ)と述べざるをえない事態だった。
 照ノ富士の相撲は批判されて然るべきものだが、館内で起きたことは、それをはるかに超えるものだった。私は、相撲観戦の名を借りた憂さ晴らしであり、相撲を成り立たなくさせうる「荒らし」みたいな行為だと思う。
 妙義龍と千代翔馬、稀勢の里と日馬富士、琴奨菊と照ノ富士、いずれもモンゴル人力士が、相撲観戦のマナーを踏みこえる形で観客から敵意をぶつけられている。おそらく、対戦相手がモンゴル勢でなければ、ここまで行き過ぎた事態にはならないだろう。モンゴル勢なら不満をいくらでもぶつけていい、鬱憤を晴らす相手にしてよい、そんな無意識が働いていないだろうか。それを排外的な差別感情の発露ではないと言えるだろうか。そのような観戦の仕方をしている人に聞けば、モンゴル力士を差別してなどいない、と言うだろう。けれど、差別とは無意識に出てくるものなのだ。
 醜い、「日本出身力士ファースト」の意識が、この差別を育てている。土俵上で起こることは、この社会でも起こる。先場所で、もう引き返せる地点は過ぎてしまった。

 それと14日目の、豪風対蒼国来戦の判定について。蒼国来は豪風のいなしに泳いだが、土俵際ギリギリで残り、向き直って両者また攻防を始めたところで、東方の田子ノ浦審判が手を挙げ、蒼国来の足が出ていたとして勝負を終わらせた。だが、ビデオで見返すかぎり、蒼国来の足は出ていない。蛇の目の砂に、足の跡はまったくついていない。蒼国来が足の指は土俵の外についていないと強く主張してるのを見ても、誤審の可能性が高いと思う。豪風も同意しているという話も聞く。
 この疑わしい判定がさして問題にもならずにスルーされたのは、田子ノ浦親方が稀勢の里の師匠だからではないか。稀勢が出場すべきかどうかについて、正直なところ、田子ノ浦親方は状況をコントロールできていない印象を受ける。稀勢は出場を、自分だけで決めて、貫いている。もちろん、力士がどうしても出るといえば親方にも止めようはないが、それ以前に相談さえされているかどうか。そのような状況にあって、田子ノ浦親方が誤審をしたとなると、批判が田子ノ浦親方に集中しかねない。それで、NHKも本当はいくつもの角度の映像から検証できるはずなのに、そうはせず、田子ノ浦親方が足が出ているというのだから出ているということでしょう、で終わらせて、この問題を封じてしまった。私にはそのように映った。
 攻防のあるとてもいい相撲だったのに、こんな判定はあんまりである。いい加減にしろと言いたい。

稀勢の里と照ノ富士の怪我について2017-03-25

 稀勢の里、左肩の怪我を押して、今日14日目も強行出場するという。
 貴乃花になぞらえる人もいるけれど、私はあまりいいことだとは思わない。貴乃花ファンだった私は、今でもあの武蔵丸との相撲を見返すたびに胸が苦しくなる。あれで貴乃花の相撲人生が終わったからだ。歴史に残る優勝だとは思うけれど、ファンとしてはあんなことはなくてもよかった。あのとき休場して、もっと多くの優勝争いを見られたほうが、ずっと幸せだった。
 稀勢の里にはこれから充実した横綱人生が待っているのだから、無理をしてほしくはない。それでも出場してしまうのは、今の稀勢の里ブームで背負っているとてつもない期待に応えたいという使命感と、やはり優勝したい気持ちだろう。
 同じく優勝を争う照ノ富士も、2年前に終盤戦で同じように大怪我を負い、しかし優勝争いトップだったために、強行出場した。星は落としたものの、鶴竜と優勝決定戦となり、負けた。そして怪我が長引き、今場所の復調まで、約2年近くかかった。因果関係はわからないが、私はこのとき無理に出場しなければ、もう少し怪我は軽く済んだのではないかと思っている。けれど、横綱大関陣の相次ぐ休場で大関としての責任を感じていたことと、優勝のチャンスを逃したくない気持ちとで、強行出場した。照ノ富士が今場所優勝すれば、あの時点でおあずけになった優勝を取り戻した気分だろう。
 稀勢の里はもう若くはないのだし、怪我のないことが強みの一つであった白鵬も、30歳になって一度怪我をしてからは、怪我の連続である。実際には長い間の負荷が溜まって、満身創痍なのだ。稀勢だってそうならないとは限らない。
 照ノ富士は、かつてのスケールの大きな相撲が戻って、とんでもなく強く見えるが、これもファンとしては、苦々しい思いで見ている。あの相撲が照ノ富士の魅力であることは間違いないが、身体中の関節に多大な負担をかけるから、長くはもたない。まして体重と上背のある照ノ富士は、そのうち膝が体を支えられなくなるだろう。本当は、怪我で苦しんでいるうちに、立ち合いの鋭い、緻密で負担の少ない相撲を覚えてほしかった。怪我は、相撲を変えるチャンスだった。そうなれば、復調したらすぐ横綱になれるし、長持ちもするだろう。今の相撲では、またいつか致命的な大怪我をする。怪我を生かせなかったことが残念だ。

 14日目の取組後、追記。
 案の定、稀勢の里は左肩がまったく動かず、痛みを我慢しているような状態のため、相撲にならなかった。相撲にならない姿を見せるのは、プロとしては責任を果たしているとはいえない。休むという判断ができることも、プロの、横綱の使命の1つだと思う。
 私は、このような、怪我を押して我慢する姿を見せることが美談になることに、非常な違和感を抱いている。それは特攻精神みたいなものに近似している。出場している本人にそんな意識はないだろうが、これを美談として礼賛する側は、後先考えない玉砕に感動するメンタリティを育ててしまうことになる。
 しかし、それで優勝の可能性が高くなった照ノ富士もいただけない。大関復帰が絶たれるかもしれない琴奨菊との一番に、立ち合いでの変化。これから上を目指す力士のすることか。膝の具合がまた悪くなっているという話もある。心配したとおりだ。
 何だか優勝に価値のない場所になってしまった。

稀勢の里横綱昇進への異議2017-01-23

 稀勢の里の優勝、長い長い長い間の重圧を思うと、この安堵と喜びは、稀勢とともに落胆し続けてきたファンにしかわからないものもあると思う。入門時から横綱候補と言われてきたその才能と努力がようやく報われたことを心から祝福したい。稀勢の里関もファンの方もおめでとうございます。
 しかし、それと横綱昇進とは別問題だ。私はただただ唖然としている。40年相撲を見てきて、こんな事態は初めてだ。
 いくつもの問題が重なっているのだが、まず最も不可解なのが、どうして昇進できるのか、その基準が明確に示されていない点だろう。昨年の年間最多勝であること、安定した成績や優勝争いの多さ、優勝次点の多さなど、理由はいくつも挙げられているが、問題はそれらの成績は今まで横綱昇進の条件として顧みられたことはほとんどない、ということ。
 横綱昇進の基準は、1987年の双羽黒の廃業以前と以降とで分けられる。双羽黒(北尾)の廃業以降は、横綱審議委員会の内規である「二場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」が、極めて厳格に適用されてきた。「準ずる成績」の部分に解釈の余地があるわけだが、1990年の旭富士からは、「優勝力士と同成績での準優勝」つまり優勝決定戦で敗れての準優勝のみに限定されてきた。実際には鶴竜がこの同点準優勝と優勝だったほかは、8人全員が連続優勝を果たして昇進している。
 今回の稀勢の里については、前の場所は優勝次点とはいえ星2差の12勝とレベルが低く、今場所は2横綱1大関と当たらなかったばかりか、不戦勝も含まれている。厳密にいえば13勝1敗である。これまでならば確実に横審へ諮られることはなく、来場所が綱取りということになっただろう。
 この評価基準については常に賛否があり、それを見直すのであればそれはありだと思う。ただし、きちんとした議論を経た上で、新たな基準を事前に明確に示してから、綱取りに臨んでもらうべきだ。議論もなく、結論ありきで突然基準のほうを合わせるのはあまりにもご都合主義で、横綱の地位を損なってしまう。
 そこにもう一つの問題がある。稀勢の里は今場所について、はっきりと綱取りの場所と明示はされずに臨んでいるのである。私は、綱取りのかかった場所という重圧の中で、連続優勝できるかどうかを見ることは、横綱審査の重要な一要素だと思う。稀勢はそれをスルーさせてもらってしまったのである。八角理事長が場所の始めに、「横審の規定にはないが、年間最多勝は評価すべきであって、優勝すれば、内容いかんでは横綱の声も出てくるかもしれない。ただしそれは審判部の裁量なので、あくまでも私見だが」というような内容のことをインタビューで答えていただけ。これを綱取りのかかった場所と規定するには、あまりにも根拠が薄弱である。
 喩えて言えば、1次2次を突破しないと合格できない試験で、1次試験をクリアしたところで、「君は普段の成績がいいから、2次試験は特例で免除で合格ね」と言われたようなものである。制度にない特例を急に持ち出すのでは、上げ底合格、コネ合格と言われても仕方ない。
 さらに問題は続く。稀勢の昇進は、前例となるのである。では今後、年間最多勝をとった大関はどんな力士であれ、内容いかんにかかわらず優勝すれば横綱になれるのか。協会、横審は、稀勢を横綱にした根拠を明示し、今後の力士にも厳密に適用する義務がある。果たしてそんなことができるのか。今後はなあなあで、力士によって横綱にしたりしなかったりが出てくるのではないか。
 このような、根拠のはっきりしないままの横綱昇進の例が、北尾(横綱双羽黒)である。2場所連続で千秋楽での敗北により準優勝だったことを「優勝に準ずる」と解釈し、さらに将来性という曖昧な理由を持ち出し、優勝経験のないまま横綱にした(仮免横綱と言われた)。それが次第に負担となり、結局優勝できないまま暴力事件を起こして廃業することになる。その教訓から、内規の厳格な運用が行われるようになったはず。
 なぜ性急に北尾を横綱にしたかといえば、当時は千代の富士1人しか横綱がおらず、当時急成長して大相撲人気を支えていた「花のサンパチ組」(昭和38年生まれの北尾、小錦、寺尾、琴ヶ梅ら)から早く横綱を誕生させたいという思惑が協会にあったからである。
 今回も、この性急で曖昧すぎる昇進決定には、「日本人横綱」誕生のチャンスを逸したくないという焦りが丸見えである。裏を返せば、来場所に綱取りをかけたら稀勢の里はまたチャンスを逃すかもしれない、と信頼のなさを表明しているようなもの。稀勢の里も舐められたものだと思う。稀勢が逃したらまた何年か「日本人横綱」は誕生しないからだ。実際、長年稀勢の里を支えてきたコアなファンからは、この昇進を素直に喜んでいない様子をけっこう見かける。普通に2場所連続優勝を課せばいいだけのことではないか。私は稀勢の里なら十分それを果たせるし、そうして手に入れた自信は稀勢の里をさらに強く魅力的な横綱にすると信じている。
 ではもし例えば照ノ富士がこのような状況にあったら、こんなにまで条件を下げて突然の横綱昇進を認めただろうか。これは「日本人」にだけ許された特権ではない、と協会や横審は証明できるのか。
 相撲には相撲の世界なりの平等さ公平さがある。それを捨ててしまった大相撲業界のやり方に私は失望したし、軽蔑の念も覚える。
 法令を遵守せずに、世の熱狂だけで押し切ってしまうこのやり方は、法治主義を壊す依存症文化を育てているようなものである。その熱狂のためにナショナリズムを使うと、いつかナショナリズムに自分たちの首を掻き切られるだろう。

館内の「コール」について2016-11-25

 九州場所13日目、優勝争いも大詰めを迎えている。
 まず、稀勢の里から。今年に入ってにわかに稀勢の里キラーになっている栃ノ心が、会心の相撲で稀勢の里を倒した。私が思うに、横綱を三タテにした相撲は確かに強かったが、立ち合いから自分のペースだったかというと、すべての取り組みで押し込まれていた。相手をよく見ているという見方もあるが、前半の無気力相撲の延長で、決していい立ち合いをできていないとも言える。それでも勝ったのは、白鵬に負け寸前から逆転したことで、にわかに闘争心に火がついたせいだろう。白鵬戦以降、稀勢の里はいつもと違い、立ち合い前に目を細めて相手にガンを飛ばしている。つまり、喧嘩上等の気分で臨んでいたのであろう。綱取りの間は、自分に集中しよう平静であろうと努めていて、こういう目はしていなかった。その結果、鶴竜戦、日馬富士戦と、自分の武器である強烈な左差し一本で相手を吹き飛ばした。
 しかし、格下の栃ノ心にも喧嘩上等で臨んでしまった。今日も栃ノ心を目を細めて睨みつけていた。それが、相手の攻めに「意固地になって」(伊勢ケ浜親方)右ノド輪で攻め返し、自分の武器である左からの攻撃を忘れるという愚を犯す原因となった。左から攻めれば、栃ノ心には負けない。でも、やられたらやり返すということで頭がいっぱいになり、栃ノ心のペースにはまってしまった。芽生えつつある苦手意識も、足を引っ張っただろう。逆に栃ノ心は、うまく取れば勝てるという自信を持って臨んでいただろう。この取り組みも、凄まじく集中した栃ノ心のほうがいい立ち合いをし、稀勢は押し込まれた。まだチャンスが潰えたわけではないが、前半で無気力相撲を取って早々に優勝争いから脱落した力士が、そうあっさりと優勝できはしない。
 ところで、今場所は、いわゆる「コール」(手拍子とともに力士の名を三拍子で呼ぶ声援)が、地元九州出身の力士と綱取りの豪栄道に集中し、稀勢の里に対してはほとんど起こっていなかった。先場所まではあんなに稀勢コールばかりだったのに、綱取りがなくなるとこの扱いか、現金なものだ今の観客は、と私でさえ稀勢に同情したくなるほどだった。ところが、白鵬戦になると、途端に前日とは段違いのコールが起こる。そして横綱を破るごとにそのコールは大きくなっていく。
 大変感じが悪い。百歩譲って、にわかに優勝の目が出てきた強い力士を応援したくなるのは当然ではないか、と言うのなら、今場所は、素晴らしい内容で圧倒的に強く安定している横綱・鶴竜にもっと声援が飛んでいいはずである。初日から13日目まで、ずっとトップを走って優勝争いを引っ張っているのだ。しかも(残念ながら)いつも優勝している横綱ではない。この絶好調ぶりに、館内が鶴竜を応援してもいいはずだ。だが、鶴竜コールは、一度も起こってはいない。10年前だったら、今場所の鶴竜は確実に大声援を受けただろう。
 これが何を意味するか、言うまでもないだろう。今の相撲は、国籍・民族で、応援される・されないが左右されるのである。感じが悪いこと、おびただしい。コールが起こるようになってから今まで、私はモンゴル系の力士に大コールが起こったのを聞いたことはない。この場所も、モンゴル系の力士に対して私がコールを耳にしたのは、わずかに子ども数人の声による、貴ノ岩と照ノ富士への声援だけである。私も毎日相撲中継をくまなく見ているわけではないので、もしかしたらもう少しあったかもしれないが、いずれしても、館内を覆うコールが起こるのは、「日本人」力士に対してだけと言ってよい。そもそもコールなどという、それまで相撲には存在しなかった応援が登場したのは、「ニッポン」を応援するという、この日本人自画自賛ブームの一環でしかない。「ニッポン」であれば、相撲でも何でもいいのである。そして、「日本人」力士なら、誰でもいいのである。そのようなメンタリティと、非日常空間で盛り上がりたいという衝動とが、無意識のうちにモンゴル系力士を仮想敵としてしまっているのだ。
 話題変わって、今日の解説は、私の大好きな旭富士の伊勢ケ浜親方。サービス精神ゼロ。感情や物語も無視。視聴者の期待に応えるつもりなし。ひたすら、最小限の言葉で的確な取り口の解説をするのみ。普通の解説では聞かれない微細なレベルまで、二言三言で明解に説明してくれる。
 それによると、遠藤は立ち合いがワンパターンなのが、命取りになっているという。低い姿勢から左差し右前みつを狙うという形のみ。相手からしたら、何をしてくるかわかっているので対応しやすい、と。立ち合いの鋭さの進化に目を奪われていたが、確かにそうだ。「勝った相撲はいい内容だけど、負けた相撲は内容ゼロ」と遠藤自身が言っているが、その理由はここにある。