岡村淳さん新作『リオ フクシマ2』レビュー ― 2018-04-14
岡村さんによる紹介文は次の通り。
「西暦2012年にリオデジャネイロで開かれた環境をテーマとした地球サミットに並行して、世界中の市民団体が集うピープルズサミットが開催された。
岡村は、日本から福島原発事故の問題を訴えるという団体のサポートをしながら撮影をすることになった。
賛否両論、絶賛と黙殺の錯綜した前作『リオ フクシマ』公開から4年。
福島原発事故とは、なんだったのか?
そのおさらいと同時に、世界各地の人々との福島をめぐる熱いメッセージと議論の応酬をご紹介します。」
岡村さんの集大成だと感じた。岡村さんがこれまで作品で追求してきたテーマが一覧の形になって顔を覗かせている。土地なし農民運動はやはり石丸さんを思い出すし、植物については橋本梧郎先生、ダムについてもこれから完結編が作られるだろう橋本梧郎と水底の滝シリーズ、環境問題についてはアマゾンの水俣病や、作中でも触れられるがユーカリによる砂漠化とそれを分析したインドの物理学者ヴァンダナ・シヴァさんの本を岡村さんが読み込んだ経験、カンデラリア教会前の児童たち虐殺事件の痕跡は『あもーる あもれいら』で描いた子どもの貧困問題、そして高校生とのやりとりは私の大好きな佳作『きみらのゆめに』のような未来そのものの感触。何よりも、コメントを求めたときのブラジルの人々の言葉の生きている感じ。自分で話している、自分の言葉で語っているという感触が濃厚にあふれてくる。
私が印象的だった人物は、やはり高校生たち。『きみらのゆめに』でも印象的だったけれど、言葉が素直に出てくる。素朴とか正直というわけでなく、相手に下手なことを言ったらどうしようという緊張から解放されていて、自然に自分の言葉が出てきやすくなっている。この感じは、忖度社会の日本社会で生きる人たちには、なかなか体現できないだろうと思う。岡村さんが、ご自身の身に合ったスタイルを打ち立てて続けていることにも、この環境が力をくれた部分も大きいのだろうなと、今日、「優れたドキュメンタリーを見る会」の飯田さんへの言葉をお聞きしながら、感じた。自分が生きていることを肯定するのにためらわないというか。
それから、福島へのメッセージを即興で歌い上げた、ブラジル東北部から来たという吟遊詩人。東北部の文化は私にはよくわからないが、セルタネージャとかの世界かな? ヒップホップは現代の吟遊詩人なのか、などと考えたりもした。
そして、インドの科学者ヴァンダナ・シヴァさん。エネルギーがほとばしるような語りだった。
本作の主役と言ってよい、NPOの代表である坂田さんを、岡村さんは最後にリオ近郊の森林公園にお連れする。森に入ったとたん、坂田さんの様子が一変する。魂に火が灯るかのような命の輝きを、放ち始める。あたりの草や葉を見聞する姿は、橋本先生かと見まごうほど。このシーンを用意してカメラに収めてしまう岡村さんの霊力に、何百回目かだけど、また仰天してしまった。この坂田さんの魅力が、さかのぼって坂田さんの言葉すべてを生きたものに戻した。ブラジルの人たちの言葉に拮抗する命を持った言葉なのだったと知ることになる。植物好きの私としては、あのシーンから受けた大きな感銘の正体とは、私自身の循環と再生にほかならないのだなと思った。
岡村さんの撮影はいつでも、その場で一番力の弱いもの、下に置かれてしまうもの、に反応する。カメラはそれを見逃さずに収めてしまう。ひょっとしたら撮影している岡村さんでさえ、あとで見直して気づくようなこともあるかもしれない。
この作品でも、人が行き交うピープルズサミットの会場で、岡村さんのカメラは細かくそれに反応し続ける。時には岡村さんご自身が、下に置かれた存在になることもある。
なので、どんなに立派なことを語っていようが、岡村作品で偶像化される人は誰もいない。その言葉を語る高潔さと、時にはどうしようもない人になってしまう短所とが、常に相対化されながら、断罪されることなく描き出される。それが、語られるコメントを、血の通ったものにしているのだろう。
これを見てしまった私は、ふらふらと国会前のデモに出向いた。そういう気持ちにさせる作品なのだ。のみならず、私はその参加者の一員でありながら、岡村さんのカメラにでもなったかのようなつもりで、そこに来ている人、デモの参加者もそのアンチの集会をしている人も、警備の警官も、ある等距離を持ちながら見続けていた。
『リオ フクシマ2』は、東京では5月3日に新小岩でのメイシネマ映画祭でも上映されるので、お見逃しなく。
なお、岡村作品をほぼ初めて映画館で上映した(少なくとも私が岡村作品の映画館上映を見たのはここが初めて)、毎年この時期恒例の優れたドキュメンタリーを見る会による下高井戸シネマでの上映会は、今年で最後となるとのこと。残念だけれど、この約10年、これが私の大きな楽しみだった(また来年以降も場所を変えての可能性は続くとのことです)。最初に映画館での上映が決まった時の岡村さんの喜びようも印象的で、やはり映画少年だった人にはあの暗闇とスクリーンは何にもかえがたい愉楽をもたらす。毎年、岡村作品がここで見られて幸福でした。主催者の飯田さん、ありがとうございました。
大相撲の土俵女人禁制問題について ― 2018-04-05
昨日、巡業の土俵上で挨拶していた舞鶴市長が突然倒れ、駆け寄った女性たちが心臓マッサージなどを施している最中に、「女性の方は土俵から降りてください」とアナウンスがあった問題。ニュースを知り、その場の映像を見た時には私の頭も沸騰し、感情的な言葉を吐いてしまって落ち込んだが、その後の八角理事長のコメントを読んで、まずは納得した。コメントは次のようなもの(4月5日付スポーツ報知より)。
「本日、京都府舞鶴市で行われた巡業中、多々見良三・舞鶴市長が倒れられました。市長のご無事を心よりお祈り申し上げます。とっさの応急措置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます。応急措置のさなか、場内アナウンスを担当していた行司が『女性は土俵から降りてください』と複数回アナウンスを行いました。行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫(わ)び申し上げます」。
余計な言い訳をせずに対応が間違っていたことを認めたのだし、昨日の過ちに関しては、終わりにするべきだ。
こういうことが起きるたびに、私はひどく消耗する。私もこの対応には怒りを覚えたが、それは長年、この件(本場所などの土俵上を女人禁制にしていること)に嫌な思いをし続け、苦しい思いを抱えてきたからだ。このことは後ほど展開する。
昨日の事例は確かに批判されるべき出来事だが、いまの巷では、相撲界はいわば「非国民的」な非常識集団なのだからいくらでもバッシングしていい、という空気のもと、相撲をよくするとかその文化を現代に合ったものに変えていくといった観点など全く欠いたまま、ひたすら自分たちが溜飲を下げるための対象としてバッシングされ続けている。昨日の件への批判も、大半はそんな心根から発せられた、言い捨てのようなものだった。叩いていいという空気ができたらいくらでも叩いてよくてそうすれば正義の気分を持っていられて実際には憂さ晴らしの暴力でしかなくてもマジョリティの側からのバッシングだから罪悪感を抱かないでいられる、って、もう究極の理想的な全体主義でしょ。
そんな反応の中には、「貴乃花親方はこういう協会の旧弊な体質を変えようとしていたのだ」というような意見もあって、あきれた。あの人ほど、戦前のような家父長制をベースとする復古主義的な相撲に戻そうとしている人はいないのであって、協会の誰よりも女人禁制主義者ですよ。世を教育勅語の世界に戻そうとする人を、改革派の英雄に祭り上げているメディアの姿勢は、橋下徹前大阪市長をヒーローに祭り上げたのと同じ姿勢であり、そのメカニズムやメンタルの精緻な分析は、松本創さんの名著『誰が『橋下徹』をつくったか』を読むとよーくわかる。貴乃花親方は、民主的な相撲協会を実現するうえで、最大の障壁なのだ。
なので、バッシングではなくて、自分にとっての相撲を壊してほしくないという思いから、私は今回の事件について批判を述べたい。
2007年から11年までに噴出した不祥事の後、相撲協会は明らかにそれまでの相撲協会から変わろうと、さまざまな努力はしていると思う。多々、認識の甘い点があるため、もっと徹底して変えなくてはならないものを変えられないでいたりして、その最大の事例が、相撲の現場における暴力容認、鉄拳制裁は必要悪、みたいな意識だろう。日馬富士の事例から垣間見えたのは、これは日馬富士の性格の問題ではなく、相撲界全体でまだ共有されている暴力文化の問題だな、ということだった。その後、細かく、暴力の問題が発覚しているのは、そういうことだろう。同時に、それが相撲界の中でも問題視されるようになったから、顕在化することも多くなったのだろう。その意味では、変わろうとする意識が形を伴いつつある証拠であり、いいことだと思う。
ただ、顕在化するたびに、先に述べたような、たんなる苛烈な集団いじめでしかないメディアと世間からのバッシングにさらされる。そして事件の当事者が廃業に追い込まれていく。バッシングの欲望は、ターゲットの敗北を眺めて優越感に浸るのを目指しているから、そこまで追い込まないと気が済まない。
私はここにはものすごい違和感がある。こういうあり方はおかしいし、あってはならないと思っている。
これはあくまでも私の相撲観だが、相撲は社会的なセイフティーネットの役割をどこかに持ち合わせていると思う。家族や地域社会で支えきれない、端的に言えばはみ出し者たちを10代半ばから預かり、生活を含めた居場所としていく。かつての芸能の側面が強かった時代は、よりその色が濃かっただろう。今はだいぶその色は薄いけれど、関取や役付にはなれない力士や行司、呼び出し、床山たちの世界には、まだそういう要素が残っていると私は感じている。相撲部屋が疑似家族制なのは、未成年のはみ出し者を育てる場所としての家族環境、という意味合いもあっただろう。
そこで重要なのは、失敗を許す環境である。指導の仕方は硬軟いろいろあるだろうが、失敗から学ばせて成長させていく場であることが、個々人の尊厳を作っていく。はみ出し者たちも多くいる集団だから、派手な失敗も多いだろうし、時には度を越すこともあろう。でもそこで相撲界から放逐するのでなく、学ばせていく。その機能が大相撲にはあると思うのだ。
しかし、今のメディアと世の態度は、これと大きくかけ離れている。一度失敗をした者は、相撲界から追放しないと気が済まない。ここには、相撲界をよくする意思も、失敗した個人を学ばせて経験値を上げようという意思も、皆無だ。あるのは、人が落ちていくのを見て喜びを感じるという嗜虐性のみだ。
もちろん、同じ過ちを繰り返し続けるとか、度を超しすぎた事件を起こすとか、その人の経験や立場など、勘案するべき事項はある。けれど、まだ若く経験の少ない者の過ちに関しては、学んで立ち直らせることに全力を注ぐべきだし、相撲界が蓄積させてきたその経験は活かすべきなのだ。それが社会的包括だと思う。
その中で、では相撲界がどんな基準で、過ちを判断し、どの方向に導くのか、その点がいまは本当に問われるべきこととなっている。そして私の大きな不満と違和と苦しさもそこにある。
鉄拳制裁の問題に関しては、徐々にではあるけれど、改善して行こうとしているので、見守りたい。
けれど、差別の問題は手付かずだ。
一つは、私がずっと書き続けてきて『のこった』という本にもした、外国人や民族、国籍差別の問題。館内で起こる差別的な声援に対し、今だに何の対応もなされていないし、モンゴル力士、特に白鵬をターゲットにしたメディアとネットの差別的攻撃に対しても、相撲協会は何も手を打ちもしなければ、声明を出したりもしない。それどころか、横審が差別を煽る言動をしても、それを受け入れている。親方になるために日本国籍が必要という、国籍差別の条項を見直す機運も、まったくない。
そしてもう一つが、今回、顕在化した、性差別の文化の問題である。この記事によると、(「女人禁制の土俵、いまも賛否 「女性総理になったら、杯を誰が…」」朝日新聞with news)
「いまも女性は国技館の土俵には立てない。毎年夏に国技館で開かれる「わんぱく相撲全国大会」には、女子が地方予選で優勝しても出場できない。
力士の断髪式でも、息子は土俵に上がって引退した父親のまげにハサミを入れられるが、娘は、それができない。土俵の下から花束を渡す子が多い。」
横綱貴乃花のファンだった私は、貴乃花の引退以降、十余年にわたって相撲を見るのをやめていたが、その原因に、2000年に起きた太田房江・大阪知事(当時)を土俵に上げない問題があったことを、今回、思い出した。大阪場所で優勝力士への知事賞の表彰をしようとしたところ、相撲協会から、「女性は土俵に上がれない」として却下された事件である。
身分制そのもののようなこの対応に私自身がやりきれない思いでいっぱいになったし、私の親しい女性の友人たちから、「そんな相撲をそれでも見るんだ?」という批判的な眼差しを浴びせられた。ただでさえ、貴乃花ファンであることに、自分でも分裂した苦しさを抱えていたのに(力士として心酔していることと、人間としてはどうしても受け入れられないという拒絶感と)、こんな時代錯誤の差別を押し通そうとされたら、もうこちらも耐えられない。その気分も、私を相撲から離れさせた大きな要因だった。
そのことを忘れていたのは、近年は、女人禁制問題が顕在化していなかったからだ。私もつらくなるので、きっと、はっきりとは意識に上らせないようにしていたのだろう。けれど、相撲協会はこの件では何ら変更を告げていないので、女人禁制はそのままである。そしてそれは先に挙げた記事の例として、細部に現れている。
今回、若い行司が観客の「土俵上に女性を上げていいのか」という強い声に混乱し、ついアナウンスをしてしまった背景には、大相撲界は今だに国技館の土俵を女人禁制にし続けていることがある、と私は思っている。そのように教えこまれて形作られた価値観のベースがあるから、慌てた時にそちらに触れてしまったのではないか。
差別の行為をする人には、多くの場合、差別している意識はない。それが自然だと思っているから。しかし、された側は人間として否定されたような強烈な傷を受ける。
大相撲の、土俵に女性を上げないというしきたりは、どんな経緯や歴史があろうが、現代では、性差別はしてよいというメッセージにしかならない。私は条件なしで、このしきたりは廃止すべきだと思っている。さもないと、相撲の文化が常に、属性で人を排除し傷つけ続けることになる。私はそういうことに加担していると思いながら相撲を見ることに耐えられない。相撲協会は、そういう人から相撲を奪わないでほしい。
それが暴力になるような伝統はいくらでも変えればよい。伝統はそうやって変化しながら、時代を生き残るものなのだから。伝統の名で差別を温存するなら、それはネトウヨや差別を目的とした暴力主義者のやっていることと、なんら変わりはなくなる。こういうことを言うと、歌舞伎云々という話がすぐ出てくるが、歌舞伎界がどういう姿勢を取ろうが、相撲は相撲で、現代の人権の基準に則ったあり方にしてほしい。
今回、問題が顕在化したのをいい契機として、国技館や本場所の土俵にも女性が上がれるよう、そろそろ変えるべきではないか、という議論をしてはどうだろうか。確実に相撲の信頼回復と人気につながるはずだ。
謹賀新年 ― 2018-01-01
あけましておめでとうございます。
昨年は仕込みの年でしたが、後半は相撲エッセイ集『のこった』を刊行、ちょうど相撲界で事件が起きたときだったので、巻き込まれました。
今年は、近いところでは、3年ぶりの小説となる『焰』(新潮社)を2月に刊行します。新しい試みをしているので、ご期待ください。また、『夜は終わらない』の文庫を2月に、『呪文』の文庫も秋に予定しています。
そして何よりも、来年に発表する予定の長編を書くという大きな計画が待っています。
昨年の目標として「サルサ手話短編集づくり来るべき長編の準備腰痛を治してフットサルへの本格復帰、書斎の整理」と、「たべるのがおそい」3号に書きましたが、短編集づくりとフットサル復帰以外は、かないませんでした。
今年は、私生活では今を楽しみ、小説では近くはない未来を見据えて、そこに届けるようなつもりで考えていきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
鳥取ループ裁判に行ってきた ― 2017-12-25
今日は対鳥取ループ裁判の第7回口頭弁論を傍聴してきた。9月25日の第6回公判に続いて、2度目の傍聴である。
この裁判は、鳥取ループを名乗る被告が、「全国の部落の地名や関係者の個人情報をインターネットに公開している」という暴力と差別を問うもの。詳しくは、この裁判にも関わっている若手たちが作っているABDARC(アブダーク)のサイトを見てほしい。
私でさえ、この公判に行くには、朝から精神的な武装が必要である。さもないと、激しく感情を乱され、傷つけられるから。なぜなら、被告の鳥取ループは、裁判もヘイトの材料として利用して、楽しんでいるからである。被差別部落の地名や個人情報がさらされるというアウティングの暴力が問題となっているのに、その裁判で提出される、プライバシーを含むあらゆる情報を、公判の公開原則を悪用して、ネットにさらすのである。今日の公判ではまさにこの点が問題となったが、つい先ごろ、大阪高裁での別の裁判で、訴えた原告の個人情報が記載された裁判資料を鳥取ループがネットで公開していた件に関し、削除と賠償金支払いを命じられたとのことである(参照)。
初めて傍聴した9月の公判で、自らが己の弁護人となってヘイト言説を当事者の前で述べ立てる鳥取ループ本人を見たときは、私はコントロールを失いそうになった。原告は毎回、これに直面させられるのかと、いたたまれない思いになった。
この苦痛は、李信恵さんが桜井誠ら在特会の人たちに民族的差別発言で傷つけられた件の裁判を、大阪地裁に傍聴しに行ったときにも、味わわされたものだった。
裁きを得るためには、事実を明るみに出さねばならず、それは訴えた側が、差別された詳細な記憶・記録と真正面から向き合うことに他ならず、さらには自らを差別した当人がそこにいて、再び裁判の場で差別をしてくることに立ち向かわねばならないのである。この、「被差別の再現劇」が必然的に引き寄せてしまう暴力を最小限に抑えるために、肝心なのは、この再現性は差別をなくすためにあるのだということを共有している者たちが見守ることだと、その傍聴の際に体で学んだのだ。
けれど、関東に住む私は大阪地裁の公判にはなかなか足を運ぶことができない。そのぶん、東京地裁で行われている部落差別の裁判にはもっと頻繁に行くことができる。それぞれは別の人たちが苦しんでいる別の事件だけれど、差別や憎悪を拡大させようとしている者たちへの裁判という点では同じ意味を持つ。どちらも、他人を貶めることで力を手に入れようとするやり方が標準になりつつある今の社会を作っている、暴行者たちである。私は私で今、相撲という場で進行している差別に直面させられている。あちこちで発生している暴力が、互いに相乗効果を得ながら急拡大している以上、自分にできる範囲で、それを許さない意思を示していくしかない。つまり、差別者たちに、差別やヘイトをしても力を得ることはできない、という体験をしてもらうのだ。
この裁判が私にもたらす明るい可能性は、若い世代がABDARCを作って、よりオープンに、よりカジュアルに、より敷居を低く、差別問題を考える場を広げていこうとしていることである。これは例えば、今年に波が訪れた、よりカジュアルでよりオープンな姿をとったフェミニズムのあり方とも、私には重なる。
差別について、漠然としかわからないので、基礎的なことを知ってみたいという人は、ABDARCのサイトのQ&Aなどを読むといいかもしれない。
ABDARCはイベントも開催していて、その記録なども載っている。第1回イベント「私たちの部落問題」での講演「インターネットと部落差別の現実」はこちらで読めるし、私の感想はこちら。
都議選についての殴り書き ― 2017-07-03
小池都知事が、極右で、都の住民のために行政を行うことなんか眼中になくて、安倍政権以上に民主主義を破壊する意思を持っていて、それを安倍政権以上に巧みに熱狂を起こして実行する政治家であることは、都知事としての行動に十全に示されていたから、選挙の結果には残念な気持ちしかないし、選挙後に都民ファーストの会代表に極右の男が何ら民主的手続きも踏まずに就任したことにも驚かない。小池都知事は、権力さえ握ったら民主的に進めるつもりはないことを、これまでも態度で示し続けているんだから。
「自民ザマアミロ」とは思うけど、熱狂でまた投票が行われた以上、小泉首相のころからずっと続いている、政策でなくて熱狂という、有権者の姿勢が民主主義を骨抜きにする過程はまた一段階進んだと認めざるを得ない。自民党の魔の2期目議員とか言っているけど、熱狂に煽られ、その党の名前さえついていればトップ当選するような状況で当選した議員たちの中には、そんなのが大量に混ざっているわけで、今回も同じだと思うべき。なぜなら、追い風であるという理由だけで立候補する政党を選ぶという候補者の態度は、有権者を舐めているわけで、それを当選させるのならば、有権者自らが舐めてくださいと言っているようなものなのだから。いい加減、学ばないのかな。
自民が負けたのは、傲慢さが怒りを買ったこととスキャンダルまみれになったからで、極右の姿勢が嫌われたからでは、必ずしもない。都民ファーストに投票した人たちは、極右だから支持したわけではないないだろうけれど、これから都民ファーストが「改革」などと称しながら極右ぶり強権志向をむき出してにしても、スキャンダルにまみれない限り、支持率はあまり変わらないだろう。
現実を見ないと、次に待っているのはさらなる悪化。サッカーや将棋同様、三つも四つも先の未来を考えて今を判断しないと、希望は単なるガス抜きにしかならない。それは「希望依存症」という、現実逃避でしかない。