「私たちの部落問題」2017-06-27

 625日(日)に上智大学で行われた「私たちの部落問題」という講義とトークのイベントに行ってきた。本当に本当に素晴らしかった。心から、参加してよかったと思った。
 上智大学の出口真紀子先生の「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業の枠であり(この授業自体、すごく魅力的)、かつABDARC(アブダーク)というグループが企画した公開イベントでもあるため、学生も外部の人もいろいろと混ざり合い、会場を直前に大きな教室に変えねばならないほど、ぎっしり満席に近かった。
 ABDARCとは(Anti-Buraku Discrimination Action Resource Center)の略で、「鳥取ループ裁判」という非常に悪質な部落差別事件の裁判に関わりながら、差別全般をなくすよう取り組んでいる、若い世代の有志の集まりである。「鳥取ループ」とは、「全国各地の被差別部落の所在地などの情報をインターネット上に晒している宮部龍彦氏らがそれらのアウティング行為をする際に名乗っている名称が鳥取ループ」(ABDARCのサイトより)。
 恥ずかしいことに、私は「鳥取ループ裁判」もABDARCも、最近まで知らなかった。そもそも、中上健次をこれだけ読んでおきながら、部落差別については基礎をきちんと学んだことがなかった。でも人とのつながりの中でアブダークや裁判のことを知り、このイベントを知り、遅まきながら向き合うべき時が来たと思った。
 会場に入るなり感激したのは、聴覚障害者のためのモニターが用意されていて、話される内容がリアルタイムの打ち込みで文字化される、と説明があったことだ。
 これもとある集まりで知り合った難聴の方から、UDトークを入れるなどしてくれないとシンポジウムや講演は聞きたくても聞きに行けない、とうかがってから、いつも気になるようになっていた。
 私自身も軽度の難聴で、会場が静かであれば聞き取りにさほど困難は感じないが、それでも声の小さい方のお話や映像の音声となると、途端にわからなくなることがある。なので、これは大変助かった。
 今回はUDトークではなく、すべて手打ちだった。担当した方は決してその道のプロではなく、大変だったと思う。ありがとうございました。
 そして、本当に恥ずかしいことだけど、初めて知った今の部落差別の実態は、想像を絶するひどさだった。川口泰司さんがパワーポイントで示したネットによる差別の具体例を見て、初めてヘイトデモを目にしたときのような、体のわななくようなショックを受けた。激情がほとばしりそうになるのを抑えるのがやっとだった。インターネットを使ってアウティング(晒し)を拡散させていく部落差別が凄まじいことになっていると知識としては知っていても、具体例は見てこなかったので(検索したくないし)、それを目にして、自分が暴力を受けた気分になった。差別とは心に対する暴力なのだ。川口さんはご自身とご家族の体験も語られたが、私は怒りと悲しみの感情が決壊してしまった。川口さんは体を張って、差別の現場がここにあることを示されていた。
 イベントが始まるときにも、まさにここが差別の現場であることを示す強烈な出来事があった。言論の自由とは、身の危険を感じずに安心して自己表現できる環境のことだが、それが何によって保証されるのか、根本から考えなければならない出来事だった。暴力による恐怖の存在する中では、どんな保証も空約束でしかない。
 この事件への対処によって、この場での言論の自由が保証されることが明確になったことが、会場に力を与えたと思う。その後の登壇者も、まさに体を張って発言されていた。そのことが、このイベントを生命力に満ちたものにした。
 部落問題の基礎を話してくださった齋藤直子さんのお話がまた素晴らしくて、要は部落を差別する根拠はあやふやで誰にも実証も論証もできるものではなく、差別する理由は差別される側ではなく差別する側にある、ということを、聞く人にもそのロジックの訳のわからなさを体験させるという形で教えてくれた。
 齋藤さんはつい先日、『結婚差別の社会学』(勁草書房)という本を出され、これも現代の結婚差別がどんな形で起こっているか、たくさんの証言から示しながら、差別の力学を分析したものだが、差別の実態を示すだけでなく、それに悩む人と共に考えるような実践的な側面も持っている。差別をなくそうという意思が貫かれていて、自分は差別意識を持っていないと思っている人たちがじつは関わっていることの多い部落差別の現実を知るために、必読の書である。
 トークでは、マジョリティが差別の実態を知らずに間違ったイメージで思い込んで無関心のままである限り、差別は続き、放置され、悪化していく一方なので、マジョリティにどう現実を伝え、当事者、非当事者、両者の問題なんだと認識してもらえるか、について話し合ったが、とても根本的で一筋縄ではいかない問題なので、結論が出るわけではない。ただ、まさに今日、このイベントに参加したことで、この問題ではマジョリティでありこれまで関わりのなかった私が、小さな一歩を踏み出せた。主催してくださった方々の意思のおかげである。
 打ち上げでABDARCの方々とお話ししていて、ここ数年で起こったヘイトスピーチへのカウンター活動を、アンチ部落差別活動にも導入していきたいというようなことをうかがい、カウンター活動は確実に差別を無効化していくための実践的な知恵として蓄積・方法化されてきているのだなあと、会の始まりに起こった事件の対処も含めて、実感した。そのことは、劣化する一方の社会にあって、明るい要素だ。
 このイベントのタイトルは「私たちの部落問題」である。この「私たち」には、私も入る。当事者にも非当事者にも、一緒の社会を作っている以上、自分たちの問題なのだ。当事者が生きやすい社会は、非当事者も生きやすい。そして、誰もが何らかの当事者性を持っている。そう感じられるイベントや場が増えれば、明るい要素はますます増えるだろう。ABDARCと「鳥取ループ裁判」に注目してほしい。
 そうそう、日曜日の上智大学という環境もよかった。なぜなら、上智大学にあるイグナチオ教会には、日曜のミサのためにいろいろなルーツの人たちが集っているから。私はあの雰囲気が大好きで、特に今はフィリピン系のコミュニティが大きくできていて(この日も女の子たちがダンスの練習をしていた)、この人たちがみんな高安に夢中になっているはずだと思うとワクワクするのだ。その傍でビッグイシューを売っているおじさんもいる。これがどこでも普通の光景になるといいな。

岡村淳さんの傑作『ブラジルの土に生きて』改訂版を見る2017-05-06

 ブラジル在住の記録映像作家、岡村淳さんの長編ドキュメンタリー『ブラジルの土に生きて』改訂版を、メイシネマ祭2017で見た。2000年の完成以来、何度見てきただろうか。

 改訂版は岡村さんが昨年、すべての会話に日本語字幕をつけるという大作業の他、細かなブラッシュアップを行なったバージョンだ。新作も多々控えているなか、あえてそこまでする何かがあるのだろうと、気になっていた。
そして実際、それだけの労力をかけただけの素晴らしい作品だった。
 9年前に左耳が難聴になって以来、日本語の音声だけで字幕のない映画を見るのが少し苦痛だったので、まずは字幕があるだけでこんなに映画に集中できるのか、と、そのことが嬉しかった。

 さらに、字幕版で衝撃的だったのは、主役の一人である石井延兼さんと娘のノブエさんが交わす会話の内容が、はっきりと表されたことである。この場面は、私の記憶では、日本語とポルトガル語が混ざった会話の内容がややオブラートに包まれたようになっており、あまりにもプライベートだから立ち入ってはいけないのかな、と感じていた。けれど、今回はそれが注釈付きでつまびらかになっていて、やはりその内容に衝撃を受けたのだった。

 娘のノブエさんは、若いころに反政府活動をしている最中に行方不明となり、長い間、消息不明だった。その後、チリに亡命、さらにフランスにわたってパートナーと暮らしていることが判明、親子は再会を果たせたのだ。

 この作品では、もう再会を果たした後の、時々行われるノブエさんの里帰りが収められているのだが、延兼さんは高齢で体も悪く、次の里帰りでまた会えるのか心もとない中、会話が交わされている。その内容は、この作品を見て確かめてほしい。

 かつてこの軍政の暴力の、ごく普通の生活に刻まれたあまりに生々しい爪痕を、私はただ言葉もなく受け止めるだけだった。けれど、共謀罪が来週にも強行採決されようとしている現在、自分に降りかかりかねない出来事として、体のこわばるような感覚とともに見た。

 この日の上映会のアフタートークで岡村さんは、「私は祖国(日本)が心配です。ブラジルも大変だが、ブラジルのことはあまり心配していません。ブラジルには、すぐさま反対や異論の声を上げる人たちがたくさんいるからです。でも日本はあまり声が上がらないまま、決定的なできごとが決まっていく。祖国はどこへ行ってしまうのでしょう」というようなことを、おっしゃっていた。この作品を改訂版として改めて披露することには、この気持ちが込められているのだと、私は深く共感した。

 それにしても記憶力はいい加減なもので、覚えていないシーンがいつくもあった。今の私だからこそ、見えてくる場面や細部があるのだ。

 その一つは、石井家に集まる一族が、実に多様であることだ。日中戦争前に、軍国主義を深める日本を厭うて、ブラジルでの可能性にかけて飛び出した石井延兼さん。ろくに知らない延兼さんに嫁ぐことになってブラジルに渡った妻の敏子さん。その娘でフランスに亡命したノブエさん。スイスで医師をしている、石井さんの孫とそのおつれあいのスイス人。移民した石井家の中から、再移民している人たちがこのように混在しているのだ。それぞれのアイデンティティは、親同士、きょうだい同士でも理解できないほど、異なっている。また、明治生まれの石井夫妻の人生には、敏子さんのあまりに魅力的な生きざまを通じて、ジェンダーの問題まで深く表されている。

 このドキュメンタリーにはつまり、世界が凝縮されている。世界で起こりうることが、この一家族を追っただけの記録に、ほとんど起こっている。今回、私が気がついて、心を奪われたのは、この事実だ。全力で生きる人の日常を、静かにじっくりしっかりと全力で見つめれば、世界は自ずとその全貌を現す。私は勝手に、これからを生きるための実に様々なメッセージを、受け取った。

 なお、岡村淳作品の上映会は、岡村さんのサイトで告知されていますが、コアな長編を見る機会としては、5月15日(月)高円寺pundit'での上映会があります。
 また、運営する私の不手際でしばらく行方不明になっていた岡村さんの文章を集めたサイト、「岡村淳 ブラジルの落書き」も、再開しました。こちらもご一読を。

しょうもない愚痴2017-03-09

 仕事大渋滞中。原因は、とっくに完成しているはずの小説が未だに書き終えられないという事故のため。終わる予定で仕事をいろいろ入れていたので、身動きできないでいる。正月が終わってから少しずつ渋滞が始まって、今完全にストップしている。自分にとって未知の新しい文学を作ろうとしているところなので、予定どおりいかないのは当然なのだけど。
 私は風船を膨らませて、その中に閉じ篭って書くタイプ。風船の中が小説世界そのもので、私はそこにいて書いている。宅配便が来たり電話が来たり、メールで事務的な返信をしたり、食事の用意をしたり、洗濯物を取り込んだりといったことは、風船を針で突くような出来事で、風船はすぐに割れてしまう。また一から風船を膨らませるのに、時間と集中力を必要とするので、昼間の執筆はとても効率が悪い。いきおい、夜中にずれていく。すると夜型になる。
 喫茶店や楽屋で書けるとか、家庭内の喧嘩から逃れて風呂場で書いたナボコフ(だったけかな?)だとか、そんなことができればもっといいのにと思うが、現状ではこのスタイルでないと満足のできるレベルに仕上がらない。例えば、自分がメキシコに亡命して、経済的にももっと逼迫していて、環境なんて選べずに書くしかないという状態なら、そんな中でも書けるようになるんじゃないか、とも思い、そんな自分のつもりで書こうともするのだけと、シミュレーション程度では自分が騙されない。
 運動不足になるし、ストレスで際限なく間食してしまうし、早く終えたい。

『ロンリー・ハーツ・キラー』より引用2016-09-28

星野智幸コレクション第2巻「サークル」収録 長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』より、第2部モクレンの意見広告

私は殺しません
 あえて意見広告まで打って、こう宣言してみせるのは、せめて私の友人・知人たちには、私のことをこれまでと同じように信用していてほしいからです。
 私は誰も殺しません。
 保証はありません。この言葉だけが担保です。でも、それ以上の保証はあるでしょうか? 言葉を信じる、それ以外に、他人を信用する方法はあるでしょうか?
 無条件で信じろ、とは言いません。信じてもらうために、私が信用するに値する言葉を使う人間かどうか判断していただきたくて、ここに意見を書いている次第です。
 そもそも、殺さないことを宣言するだなんて、滑稽だ異常だと思う人もいるでしょうが、私はそうは思いません。殺さないなんてあたりまえじゃないか、それをわざわざ表明しなくちゃならないなんて嘆かわしい、などとは、まったく考えません。殺さないことがあたりまえではない世の中はいくらでもあり得るし、現にあったし、今もそうです。私が宣言するのは、どんな世の中になろうが私は殺さない、ということです。殺さないことはもはや常識でも何でもない以上、私が何を考えているのかははっきり言わないとわからないでしょうから、言うまでです。必要なら、どれほど当然と思われることでも、私は意思表明していいと思っています。
 逆に、正当防衛という考え方がまるで常識であるかのように普及していますが、私はその考えもあたりまえのこととは思いません。どこかの投書で読んだ、「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「殺してもよい」は「死んでもよい」である、という感覚のほうに、よりリアリティを感じます。暴論となることを恐れずに言えば、正当防衛を訴えて殺人を犯す人の心の中にも、このような感覚がなかったとは言えないのではないでしょうか?
 この続きは、ぜひ小説で読んでください。

 正当防衛の名の下に身の危険を感じたら相手を殺してもよいという空気が支配的になっていく社会で、モクレンという登場人物は、殺さないことを宣言する意見広告を打ちます。この「殺さないことがもはや常識でも何でもない社会」は、この作品を書いた2002年当時、極端な世界像でしたが、今、差別などの暴力で人の心を殺しても咎められず、病人や高齢者は死なせるべきだと言った殺人を促すような暴言がメディアでまかりとおり、実際に障害者や病人が無差別に殺される世となっている現在は、まさにこの小説の世界と地続きです。モクレンのこの宣言に、まさか書いた自分が励まされようとは、思いもしませんでした。
 このあたりのテーマについては、10月23日(日)に青山ブックセンターで行われる刊行記念のトークで詳しくお話ししようと思います。イベントの詳細はこちら。14時から。1000円。要申し込み。

短歌のトークイベントに行ってきた2016-09-17

 紀伊国屋書店で行われた、瀬戸夏子さんと伊舎堂仁さんの短歌のトークイベントに行ってきた。ユリイカの8月号で特集「新しい短歌、ここにあります」が組まれたことを受けてのイベント。
 短歌の世界はほとんど何も知らない。縁遠かっただけでなく、小説や批評の「業界」では、短歌は極めて保守的な表現媒体だと見なす言説が多く、特に私が若い時分の現代思想全盛期はその傾向が強く、私もその影響を受けて、近寄らないようにしてきたのだ。そもそも、私には文学的素質は少なく、詩が苦手なため、韻文全体に疎いということもあるが。
 けれど、この1、2年、短歌が私に近づいてきた。西崎憲さん(フラワーしげるさん)と知り合ったことがまず大きい。それから、路上文学賞をしていて、第3回で鳥居さんを知った。路上文学賞の大賞受賞作は散文詩のような短編小説だったけれど、鳥居さんの本領は短歌だ。また、字幕の師匠のお母様が短歌を詠んでらしていて、亡くなられた後にまとめた歌集を送ってくださった。さらに、私が大学で教えていたときに学生だった瀬戸夏子さんが短歌で活躍していて、新しい歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(書肆侃侃房)に帯を書くことになった。
 この瀬戸さんの短歌が、爆弾だった。どこが保守的な表現媒体なのだ! ここまで自我を吹き飛ばし、極北へ突っ込んでいく言語表現は、小説ではもう絶滅寸前である。ここに紹介はできないが、ぜひ歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』を読んでみてほしい。短歌の概念も印象も激変するから。
 そうして見渡してみれば、短歌の新しい書き手たちがうじゃうじゃしていることに気づく。確かに、なんだか名付けようのない妙な短歌の書き手たちが次々と現れているようだ。
 短歌をわかりたいとか自分で書いてみたいとは思わないのだけど、瀬戸さんの短歌を読んで、この言葉には触れていたい、と思った。それで、イベントに行ってみた次第。
 伊舎堂さんの短歌も初めて読んだが、通念としての文学から遠くあろうという意識を強く感じるものだった。硬く言えば、世の言葉の言説批判ということになるか。批判と言っても糾弾するのではなくて、自然で自明のように思われている巷の言い方や表現を、自然とは感じられなくさせてしまうというもの。お二人の対談はその意味で、スリリングだった。
 短歌の「私(わたくし)性」についての話は、ああ、私小説のことと共通するなあ、と思いながら聞いた。短歌はアマチュアの裾野も広いので、「わたくし性」を詠うものが本流をなすという事情もあるのに対し、小説ではそのようなことがほとんどないため、さすがに私小説作家はもはや少数だが、私の感覚からすれば、形を変えた私小説はまだまだ主流をなしている。ここが最も厄介な支配的言語の領域であり、マジョリティである人の意識をマイナーな自己意識に変えてしまうという、正当化の装置なのだ。これは日本社会の精神風土と化しているのだろうなと思う。
 現実には、同じ「短歌」のくくりに収まりきらないぐらい、多様になっているようだ。例えば鳥居さんの短歌と瀬戸さんの短歌では、両極にも、違う言語にも思える。今日のトークでは、小説には純文学だとかミステリーだとかラノベだとかジャンルがあるが、短歌も本当はそうできるぐらいなのに、読者の規模が小さいから「短歌」だけでくくられる、という話が出た。
 そんなわけで、短歌への警戒感はほとんど消えた。むろん、天皇の言語というルーツを持つ以上、無防備にはなりようがないのは、変わらない。でも、私には背負うところは何もないので、気楽に読むことを楽しみたい。