しょうもない愚痴2017-03-09

 仕事大渋滞中。原因は、とっくに完成しているはずの小説が未だに書き終えられないという事故のため。終わる予定で仕事をいろいろ入れていたので、身動きできないでいる。正月が終わってから少しずつ渋滞が始まって、今完全にストップしている。自分にとって未知の新しい文学を作ろうとしているところなので、予定どおりいかないのは当然なのだけど。
 私は風船を膨らませて、その中に閉じ篭って書くタイプ。風船の中が小説世界そのもので、私はそこにいて書いている。宅配便が来たり電話が来たり、メールで事務的な返信をしたり、食事の用意をしたり、洗濯物を取り込んだりといったことは、風船を針で突くような出来事で、風船はすぐに割れてしまう。また一から風船を膨らませるのに、時間と集中力を必要とするので、昼間の執筆はとても効率が悪い。いきおい、夜中にずれていく。すると夜型になる。
 喫茶店や楽屋で書けるとか、家庭内の喧嘩から逃れて風呂場で書いたナボコフ(だったけかな?)だとか、そんなことができればもっといいのにと思うが、現状ではこのスタイルでないと満足のできるレベルに仕上がらない。例えば、自分がメキシコに亡命して、経済的にももっと逼迫していて、環境なんて選べずに書くしかないという状態なら、そんな中でも書けるようになるんじゃないか、とも思い、そんな自分のつもりで書こうともするのだけと、シミュレーション程度では自分が騙されない。
 運動不足になるし、ストレスで際限なく間食してしまうし、早く終えたい。

『ロンリー・ハーツ・キラー』より引用2016-09-28

星野智幸コレクション第2巻「サークル」収録 長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』より、第2部モクレンの意見広告

私は殺しません
 あえて意見広告まで打って、こう宣言してみせるのは、せめて私の友人・知人たちには、私のことをこれまでと同じように信用していてほしいからです。
 私は誰も殺しません。
 保証はありません。この言葉だけが担保です。でも、それ以上の保証はあるでしょうか? 言葉を信じる、それ以外に、他人を信用する方法はあるでしょうか?
 無条件で信じろ、とは言いません。信じてもらうために、私が信用するに値する言葉を使う人間かどうか判断していただきたくて、ここに意見を書いている次第です。
 そもそも、殺さないことを宣言するだなんて、滑稽だ異常だと思う人もいるでしょうが、私はそうは思いません。殺さないなんてあたりまえじゃないか、それをわざわざ表明しなくちゃならないなんて嘆かわしい、などとは、まったく考えません。殺さないことがあたりまえではない世の中はいくらでもあり得るし、現にあったし、今もそうです。私が宣言するのは、どんな世の中になろうが私は殺さない、ということです。殺さないことはもはや常識でも何でもない以上、私が何を考えているのかははっきり言わないとわからないでしょうから、言うまでです。必要なら、どれほど当然と思われることでも、私は意思表明していいと思っています。
 逆に、正当防衛という考え方がまるで常識であるかのように普及していますが、私はその考えもあたりまえのこととは思いません。どこかの投書で読んだ、「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「殺してもよい」は「死んでもよい」である、という感覚のほうに、よりリアリティを感じます。暴論となることを恐れずに言えば、正当防衛を訴えて殺人を犯す人の心の中にも、このような感覚がなかったとは言えないのではないでしょうか?
 この続きは、ぜひ小説で読んでください。

 正当防衛の名の下に身の危険を感じたら相手を殺してもよいという空気が支配的になっていく社会で、モクレンという登場人物は、殺さないことを宣言する意見広告を打ちます。この「殺さないことがもはや常識でも何でもない社会」は、この作品を書いた2002年当時、極端な世界像でしたが、今、差別などの暴力で人の心を殺しても咎められず、病人や高齢者は死なせるべきだと言った殺人を促すような暴言がメディアでまかりとおり、実際に障害者や病人が無差別に殺される世となっている現在は、まさにこの小説の世界と地続きです。モクレンのこの宣言に、まさか書いた自分が励まされようとは、思いもしませんでした。
 このあたりのテーマについては、10月23日(日)に青山ブックセンターで行われる刊行記念のトークで詳しくお話ししようと思います。イベントの詳細はこちら。14時から。1000円。要申し込み。

短歌のトークイベントに行ってきた2016-09-17

 紀伊国屋書店で行われた、瀬戸夏子さんと伊舎堂仁さんの短歌のトークイベントに行ってきた。ユリイカの8月号で特集「新しい短歌、ここにあります」が組まれたことを受けてのイベント。
 短歌の世界はほとんど何も知らない。縁遠かっただけでなく、小説や批評の「業界」では、短歌は極めて保守的な表現媒体だと見なす言説が多く、特に私が若い時分の現代思想全盛期はその傾向が強く、私もその影響を受けて、近寄らないようにしてきたのだ。そもそも、私には文学的素質は少なく、詩が苦手なため、韻文全体に疎いということもあるが。
 けれど、この1、2年、短歌が私に近づいてきた。西崎憲さん(フラワーしげるさん)と知り合ったことがまず大きい。それから、路上文学賞をしていて、第3回で鳥居さんを知った。路上文学賞の大賞受賞作は散文詩のような短編小説だったけれど、鳥居さんの本領は短歌だ。また、字幕の師匠のお母様が短歌を詠んでらしていて、亡くなられた後にまとめた歌集を送ってくださった。さらに、私が大学で教えていたときに学生だった瀬戸夏子さんが短歌で活躍していて、新しい歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(書肆侃侃房)に帯を書くことになった。
 この瀬戸さんの短歌が、爆弾だった。どこが保守的な表現媒体なのだ! ここまで自我を吹き飛ばし、極北へ突っ込んでいく言語表現は、小説ではもう絶滅寸前である。ここに紹介はできないが、ぜひ歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』を読んでみてほしい。短歌の概念も印象も激変するから。
 そうして見渡してみれば、短歌の新しい書き手たちがうじゃうじゃしていることに気づく。確かに、なんだか名付けようのない妙な短歌の書き手たちが次々と現れているようだ。
 短歌をわかりたいとか自分で書いてみたいとは思わないのだけど、瀬戸さんの短歌を読んで、この言葉には触れていたい、と思った。それで、イベントに行ってみた次第。
 伊舎堂さんの短歌も初めて読んだが、通念としての文学から遠くあろうという意識を強く感じるものだった。硬く言えば、世の言葉の言説批判ということになるか。批判と言っても糾弾するのではなくて、自然で自明のように思われている巷の言い方や表現を、自然とは感じられなくさせてしまうというもの。お二人の対談はその意味で、スリリングだった。
 短歌の「私(わたくし)性」についての話は、ああ、私小説のことと共通するなあ、と思いながら聞いた。短歌はアマチュアの裾野も広いので、「わたくし性」を詠うものが本流をなすという事情もあるのに対し、小説ではそのようなことがほとんどないため、さすがに私小説作家はもはや少数だが、私の感覚からすれば、形を変えた私小説はまだまだ主流をなしている。ここが最も厄介な支配的言語の領域であり、マジョリティである人の意識をマイナーな自己意識に変えてしまうという、正当化の装置なのだ。これは日本社会の精神風土と化しているのだろうなと思う。
 現実には、同じ「短歌」のくくりに収まりきらないぐらい、多様になっているようだ。例えば鳥居さんの短歌と瀬戸さんの短歌では、両極にも、違う言語にも思える。今日のトークでは、小説には純文学だとかミステリーだとかラノベだとかジャンルがあるが、短歌も本当はそうできるぐらいなのに、読者の規模が小さいから「短歌」だけでくくられる、という話が出た。
 そんなわけで、短歌への警戒感はほとんど消えた。むろん、天皇の言語というルーツを持つ以上、無防備にはなりようがないのは、変わらない。でも、私には背負うところは何もないので、気楽に読むことを楽しみたい。


都知事選について2016-07-18

 都知事選、これまで黙ってきたけれど、書くだけ書いておく。
 私は今回の知事選は認めたくないという気持ちでいる。辞任には値しない理由で知事を辞任に追い込んで、有権者自身に何の利益があるのだろうか。
 私は舛添知事の都政を、それなりに評価している。舛添憎しの人は、タカ派言論人時代の発言をやり玉に挙げて、ボロクソに言っていたが、都知事になってからの舛添氏は、極右化の時代にあって、むしろリベラルに感じさえするほどの言動だった。前回の都知事選では私は宇都宮氏に投票したが、舛添氏が当選したとき、次善の結果だなと思った。実際、知事になってすぐ、ヘイトスピーチは許されないとはっきり明言したし、ホームレス襲撃事件にも許されないことだと批判した。今や、それらの暴力に対し、ゴーサインを出すかのような態度を取る政治家や首長が少なくない中で、舛添知事の姿勢は明確で評価されるべきものだった。ただ、ヘイトスピーチを禁じる条例制定には消極的だったり、行政として制度で対応していくと言っていた貧困対策は不十分だったり(特に住宅政策はもっと現場に耳を傾けてほしかった)と、批判したい点もあったが、それは任期半ばで辞任させるという話ではない。
 また、都有地を韓国人学校に貸し出すことを決めたことも、特筆に値する。まさに、この時代の悪い流れを断ち切ろうとする決断だった。だが、これも辞任によって白紙になってしまう可能性が高くなっている。
 そして何より、森喜朗の言いなりにならず、オリンピックの費用を激減させたこと。他のどんな知事が、あの強権に対してここまでできただろうか。金にケチだというなら、ケチだからこそできたことではないか。この難しい案件で都の官僚、議会をコントロールする行政手腕は政治家として有能な証だし、舛添知事の功績として最大の評価を与えてよいと思う。
 私も、言論人時代の舛添氏は、大嫌いだった。その見方が変わったのは、厚生労働大臣の時だ。労働行政は芳しくなかったけれど、少なくとも厚生の分野では、生来の優秀な官僚になりうる能力を発揮し、かつ官僚を抑える政治家としての力量も見せ、労を惜しまず現場からの声を聞き、案外とよい行政を行ったと思う。タカ派的言動が鳴りを潜めてきたのもそのころからだった。そこには、親の介護体験も大きく影響していただろう。
 舛添氏の金の問題を等閑視してよいとは私も思わない。態度に傲慢なところがあるのもいただけない。だが、議会を通じて糾せば済むレベルの話ではないか。それをよりよい政策実現の駆け引きに使うなりすればよいではないか。政策に賛同できないのであれば、次の選挙で落とせばいい。
 結局、ほとんど誰も舛添氏の行った政策を見てないのだなと思う。この非難の嵐の間、政策をある程度検証したうえでの批判など、皆無だった。生活保護バッシングと何も変わらない。叩いてよい対象となったから、叩いただけだ。そして、その暴力の欲求は、相手が降参するまで追い詰めないと、収まらない。
 こんなことで、政治が成熟するわけがない。湯浅誠さんが言うように、政治は結果だ。どんな政策を実行できたかが大切で、その政治家を好きだとか嫌いだとかは、そのあとで考慮すべき要素なのだ。私だって人としては好きではない。でも、気に食わないから辞めろと言えるのは、自分たちが政治に参加して責任を負っているという意識が希薄だからだ。
 それでも相手を打ちのめしたい衝動を抑えられないのは、その当人の傷ついたアイデンティティの問題だと、私は感じている。そして、有権者が自分のアイデンティティの問題を政治に持ち込むのは、大いに気をつけるべきだと思っている。これはこないだの参院選や各種のデモについても思う。集団的熱狂にアイデンティティを置き過ぎ、自分の心の拠り所としてしまうと、その外部が見えなくなり、外部の人たちの考え方が許せなくなる。これは自分にもその傾向があるから、自戒を込めて言っている。
 舛添知事の都政は、この極右化、ポピュリズム化する社会の中で、防波堤的存在になっていたと思う。舛添氏が辞めることで得をするのは、リベラルではなく、極右化を希求する人たちだ。
 原発の反対運動は80年代までに原理主義化して、自分たちの理想以外の声を許さなかったがゆえに、マジョリティの関心を失い、気がつけば54基もの建設を許してしまった。リベラルな人たちは同じ過ちを繰り返そうとしているとしか、私には思えない。
 この都知事選の結果がどうなるのか。私は、後悔してもしきれない結果も大いにありうると思っている。
「都知事選、小池氏が序盤先行 鳥越・増田氏が追う」
 野党共闘で出た鳥越氏も、ジャーナリストとしては尊敬しているが、青島都知事の例を思い返すと、都政というのは一筋縄でいくものではなく、大丈夫だろうかという心配ばかりが先立つ。何だか、あのときと似ているのだ。
 5年で4回の都知事選という異常事態の中(いったい幾らかかっているのだ)、世のバッシング欲のために行うことになったこの選挙を、私は受け入れたくない。だが、選挙権を空洞化させたくもないので、投票には行く。自分たちで政治を壊している証としての選挙なのだと記憶しながら。

参議院選について2016-07-10

 参議院選がいかに大切かについて、書きます。
 憲法改正がかかっているという意味でももちろん大切なのですが、私はより根本的な意味から、参議院議員がいかに必要かを感じています。
 それは自殺対策支援を見てきたからです。一般的には派手な政策ではなく、あまり知らない人も多いと思いますが、自殺者がこのところ減少しているニュースは見たことのある人も多いでしょう。
 これは政治が動いたからです。そして、それを動かした中心は、参議院議員たちなのです。
 まず、政治が動いたというのは、自殺対策基本法という法律を、10年前に議会が作ったことです。この法律では、自殺は個人の問題ではなく、社会的な要因が引き起こす、追い込まれた末の死であり、行政はそれを防ぐための措置を取らなくてはならない、ということを明記しました。
 行政は法律に縛られ法律で動くので、自殺対策基本法ができたことで、自殺対策をしなければならなくなったのです。その成果が少しずつ出ているわけです。
 今年は、この法律が成立してから10年で、法律の足りないところもはっきりしてきたため、より具体的に突っ込んだ法律とするよう、改正されました。
 これらすべては、官僚主導ではなく、議員が動くことで、官僚の理解も進み、この法案と政策に文字通り命をかける官僚と一緒になって、実現したことです。
 政治家に働きかけたのは、民間で自殺対策支援をしている人たちです。10年前には、民主党の故・山本孝史参議院議員が民間の現場を知り、各党各会派の議員に呼びかけ、賛同した議員が党利党略を超えて超党派の議員連盟「自殺対策を推進する議員の会」を作り、議員立法として成立させました。
 今年の改正法案も、同様に超党派の議員連盟が精力的に動いて、成立にこぎつけました。
 専門性を持つ民間と政治家と官僚とが、よい形で連携し、民主党政権であろうが自民党政権であろうが、変わらずに自殺対策を進められたのです。
 なぜ、超党派の議員が協働できたのか、私は気になっていましたが、「自殺対策を推進する議員の会」の自民党議員は、「参議院だからできた」と言っていました。解散のある衆議院では、どうしても政局に支配されてしまう。党利党略に距離を置くことが難しくなる場合も多いが、参議院はそこから距離を置くことができる。加えて良識の府であるという自負もある。
 現状のような強大な与党が揺るぎない状態にあっては、党派を超えて政官民を連携させた自殺対策のような方法は、実際の制度を変えていく上で、私は唯一と言ってもいいぐらい重要なやり方ではないかと思います。
 差別・ヘイトスピーチを禁じた反ヘイト法が成立した過程にも、似た要素が多々あったと思います。
 政局に左右されず、党派にとらわれずに立法にこぎつけうるという点で、参議院議員は大切な機関なのです。地味かもしれないが、現実の政治は地味なことの積み重ねで行われます。それが、制度をよりよく変えるための唯一の方法です。
 まずは参議院議員の選挙で投票することが、その一歩です。少しだけ労力をかけて、投票所に足を運んでください。見えないところで、少しずつ変わっていくかもしれないのだから。