『マスコミ・セクハラ白書』 ― 2020-03-03
AppleTV +(アップル版のNetflixみたいなもの)で、鳴り物入りで作られたドラマ『ザ・モーニングショー』がすごく良かった。アメリカのドラマの底力を見せられた。
大手テレビ局の報道番組の看板キャスターである男性が、複数の女性スタッフからセクハラで訴えられ、降板させられるところから始まる。#MeTooをテーマにした作品だが、優れているのは、その告発にとどまらず、被害者加害者傍観者それぞれの人物の立場から出来事を描いている点だ。それぞれの言い分、見え方、振舞う理由があり、それらを丁寧に押さえている。誰の中にも悪人と善人の要素があり、出来事には複雑な過程があり、シングルストーリーで決めつけられるわけではないのだ。
そうであっても、このドラマは振るわれた暴力に理解や達観を示すような真似はしない。ドラマ終盤で詳らかにされていくセクハラの実態は、あまりにもおぞましい。そして、その恐怖と痛みが加害者の世界像には入ってこない様子まで描いて、出来事を徹底して批判する。
リアルすぎて私は自分が被害者の被害を追体験している気分になり、震えがきて、涙が止まらなくなった。レイプのノンフィクション『ミズーラ』を読んでいる時と同じ状態になった。
AppleTV +は1週間は無料体験できるので、ぜひ見てほしい。
内部が圧倒的男社会である日本のメディアで、このレベルのドラマが作られるのはまだ当分先だろうが、じつはこのドラマに匹敵する本が先ごろ刊行された。
『マスコミ・セクハラ白書』(文藝春秋)で、新聞社や出版社、テレビ局などで働く女性社員や、フリーランスの女性ライターらが、これまで受けてきたセクハラを明らかにした本である。WiMN「メディアで働く女性ネットワーク」が企画刊行した。
セクハラ・性暴力を報じる側にいたメディアの女性たちが、自分たちの組織・業界に蔓延するセクハラ・性暴力の被害の当事者として、自分たちを語ったわけである。
これが、どれほど勇気と気力のいることか、自分の傷がまた化膿するような行為か、前書きと後書きを読むだけでずしんと伝わってくる。
この本を私自身も無傷では読めない。
私は大学を卒業してから、まず新聞社に記者として就職した。
研修の段階で、私はすでにつまずいていた。同期の男同士で交わす会話は、女性体験(恋愛話とは異なる)や品評や風俗などの手柄話がかなりの割合を占めていたのである。そのありさまは、本書第1章の「『おっさんクラブ』ノリという魔物」で詳細に書かれているのと同じだ。記者になる男たちは、大学時代の男友達より、そういうことにより積極的な人が多かった。こういう経験に満ちていないと、一人前の記者にはなれないんだ、と私は思い込んだ。日々、苦痛の連続だった。
結局、私はなじめず、脱落した。それだけが理由ではないが、私は会社を辞めた(バブル時代だったから簡単に辞める決断ができたのは確か)。
その後曲折を経て小説家デビューし、今度は文学業界で生きることになった。ところが、ここもまったく同じ文化だったのである。尊敬していた男の書き手たちの、そのような言動を見るにつけ、心砕かれた。それで私は、業界の端にはいるけれど、その人間関係からは離れた。
そして、背を向ける態度をとってきたことに、ずっと苦しい思いをしているわけである。『マスコミ・セクハラ白書』を、被害を受けた当の女性たちに語らしめている大きな動機に、その被害をなかったことのようにして黙って流してきてしまった、そのために温存に加担してしまったという罪の意識がある。ヘテロ男性である私がそれ読むとき、耐え切れないほどの責任を感じる。
この本に書かれていることは、メディアの中だけでなく、日本中に満遍なく行き渡っていることだ。ただ、メディアはそれを報じ、批判してきた。だからこそ、自分たちの現場を明らかにする使命を、この語り手たちは感じたのだろう。
お互いに聞き合って記事にする、という方法からは、相互に語ることがその先へ進む力になるという、回復のあり方もほの見える。
本書は、何と、メディアからは黙殺に近い扱われ方をしている、とも聞く。挙げられた声に応えて、声の命を止めずに生きさせるのは、言葉を受け取って読む側の役割だ。
例えば安倍首相の会見の横暴さを変えたいなら、メディアを支配する権力性を批判できる体質にかえていかなければならない。そのためにも、このセクハラの実態を尊厳を持って語った本が、もっと広く読まれる必要があると思う。
大手テレビ局の報道番組の看板キャスターである男性が、複数の女性スタッフからセクハラで訴えられ、降板させられるところから始まる。#MeTooをテーマにした作品だが、優れているのは、その告発にとどまらず、被害者加害者傍観者それぞれの人物の立場から出来事を描いている点だ。それぞれの言い分、見え方、振舞う理由があり、それらを丁寧に押さえている。誰の中にも悪人と善人の要素があり、出来事には複雑な過程があり、シングルストーリーで決めつけられるわけではないのだ。
そうであっても、このドラマは振るわれた暴力に理解や達観を示すような真似はしない。ドラマ終盤で詳らかにされていくセクハラの実態は、あまりにもおぞましい。そして、その恐怖と痛みが加害者の世界像には入ってこない様子まで描いて、出来事を徹底して批判する。
リアルすぎて私は自分が被害者の被害を追体験している気分になり、震えがきて、涙が止まらなくなった。レイプのノンフィクション『ミズーラ』を読んでいる時と同じ状態になった。
AppleTV +は1週間は無料体験できるので、ぜひ見てほしい。
内部が圧倒的男社会である日本のメディアで、このレベルのドラマが作られるのはまだ当分先だろうが、じつはこのドラマに匹敵する本が先ごろ刊行された。
『マスコミ・セクハラ白書』(文藝春秋)で、新聞社や出版社、テレビ局などで働く女性社員や、フリーランスの女性ライターらが、これまで受けてきたセクハラを明らかにした本である。WiMN「メディアで働く女性ネットワーク」が企画刊行した。
セクハラ・性暴力を報じる側にいたメディアの女性たちが、自分たちの組織・業界に蔓延するセクハラ・性暴力の被害の当事者として、自分たちを語ったわけである。
これが、どれほど勇気と気力のいることか、自分の傷がまた化膿するような行為か、前書きと後書きを読むだけでずしんと伝わってくる。
この本を私自身も無傷では読めない。
私は大学を卒業してから、まず新聞社に記者として就職した。
研修の段階で、私はすでにつまずいていた。同期の男同士で交わす会話は、女性体験(恋愛話とは異なる)や品評や風俗などの手柄話がかなりの割合を占めていたのである。そのありさまは、本書第1章の「『おっさんクラブ』ノリという魔物」で詳細に書かれているのと同じだ。記者になる男たちは、大学時代の男友達より、そういうことにより積極的な人が多かった。こういう経験に満ちていないと、一人前の記者にはなれないんだ、と私は思い込んだ。日々、苦痛の連続だった。
結局、私はなじめず、脱落した。それだけが理由ではないが、私は会社を辞めた(バブル時代だったから簡単に辞める決断ができたのは確か)。
その後曲折を経て小説家デビューし、今度は文学業界で生きることになった。ところが、ここもまったく同じ文化だったのである。尊敬していた男の書き手たちの、そのような言動を見るにつけ、心砕かれた。それで私は、業界の端にはいるけれど、その人間関係からは離れた。
そして、背を向ける態度をとってきたことに、ずっと苦しい思いをしているわけである。『マスコミ・セクハラ白書』を、被害を受けた当の女性たちに語らしめている大きな動機に、その被害をなかったことのようにして黙って流してきてしまった、そのために温存に加担してしまったという罪の意識がある。ヘテロ男性である私がそれ読むとき、耐え切れないほどの責任を感じる。
この本に書かれていることは、メディアの中だけでなく、日本中に満遍なく行き渡っていることだ。ただ、メディアはそれを報じ、批判してきた。だからこそ、自分たちの現場を明らかにする使命を、この語り手たちは感じたのだろう。
お互いに聞き合って記事にする、という方法からは、相互に語ることがその先へ進む力になるという、回復のあり方もほの見える。
本書は、何と、メディアからは黙殺に近い扱われ方をしている、とも聞く。挙げられた声に応えて、声の命を止めずに生きさせるのは、言葉を受け取って読む側の役割だ。
例えば安倍首相の会見の横暴さを変えたいなら、メディアを支配する権力性を批判できる体質にかえていかなければならない。そのためにも、このセクハラの実態を尊厳を持って語った本が、もっと広く読まれる必要があると思う。