ラピノー2019-07-12

 メーガン・ラピノーがあんなに素敵な人間になったのには、アメリカの女子サッカー選手である、という環境もすごく大きいと思う。というか、まさに女子サッカーが育てた人材。
 私が初めて女子サッカーを見たのは、2002年の、日本代表対メキシコ代表。翌年のワールカップ予選、プレーオフだった。それで出場権を勝ち取り、私は女子サッカーをコンスタントに見るようになった。
 そこで気がついたのは、強豪国に共通の要素があることだった。当時の強豪は、不動のチャンピオンのアメリカ、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、中国、北朝鮮。いずれも、フェミニズムが発達しているか、共産主義国で男女同権がある程度実現されている国(国家主義だという要素も大きいが)だ。
 その要素を代表していたのが、圧倒的な存在だったアメリカだ。女子サッカーは、アメリカの女子スポーツの中でも断トツの人気を誇るだけでなく、アメリカの男子サッカーがマイノリティのマイナーなスポーツなのに対し、アメリカ中でもメジャーな競技だった。
 報道でアメリカの女子サッカーのリーグ戦が写り、そのスタジアムの応援を初めて見た時、鳥肌が立った。それは女子プロレス以外ではほぼ目にしない、未来の光景だった。
 澤穂希も宮間あやも小林弥生も、そのトップリーグの中でプレーし、アメリカの女子サッカーが作り出すまったく新しい社会の文化を胸いっぱいに吸って育っていた。
 それは、男性優位というジェンダーの線引きが消え、女性が優位でもなく、つまりジェンダーという線引きの力学が消えた社会だった。それがアメリカの女性、セクシュアルマイノリティの中ではモデルケースとして強烈なメッセージを放っていたのである。
 私はこの未来像こそが、当時の日本の小泉純一郎首相が体現する、強権とポピュリズムでマイナーな声を押し殺す社会への、最も力強く確実な選択肢だと信じ、のめり込んだ。それで『ファンタジスタ』という選挙(首相公選制)とサッカーを扱った小説を書いた(人文書院の『星野智幸コレクション Ⅰ スクエア』所収)。ワカノという澤を思わせる登場人物は、未来を体現しているが、その未来像がどのようなものかは示されない。それは、自分たちで作るもの、というのが、小説テクスト向かうところではあるのだが、私には書けなかった、ということもある。なぜなら、ヘテロ男性の私は女子サッカーに能動的に関わるという仕方でコミットすることはできないし、その当時は、ではどうしたらいいのかわからなかったから。
 その女子サッカーの文化は、アメリカが引っ張りながら、世界中の女子サッカーに広まっている。これはフェミニズムが作り出したスポーツであり、実現させた社会像なのだ。
 そしてその中からラピノーは生まれ育ったのだと思う。
 ラピノーのことは代表になったころから見てきたけれど、アメリカ代表のキャプテンを担う系譜とはまたタイプが違うと思っていた。ミア・ハム、ボックス、ワンバック、ロイド、モーガンという「正統派」に対し、跳ね上がりのトンガリまくった急先鋒、という印象だった。
 ラピノーはそのトンガリまくりそのままで、そのキャプテンたちのさらに先の時代へと、女子サッカーを進めて見せた。澤や宮間たち、その先達たちも含め、女子サッカーを担った人たちの闘いと歴史を思うと、ラピノーのスピーチには沢山の声が重なって聴こえて、涙が出る。
 ラピノーは、私たちの代表チームは誰にとっても手本になる、と言った。自分の外に出て、少しでも前の日より大きな自分になろうと努めてほしい、と。だからラピノーは、若手たちの成長を泣いて寿いだのだ。まさに、それを実現してくれているから。未来は続いていると、示してくれたから。
 圧倒的な優勝には、そういう豊かな意味がある。
 今年もなでしこリーグを見にスタジアムに行こうと思い直した。女子サッカーの体現する社会を、ピッチの外にも広げるためにも。でもたんになでしこリーグ、面白いんだよね


コメント

トラックバック