女子サッカー シービリーブズカップの衝撃 ― 2020-03-13
女子サッカー、シービリーブズカップは衝撃的な結果だった。
日本は対スペイン戦1-3の敗北に始まり、イングランド戦が0ー1の敗北、アメリカ戦には1-3の敗北。どの試合も完敗。
衝撃とは、日本の女子サッカーがこの2年ぐらいで欧米のサッカーに差をつけられ始め、ついには1ランク下の等級に落ちるまでに差は開いてしまったことを、完膚なきまでに見せつけられたこと。優勝争いをするレベルではなく、ベスト8を争うレベルだろうか。
キーパーの山下が初戦の後で言っていたが、去年のワールドカップで体験した失敗がまったく生かせていない。むしろ、致命的なミスが増えた。そしてそれを3戦に渡って繰り返した。
素人のファンとして私が感じたことは大きく2つの点。
まず、サッカーの基礎の差が埋めがたいまでに露わになってしまったこと。ボールスピード、走るスピード、ボールの飛距離、一対一での勝負弱さ、判断力の遅さ。今の女子サッカーの最先端は、それらが日本の女子サッカーよりずっと早い。だから、ダイナミックで迫力のあるサッカーを展開するけれど、日本代表はどうしても小さく非力でチマチマして見えてしまう。
この原因ははっきりしている、と私は思う。なでしこリーグが、欧米のリーグよりゆるいからだ。普段からスピードの速い、判断の速さも強いフィジカルも求められる中で試合をしているのと、洗練されたサッカーはしているが、ゆるいパススピードでもそれが通ってしまうリーグでプレーしているのとでは、その蓄積の差は思っているより大きいものとなる。強いプレスを受けると何もできなくなってしまうのは、日常の環境の違いから来ると思うので、もはや一朝一夕では変えられない。
若い世代の才能を、私はつゆも疑っていない。でも、彼女たちは挑戦をしていないと思う。ホームの東京五輪に狙いを定めているせいで、なでしこリーグから欧米のリーグに挑戦する選手がほとんどいない。日本にいたほうが代表に定着しやすいからだ。
そうしてリスクを負わないでいるうち、基礎的な部分での差がどんどん拡大してしまった。その結果、強豪相手に戦術を実現できないほどに、個々のプレーがレベルダウンしてしまった。日本の女子サッカーは、いわば鎖国状態にあると思う。
田中美南はベレーザ で活躍できても代表ではそのポテンシャルを発揮しきれなかった。だから今季からINAC神戸に移籍した。お互いがわかりあいすぎている中でのサッカーだけでは、世界に通用しないから。私はその気持ちを、世界への挑戦に向けてほしかった。
海外に出て代表から消える例が多いから(横山とか猶本とか)、出ていくことにためらってしまうのかもしれない。でもそれは、日本のサッカーを停滞させる大きな要因になる。
もう一点も、それと関係するが、戦術の不足である。今回対戦した3チームは、今の世界のベスト3と言ってもいいと思うが、最先端の緻密な戦術が徹底されていた。男子のリヴァプールみたいなサッカーを、女子もするような時代になったのである。日本女子のお株であるパスサッカーは、その最先端の戦術の前で、ほとんど機能しなかった。
高倉監督は、局面局面での選手個々の自主的な判断を重視し、それができるようになるよう求めてきた、という。男子サッカーでの課題とまったく一緒だが、それが日本のサッカーに最も欠けている部分であり、育てたい気持ちはよくわかる。けれど、思考や判断も、フィジカルや駆け引きも、すべてひっくるめて個の強さを学ぶには、やはり欧米のリーグに挑戦する以外に道はないと思う。日本のなでしこリーグ環境で可能だと思えるなら、それは世界を甘く見ている。
そういう自主性を持つ選手に、高度な最先端の戦術を仕込んでいるのが、今の世界の女子サッカーの現在だ。日本の位置はそれよりも少し過去にいる。
五輪までにできることはし尽くして、本番では今の力を発揮し尽くしてほしい。そのうえで、代表レベルの若手は五輪後、リスクをかけて容赦のない欧米のリーグ環境に挑んでほしい。田中美南、杉田、長谷川、遠藤、三浦、清水、南、籾木、高橋はなあたりが率先して。そして、代表監督もスペインで今活躍している選手たちを呼んでほしい。
ラピノー ― 2019-07-12
メーガン・ラピノーがあんなに素敵な人間になったのには、アメリカの女子サッカー選手である、という環境もすごく大きいと思う。というか、まさに女子サッカーが育てた人材。
私が初めて女子サッカーを見たのは、2002年の、日本代表対メキシコ代表。翌年のワールカップ予選、プレーオフだった。それで出場権を勝ち取り、私は女子サッカーをコンスタントに見るようになった。
そこで気がついたのは、強豪国に共通の要素があることだった。当時の強豪は、不動のチャンピオンのアメリカ、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、中国、北朝鮮。いずれも、フェミニズムが発達しているか、共産主義国で男女同権がある程度実現されている国(国家主義だという要素も大きいが)だ。
その要素を代表していたのが、圧倒的な存在だったアメリカだ。女子サッカーは、アメリカの女子スポーツの中でも断トツの人気を誇るだけでなく、アメリカの男子サッカーがマイノリティのマイナーなスポーツなのに対し、アメリカ中でもメジャーな競技だった。
報道でアメリカの女子サッカーのリーグ戦が写り、そのスタジアムの応援を初めて見た時、鳥肌が立った。それは女子プロレス以外ではほぼ目にしない、未来の光景だった。
澤穂希も宮間あやも小林弥生も、そのトップリーグの中でプレーし、アメリカの女子サッカーが作り出すまったく新しい社会の文化を胸いっぱいに吸って育っていた。
それは、男性優位というジェンダーの線引きが消え、女性が優位でもなく、つまりジェンダーという線引きの力学が消えた社会だった。それがアメリカの女性、セクシュアルマイノリティの中ではモデルケースとして強烈なメッセージを放っていたのである。
私はこの未来像こそが、当時の日本の小泉純一郎首相が体現する、強権とポピュリズムでマイナーな声を押し殺す社会への、最も力強く確実な選択肢だと信じ、のめり込んだ。それで『ファンタジスタ』という選挙(首相公選制)とサッカーを扱った小説を書いた(人文書院の『星野智幸コレクション Ⅰ スクエア』所収)。ワカノという澤を思わせる登場人物は、未来を体現しているが、その未来像がどのようなものかは示されない。それは、自分たちで作るもの、というのが、小説テクスト向かうところではあるのだが、私には書けなかった、ということもある。なぜなら、ヘテロ男性の私は女子サッカーに能動的に関わるという仕方でコミットすることはできないし、その当時は、ではどうしたらいいのかわからなかったから。
その女子サッカーの文化は、アメリカが引っ張りながら、世界中の女子サッカーに広まっている。これはフェミニズムが作り出したスポーツであり、実現させた社会像なのだ。
そしてその中からラピノーは生まれ育ったのだと思う。
ラピノーのことは代表になったころから見てきたけれど、アメリカ代表のキャプテンを担う系譜とはまたタイプが違うと思っていた。ミア・ハム、ボックス、ワンバック、ロイド、モーガンという「正統派」に対し、跳ね上がりのトンガリまくった急先鋒、という印象だった。
ラピノーはそのトンガリまくりそのままで、そのキャプテンたちのさらに先の時代へと、女子サッカーを進めて見せた。澤や宮間たち、その先達たちも含め、女子サッカーを担った人たちの闘いと歴史を思うと、ラピノーのスピーチには沢山の声が重なって聴こえて、涙が出る。
ラピノーは、私たちの代表チームは誰にとっても手本になる、と言った。自分の外に出て、少しでも前の日より大きな自分になろうと努めてほしい、と。だからラピノーは、若手たちの成長を泣いて寿いだのだ。まさに、それを実現してくれているから。未来は続いていると、示してくれたから。
圧倒的な優勝には、そういう豊かな意味がある。
今年もなでしこリーグを見にスタジアムに行こうと思い直した。女子サッカーの体現する社会を、ピッチの外にも広げるためにも。でもたんになでしこリーグ、面白いんだよね
お蔵入りしていたW杯小説を公開します ― 2018-06-11
今週の木曜日にはいよいよワールドカップ開幕。それに合わせて、ずっとオクラ入りしていた私のサッカー小説を、ブログに公開しようと思います。
ワールドカップ小説「緑のレプリカ」
なぜ、商業的な発表ではなくて、無料で私的な公開にするのか、この小説を書いた経緯とともにご説明いたします。
この作品は4年前のブラジル・ワールドカップに合わせて、ブラジルの編集者から依頼されたものでした。ブラジルが優勝した5つの大会を、それぞれの大会が開かれた国の作家に、フィクションないしはノンフィクションの物語として書いてもらい、5冊本のシリーズとしてブラジルで刊行する、「Libros del Penta(5冠の書、かな)」という企画もの。
ブラジルが優勝したのは、スェーデン、チリ、メキシコ、アメリカ、日韓の大会で、私は、日韓の大会の決勝が行われた日本の書き手、ということでお声がかかりました。そのブラジル人の編集者によると、日本の某大学のスペイン語科の学生か院生と接点があって、その人から推薦してもらったとのこと。その方には感謝しております。
他の国の書き手も面白い面々で、邦訳も出ているラテンアメリカの小説家なんかもいて、私としては光栄かつやりがいのある仕事だとまずは思いました。
しかし、相手はブラジルです。メキシコにせよ、こういう仕事が企画通りに進むのかは、とても怪しい。その編集者は、メールのやりとりやFacebook等で見る限り、いかがわしい人ではなさそうでしたが、そういうことは別にして、ラテンアメリカの仕事は一寸先は闇であり、日本の感覚で進めるとエライ目に遭うことは、経験的にも想像つきます。
なので、私は、この話がポシャっても損はしないよう、労力をかけすぎないようにして、話を進めることにしました。
まずは契約書の作成ですが、労力をかけないようにと思った先から、これがいちばんの難物でした。編集者とはスペイン語でやり取りをし、契約書もスペイン語でかわすことになったものの、そのような文書をスペイン語で扱う事など初めてなので、もう用語や言い回しがわかりません。大変な苦労をして、ようやくサインをしました。
契約金の半額が最初のアドバンスとしてすぐに支払われ、残りの半額は出版予定のちょっと前に払い込まれることになっていました。私は最初の振込を確認してから、取り掛かりました。トータルしても日本円ではさしたるお金にはなりませんが、まあ出版されてくれれば、私としては十分でした。
ページ数等から換算するに、日本語で原稿用紙換算約200枚を書けば、最低限、なんとかなる感じでした。労力をかけすぎない工夫として、次の2点を決めました。
まず、2002年の日韓ワールドカップについては、自分のブログで詳細な観戦記録を書いていたので、これを活用すること。ブログを書いているサッカーフリークの作家を登場させ、ブログをそのまま転載するのです。
もう1点は、トータルで約1ヶ月以内に完成させること。それ以上の時間はかけないこと。
半分まで書いたところで、原稿を送りました。そして、残りの半分は、残りのギャランティーが振り込まれたら送る、と告げました。
そこからは、私の悪い予想のままに進みます。支払い期日が迫ってきたころ、編集者から、出資してくれるところからの入金が小さなトラブルで遅れているので少し待ってくれ、というメールが、小刻みに連続するのです。私は一応、原稿はラフに仕上げてありましたが、もっと肉付けしたり、奥行きのある展開にしたり、細部を充実させることは、本当に本が出ることが確実になってからにしようと思っていました。しかし、ワールドカップの3ヶ月前の春の段階で、まだ財政状況が好転しないのでもう少し待ってくれないか、オノ・ヨーコの本が出版できたので状況が好転するかもしれない、というメールを最後に、連絡は途絶えました。2013年の春に最初にオファーをもらってから、約1年後のことでした。
まあ、予想されていたことでしたし、ギャラの半分はもらいましたが、契約書って、国をまたいでしまうとほとんど意味をなさないな、ということを学びました。
さて、ではこの作品をどうするか。すでに中途半端に報酬をもらった作品だし、労力を制限して書いたものなので、日本の媒体に持ち込むことはためらわれました。そうするのであれば、もっと完成度を上げなくてはならないけれど、すでに『呪文』という作品の執筆に取り掛かっていたので、そんな余裕もありません。そんなわけで、お蔵入りしたわけです。
あれから4年が経ち、またワールドカップが巡ってきて、読み直したところ、なんだかお蔵入りはもったいない気がして、それなら個人的に公開しようと思うにいたりました。
書かれている世界像は、最新の作品集『焔』に収録の「大角力世界共和国杯」と共通しています。2002年の日本でも、ワールドカップを通じてこんなことがあったかもしれない、と私が願う世界を作品にしました。いや、絶対にあったと思います。私としては珍しく全編リアリズムで、ブラジルの読者に日本の姿を伝えるために、啓蒙的なまでにわかりやすく書きました。
登場人物のうち、日系ブラジル人の「キチ」が育った境遇については、一部、私の尊敬するフットサル日本代表のエース、森岡薫選手の自伝『生まれ変わる力』(北健一郎と共著、白夜書房)を参照しました。特に、日系ペルー人として十代で親とともに日本に来てから、不良少年時代に逮捕されて強制送還の危機に陥ったくだりです。もちろん、「キチ」の人物像は私の創作で、森岡選手とは関係ありません。森岡選手のこの自伝、私は何度も泣きましたが、労働力として外国人が急増している今の日本社会を考えるためにも、ぜひ皆さんに読んでほしい良書です。
また、スペイン語通訳として、当時、メキシコ人を始め外国からの観戦客をアテンドしていた友人からも、いろいろエピソードを聞き、資料もいただきました。小説にも通訳が登場しますが、人物造形は私の創作です。むしろ、私の問題が投影されています。
サッカー好きな人はもちろん、サッカーのことはよくわからない人でも読めるのではないかなと思います。楽しんでいただければ嬉しいです。
2012年8月13日(月) ― 2012-08-13
ロンドン五輪が終わった。途中までソウルに暮らしていたこともあって、サッカー以外の競技は見なかった。11歳でモントリオール五輪を見て以来、私は熱烈なオリンピック視聴者だったが、北京五輪から急に嫌気がさして、見なくなってしまった。今では、サッカーと冬季のフィギュアスケートぐらいしか見ない。
その理由を象徴しているのが、男子のサッカー、銅メダルのかかった日韓戦と、同じく銅メダルのかかった女子のバレーボール日韓戦、そして女子サッカーの日本対アメリカ戦、その三つの戦いをめぐる空気や言説の差である。
ソウルから帰った直後に日韓戦が決まったので、私は純粋に嬉しかった。韓国の五輪チームが非常に高いポテンシャルを持った強豪であることは、いくつかの試合を見てわかっていたし、日本の五輪チームも最後はいいチームになっていたから、ガチで勝負するのには最高の環境だと思ったのだ。
だが、そんな私の気分はどうやら少数派のものだったようだ。韓国内の空気は過熱し、特にパクチュヨンの兵役忌避疑惑なども影響もあって、兵役免除とメダルがセットになって語られ、いったい何の話なのか、異様なムードに包まれていたようだ。一方、日本社会には、兵役免除をかけているチームと対戦してもなあ、というシラケた空気も濃厚に漂っていた。
そして、そこに悪意を流し込んだのが、李明博大統領の島訪問である。この品性の卑しさは、東京や大阪の首長と釣り合っている。
その結果、男子の日韓戦は、本来はモチベーションの高い宿敵同士が最高の舞台で戦う充実した試合になるはずが、見るも寒々しい貧しい試合となってしまった。内容が悪かったわけではない。しかし、とても気持ちよく見られる試合ではなかった。
ところが、直後の女子バレーボール日韓戦では、そのようなムードはあまりなかった。そこに流れている文脈は、これまでの韓国との対戦にまつわるものでしかなかった。
さらに、日韓戦の直前に行われた、女子サッカー決勝の日本対アメリカ戦。ここでは、互いを最大限リスペクトしている、高い次元で理解し合うよき友人でもある宿敵同士の、きわめて充実した試合が展開された。ここに、戦争の記憶が持ち込まれたり、政治的な何かが卑しくからめられたりすることはなかった。
なぜか?
どちらも、女子のスポーツだったからだ。天下国家を担うのは男子だから、男子の日韓戦には政治やナショナリズムや互いを卑下する嫌悪感がまとわりつくのだ。
オリンピックとか、体育とかは、近代の産物である。近代スポーツが何のために作られ、発展したかというと、国民国家を支える、国民=兵士という仕組みを実現させるためだ。男子国民の身体を、軍人化するための教育である。この世界観が男性至上の価値観によるものであることは、言うまでもない。
むろん、その価値観が数十年前にすでに破綻し、終わっていることは言うまでもない。その中で、スポーツの担う意味も変わっていこうとしてる。特に、女性のスポーツが盛んになってからは、兵士化した国家の身体で戦うというその価値観がスポーツを支配しなくなっている。
にもかかわらず、男子サッカーの日韓戦は、その価値観が前面に出てしまった。この間の両社会の空気や言論を感じながら、ああ、いまだに男の身体は兵士化されているのだなあと痛感した。それが男を縛っているものの正体の一つである。もはや何の役にも立たない、ただ害ばかりをもたらす無用の価値観なのにもかかわらず。
それに対して、女子の身体は兵士化されていない。そこには、「女子は天下国家を担わない」という蔑視の歴史も含まれているが、今では蔑視が幸いなるかな、女子の(特に団体の)スポーツは、これからの社会のあり方に、有力な価値のあるモデルケースを提示している。
女子サッカーで言えば、女子サッカーをずっと取材しているサッカージャーナリストが、「共感をベースにした関係性」というようなことをおっしゃっていた。まさしく、それがなでしこの原動力であるし、なでしこだけでなく、他国他地域の女子サッカーチームを支えている力である。共感共苦をもとにした感情の共有が、個々をつなげ、チームであることの歓びをもたらしている。それは、「自分を犠牲にしてでも集団のために尽くす」といった兵士化された身体の価値観とは、似て非なる。自分たちが生き続けていくために、苦しみも歓びも分かち合い、分散共有する、という、個を生かすための集団性である。
だから、女子サッカーは、男性の行ってるサッカーの女性バージョン、ではない。身体が兵士化されていない者たちの行う、サッカーから派生した、まったく新しいスポーツである。この生き心地の悪い社会をどのようにどんな形へ変えていったらいいのか、その素晴らしいモデルが、目の前にある。
その理由を象徴しているのが、男子のサッカー、銅メダルのかかった日韓戦と、同じく銅メダルのかかった女子のバレーボール日韓戦、そして女子サッカーの日本対アメリカ戦、その三つの戦いをめぐる空気や言説の差である。
ソウルから帰った直後に日韓戦が決まったので、私は純粋に嬉しかった。韓国の五輪チームが非常に高いポテンシャルを持った強豪であることは、いくつかの試合を見てわかっていたし、日本の五輪チームも最後はいいチームになっていたから、ガチで勝負するのには最高の環境だと思ったのだ。
だが、そんな私の気分はどうやら少数派のものだったようだ。韓国内の空気は過熱し、特にパクチュヨンの兵役忌避疑惑なども影響もあって、兵役免除とメダルがセットになって語られ、いったい何の話なのか、異様なムードに包まれていたようだ。一方、日本社会には、兵役免除をかけているチームと対戦してもなあ、というシラケた空気も濃厚に漂っていた。
そして、そこに悪意を流し込んだのが、李明博大統領の島訪問である。この品性の卑しさは、東京や大阪の首長と釣り合っている。
その結果、男子の日韓戦は、本来はモチベーションの高い宿敵同士が最高の舞台で戦う充実した試合になるはずが、見るも寒々しい貧しい試合となってしまった。内容が悪かったわけではない。しかし、とても気持ちよく見られる試合ではなかった。
ところが、直後の女子バレーボール日韓戦では、そのようなムードはあまりなかった。そこに流れている文脈は、これまでの韓国との対戦にまつわるものでしかなかった。
さらに、日韓戦の直前に行われた、女子サッカー決勝の日本対アメリカ戦。ここでは、互いを最大限リスペクトしている、高い次元で理解し合うよき友人でもある宿敵同士の、きわめて充実した試合が展開された。ここに、戦争の記憶が持ち込まれたり、政治的な何かが卑しくからめられたりすることはなかった。
なぜか?
どちらも、女子のスポーツだったからだ。天下国家を担うのは男子だから、男子の日韓戦には政治やナショナリズムや互いを卑下する嫌悪感がまとわりつくのだ。
オリンピックとか、体育とかは、近代の産物である。近代スポーツが何のために作られ、発展したかというと、国民国家を支える、国民=兵士という仕組みを実現させるためだ。男子国民の身体を、軍人化するための教育である。この世界観が男性至上の価値観によるものであることは、言うまでもない。
むろん、その価値観が数十年前にすでに破綻し、終わっていることは言うまでもない。その中で、スポーツの担う意味も変わっていこうとしてる。特に、女性のスポーツが盛んになってからは、兵士化した国家の身体で戦うというその価値観がスポーツを支配しなくなっている。
にもかかわらず、男子サッカーの日韓戦は、その価値観が前面に出てしまった。この間の両社会の空気や言論を感じながら、ああ、いまだに男の身体は兵士化されているのだなあと痛感した。それが男を縛っているものの正体の一つである。もはや何の役にも立たない、ただ害ばかりをもたらす無用の価値観なのにもかかわらず。
それに対して、女子の身体は兵士化されていない。そこには、「女子は天下国家を担わない」という蔑視の歴史も含まれているが、今では蔑視が幸いなるかな、女子の(特に団体の)スポーツは、これからの社会のあり方に、有力な価値のあるモデルケースを提示している。
女子サッカーで言えば、女子サッカーをずっと取材しているサッカージャーナリストが、「共感をベースにした関係性」というようなことをおっしゃっていた。まさしく、それがなでしこの原動力であるし、なでしこだけでなく、他国他地域の女子サッカーチームを支えている力である。共感共苦をもとにした感情の共有が、個々をつなげ、チームであることの歓びをもたらしている。それは、「自分を犠牲にしてでも集団のために尽くす」といった兵士化された身体の価値観とは、似て非なる。自分たちが生き続けていくために、苦しみも歓びも分かち合い、分散共有する、という、個を生かすための集団性である。
だから、女子サッカーは、男性の行ってるサッカーの女性バージョン、ではない。身体が兵士化されていない者たちの行う、サッカーから派生した、まったく新しいスポーツである。この生き心地の悪い社会をどのようにどんな形へ変えていったらいいのか、その素晴らしいモデルが、目の前にある。
2011年7月19日(火) ― 2011-07-19
女子サッカーを見始めた10年前、強豪国であったのは、王者アメリカ、ドイツ、スウェーデン、カナダ、中国、北朝鮮などであった。この名前を見ていて気づくのは、北方の欧米諸国か、東アジアの社会主義国だということだ。両者に共通するのは、女性の社会進出が相対的に進んでいるという点である。
女子サッカーの隆盛は、フェミニズムとともにある。女子サッカー文化の発展を牽引しているアメリカは、性差別を超えるプログラムの一環として、女子サッカー教育に力を入れた。その結果、女子サッカーはアメリカでは、「女こども」がするスポーツとなった。同様に、フェミニズム先進国であるドイツやスウェーデン、カナダといった北方の欧米諸国で、女性たちが積極的に関わってきた。男女同権が党是である「共産主義国」の中国や北朝鮮では、その国家主義的強化もあって、いち早く強豪化した。そこで隆盛化したのは、力と体格を前面に押し出すパワーサッカーだった。男子サッカーと違って、ヨーロッパにせよアメリカ大陸にせよ、マチスモの色濃いラテン諸国(ブラジルを除く)がいまいち強くないのは、そのような成り立ちも関係している。日本の女子サッカーはまず、身近にいる中国や北朝鮮の打倒を目指して成長し、さらにアメリカやドイツのリーグでプレーすることで成長した。パワーの先進諸国に育てられて、パワーではない新しいあり方を開花させた、妹分なのだ。
9年前に日本女子の代表をスタジアムに見に行ったとき(ワールドカップ予選のプレーオフ、対メキシコ戦)、そのチームは技術はなかなかだけど、球のスピードも遅いし、走力もないし、ミスも多かった。にもかかわらず、とても胸を打たれて、魅了されてしまったのは、男子サッカーが持たない「熱さ」を持っていたからだ。サッカーをすることの喜びに満ち、その喜びを貪り尽くそうと、ものすごく必死だった。
今度の優勝を見ればわかるように、今のチームもその延長上にある。熱さと喜びへのかぎりない貪欲さこそが、人々を魅了したのだ。
そして、ここが重要なのだが、これは男社会に最も欠落しているものだ。女子サッカーは、たんに、男子のしていたサッカーを女性がしているのではない。その文化の根っこに、男社会の持つ無意味さや空虚を否定する要素を持っていて、それが大きな原動力のひとつとなっている。この場合の男社会とは、もう機能しなくなっているのにその権限の保持だけに必死になっている既得権益層(例えば一部の行政機関、政府、行政と結びついた私企業等々)と言い換えてもよい。そしてそれを消極的に無為に受け入れ維持させてしまう、この社会。そういった、日本社会の「現実至上主義」のメンタリティを指す。男子のサッカーはそれに寄り添っているところがある。女子のサッカーはそのアンチテーゼだ。
私はそのようなものとして、女子サッカーを、ありうべきひとつの未来のイメージとして、楽しみ、考え、見てきた。その象徴にして実像が、澤穂希だ。そうやって、2002年に「ファンタジスタ」という小説も書いた。9.11 後の小泉(首相)的社会に対置させるべき像として、澤を想像した。
私は現実の日本女子サッカーに、過剰な意味づけをしているとは思う。選手はそんなことまで意識していないし、もっとシンプルに行動している。でも、私が幻想を抱いているわけでもない。女子サッカーという存在は、本当にそのような要素を持っているのだ。
だから、私はごく少数の人を除いて、今の喜びを共有はしない。少なくとも、女子サッカー文化を知ろうともせずに、数ある「日本代表」のひとつとしてのみ消費して「感動」しようとするような空気に対しては、関係ないねと言いたい。女子サッカーの文化を蹂躙するようなメディアの盛り上がり方には、「おまえら終わってるよ」と言いたい。(だから私自身は「ナデシコ」という名称も使わない。その名称が普及に大きな役割を果たしていると思うし、だから選手も好んで使っていることも承知しているけれど)。
この優勝の盛り上がりに、女子サッカーがメジャー化するという希望と、何だか水を差したくなる嫌悪と、両方を感じてしまう。被災で弱った社会が、ここから力を受け取るのは素晴らしいと思う。選手たちがその祈りを胸に戦ったことにも間違いなく心を打たれる。一方で、被災や復興を口実に盛り上がるな、と腐したくもなる。作り物のニセの感動物語を真に受けるな、と言いたくもなる。
女子サッカーの隆盛は、フェミニズムとともにある。女子サッカー文化の発展を牽引しているアメリカは、性差別を超えるプログラムの一環として、女子サッカー教育に力を入れた。その結果、女子サッカーはアメリカでは、「女こども」がするスポーツとなった。同様に、フェミニズム先進国であるドイツやスウェーデン、カナダといった北方の欧米諸国で、女性たちが積極的に関わってきた。男女同権が党是である「共産主義国」の中国や北朝鮮では、その国家主義的強化もあって、いち早く強豪化した。そこで隆盛化したのは、力と体格を前面に押し出すパワーサッカーだった。男子サッカーと違って、ヨーロッパにせよアメリカ大陸にせよ、マチスモの色濃いラテン諸国(ブラジルを除く)がいまいち強くないのは、そのような成り立ちも関係している。日本の女子サッカーはまず、身近にいる中国や北朝鮮の打倒を目指して成長し、さらにアメリカやドイツのリーグでプレーすることで成長した。パワーの先進諸国に育てられて、パワーではない新しいあり方を開花させた、妹分なのだ。
9年前に日本女子の代表をスタジアムに見に行ったとき(ワールドカップ予選のプレーオフ、対メキシコ戦)、そのチームは技術はなかなかだけど、球のスピードも遅いし、走力もないし、ミスも多かった。にもかかわらず、とても胸を打たれて、魅了されてしまったのは、男子サッカーが持たない「熱さ」を持っていたからだ。サッカーをすることの喜びに満ち、その喜びを貪り尽くそうと、ものすごく必死だった。
今度の優勝を見ればわかるように、今のチームもその延長上にある。熱さと喜びへのかぎりない貪欲さこそが、人々を魅了したのだ。
そして、ここが重要なのだが、これは男社会に最も欠落しているものだ。女子サッカーは、たんに、男子のしていたサッカーを女性がしているのではない。その文化の根っこに、男社会の持つ無意味さや空虚を否定する要素を持っていて、それが大きな原動力のひとつとなっている。この場合の男社会とは、もう機能しなくなっているのにその権限の保持だけに必死になっている既得権益層(例えば一部の行政機関、政府、行政と結びついた私企業等々)と言い換えてもよい。そしてそれを消極的に無為に受け入れ維持させてしまう、この社会。そういった、日本社会の「現実至上主義」のメンタリティを指す。男子のサッカーはそれに寄り添っているところがある。女子のサッカーはそのアンチテーゼだ。
私はそのようなものとして、女子サッカーを、ありうべきひとつの未来のイメージとして、楽しみ、考え、見てきた。その象徴にして実像が、澤穂希だ。そうやって、2002年に「ファンタジスタ」という小説も書いた。9.11 後の小泉(首相)的社会に対置させるべき像として、澤を想像した。
私は現実の日本女子サッカーに、過剰な意味づけをしているとは思う。選手はそんなことまで意識していないし、もっとシンプルに行動している。でも、私が幻想を抱いているわけでもない。女子サッカーという存在は、本当にそのような要素を持っているのだ。
だから、私はごく少数の人を除いて、今の喜びを共有はしない。少なくとも、女子サッカー文化を知ろうともせずに、数ある「日本代表」のひとつとしてのみ消費して「感動」しようとするような空気に対しては、関係ないねと言いたい。女子サッカーの文化を蹂躙するようなメディアの盛り上がり方には、「おまえら終わってるよ」と言いたい。(だから私自身は「ナデシコ」という名称も使わない。その名称が普及に大きな役割を果たしていると思うし、だから選手も好んで使っていることも承知しているけれど)。
この優勝の盛り上がりに、女子サッカーがメジャー化するという希望と、何だか水を差したくなる嫌悪と、両方を感じてしまう。被災で弱った社会が、ここから力を受け取るのは素晴らしいと思う。選手たちがその祈りを胸に戦ったことにも間違いなく心を打たれる。一方で、被災や復興を口実に盛り上がるな、と腐したくもなる。作り物のニセの感動物語を真に受けるな、と言いたくもなる。