2012年8月13日(月) ― 2012-08-13
ロンドン五輪が終わった。途中までソウルに暮らしていたこともあって、サッカー以外の競技は見なかった。11歳でモントリオール五輪を見て以来、私は熱烈なオリンピック視聴者だったが、北京五輪から急に嫌気がさして、見なくなってしまった。今では、サッカーと冬季のフィギュアスケートぐらいしか見ない。
その理由を象徴しているのが、男子のサッカー、銅メダルのかかった日韓戦と、同じく銅メダルのかかった女子のバレーボール日韓戦、そして女子サッカーの日本対アメリカ戦、その三つの戦いをめぐる空気や言説の差である。
ソウルから帰った直後に日韓戦が決まったので、私は純粋に嬉しかった。韓国の五輪チームが非常に高いポテンシャルを持った強豪であることは、いくつかの試合を見てわかっていたし、日本の五輪チームも最後はいいチームになっていたから、ガチで勝負するのには最高の環境だと思ったのだ。
だが、そんな私の気分はどうやら少数派のものだったようだ。韓国内の空気は過熱し、特にパクチュヨンの兵役忌避疑惑なども影響もあって、兵役免除とメダルがセットになって語られ、いったい何の話なのか、異様なムードに包まれていたようだ。一方、日本社会には、兵役免除をかけているチームと対戦してもなあ、というシラケた空気も濃厚に漂っていた。
そして、そこに悪意を流し込んだのが、李明博大統領の島訪問である。この品性の卑しさは、東京や大阪の首長と釣り合っている。
その結果、男子の日韓戦は、本来はモチベーションの高い宿敵同士が最高の舞台で戦う充実した試合になるはずが、見るも寒々しい貧しい試合となってしまった。内容が悪かったわけではない。しかし、とても気持ちよく見られる試合ではなかった。
ところが、直後の女子バレーボール日韓戦では、そのようなムードはあまりなかった。そこに流れている文脈は、これまでの韓国との対戦にまつわるものでしかなかった。
さらに、日韓戦の直前に行われた、女子サッカー決勝の日本対アメリカ戦。ここでは、互いを最大限リスペクトしている、高い次元で理解し合うよき友人でもある宿敵同士の、きわめて充実した試合が展開された。ここに、戦争の記憶が持ち込まれたり、政治的な何かが卑しくからめられたりすることはなかった。
なぜか?
どちらも、女子のスポーツだったからだ。天下国家を担うのは男子だから、男子の日韓戦には政治やナショナリズムや互いを卑下する嫌悪感がまとわりつくのだ。
オリンピックとか、体育とかは、近代の産物である。近代スポーツが何のために作られ、発展したかというと、国民国家を支える、国民=兵士という仕組みを実現させるためだ。男子国民の身体を、軍人化するための教育である。この世界観が男性至上の価値観によるものであることは、言うまでもない。
むろん、その価値観が数十年前にすでに破綻し、終わっていることは言うまでもない。その中で、スポーツの担う意味も変わっていこうとしてる。特に、女性のスポーツが盛んになってからは、兵士化した国家の身体で戦うというその価値観がスポーツを支配しなくなっている。
にもかかわらず、男子サッカーの日韓戦は、その価値観が前面に出てしまった。この間の両社会の空気や言論を感じながら、ああ、いまだに男の身体は兵士化されているのだなあと痛感した。それが男を縛っているものの正体の一つである。もはや何の役にも立たない、ただ害ばかりをもたらす無用の価値観なのにもかかわらず。
それに対して、女子の身体は兵士化されていない。そこには、「女子は天下国家を担わない」という蔑視の歴史も含まれているが、今では蔑視が幸いなるかな、女子の(特に団体の)スポーツは、これからの社会のあり方に、有力な価値のあるモデルケースを提示している。
女子サッカーで言えば、女子サッカーをずっと取材しているサッカージャーナリストが、「共感をベースにした関係性」というようなことをおっしゃっていた。まさしく、それがなでしこの原動力であるし、なでしこだけでなく、他国他地域の女子サッカーチームを支えている力である。共感共苦をもとにした感情の共有が、個々をつなげ、チームであることの歓びをもたらしている。それは、「自分を犠牲にしてでも集団のために尽くす」といった兵士化された身体の価値観とは、似て非なる。自分たちが生き続けていくために、苦しみも歓びも分かち合い、分散共有する、という、個を生かすための集団性である。
だから、女子サッカーは、男性の行ってるサッカーの女性バージョン、ではない。身体が兵士化されていない者たちの行う、サッカーから派生した、まったく新しいスポーツである。この生き心地の悪い社会をどのようにどんな形へ変えていったらいいのか、その素晴らしいモデルが、目の前にある。
その理由を象徴しているのが、男子のサッカー、銅メダルのかかった日韓戦と、同じく銅メダルのかかった女子のバレーボール日韓戦、そして女子サッカーの日本対アメリカ戦、その三つの戦いをめぐる空気や言説の差である。
ソウルから帰った直後に日韓戦が決まったので、私は純粋に嬉しかった。韓国の五輪チームが非常に高いポテンシャルを持った強豪であることは、いくつかの試合を見てわかっていたし、日本の五輪チームも最後はいいチームになっていたから、ガチで勝負するのには最高の環境だと思ったのだ。
だが、そんな私の気分はどうやら少数派のものだったようだ。韓国内の空気は過熱し、特にパクチュヨンの兵役忌避疑惑なども影響もあって、兵役免除とメダルがセットになって語られ、いったい何の話なのか、異様なムードに包まれていたようだ。一方、日本社会には、兵役免除をかけているチームと対戦してもなあ、というシラケた空気も濃厚に漂っていた。
そして、そこに悪意を流し込んだのが、李明博大統領の島訪問である。この品性の卑しさは、東京や大阪の首長と釣り合っている。
その結果、男子の日韓戦は、本来はモチベーションの高い宿敵同士が最高の舞台で戦う充実した試合になるはずが、見るも寒々しい貧しい試合となってしまった。内容が悪かったわけではない。しかし、とても気持ちよく見られる試合ではなかった。
ところが、直後の女子バレーボール日韓戦では、そのようなムードはあまりなかった。そこに流れている文脈は、これまでの韓国との対戦にまつわるものでしかなかった。
さらに、日韓戦の直前に行われた、女子サッカー決勝の日本対アメリカ戦。ここでは、互いを最大限リスペクトしている、高い次元で理解し合うよき友人でもある宿敵同士の、きわめて充実した試合が展開された。ここに、戦争の記憶が持ち込まれたり、政治的な何かが卑しくからめられたりすることはなかった。
なぜか?
どちらも、女子のスポーツだったからだ。天下国家を担うのは男子だから、男子の日韓戦には政治やナショナリズムや互いを卑下する嫌悪感がまとわりつくのだ。
オリンピックとか、体育とかは、近代の産物である。近代スポーツが何のために作られ、発展したかというと、国民国家を支える、国民=兵士という仕組みを実現させるためだ。男子国民の身体を、軍人化するための教育である。この世界観が男性至上の価値観によるものであることは、言うまでもない。
むろん、その価値観が数十年前にすでに破綻し、終わっていることは言うまでもない。その中で、スポーツの担う意味も変わっていこうとしてる。特に、女性のスポーツが盛んになってからは、兵士化した国家の身体で戦うというその価値観がスポーツを支配しなくなっている。
にもかかわらず、男子サッカーの日韓戦は、その価値観が前面に出てしまった。この間の両社会の空気や言論を感じながら、ああ、いまだに男の身体は兵士化されているのだなあと痛感した。それが男を縛っているものの正体の一つである。もはや何の役にも立たない、ただ害ばかりをもたらす無用の価値観なのにもかかわらず。
それに対して、女子の身体は兵士化されていない。そこには、「女子は天下国家を担わない」という蔑視の歴史も含まれているが、今では蔑視が幸いなるかな、女子の(特に団体の)スポーツは、これからの社会のあり方に、有力な価値のあるモデルケースを提示している。
女子サッカーで言えば、女子サッカーをずっと取材しているサッカージャーナリストが、「共感をベースにした関係性」というようなことをおっしゃっていた。まさしく、それがなでしこの原動力であるし、なでしこだけでなく、他国他地域の女子サッカーチームを支えている力である。共感共苦をもとにした感情の共有が、個々をつなげ、チームであることの歓びをもたらしている。それは、「自分を犠牲にしてでも集団のために尽くす」といった兵士化された身体の価値観とは、似て非なる。自分たちが生き続けていくために、苦しみも歓びも分かち合い、分散共有する、という、個を生かすための集団性である。
だから、女子サッカーは、男性の行ってるサッカーの女性バージョン、ではない。身体が兵士化されていない者たちの行う、サッカーから派生した、まったく新しいスポーツである。この生き心地の悪い社会をどのようにどんな形へ変えていったらいいのか、その素晴らしいモデルが、目の前にある。