女子サッカー シービリーブズカップの衝撃2020-03-13

 女子サッカー、シービリーブズカップは衝撃的な結果だった。
 日本は対スペイン戦1-3の敗北に始まり、イングランド戦が0ー1の敗北、アメリカ戦には1-3の敗北。どの試合も完敗。
 衝撃とは、日本の女子サッカーがこの2年ぐらいで欧米のサッカーに差をつけられ始め、ついには1ランク下の等級に落ちるまでに差は開いてしまったことを、完膚なきまでに見せつけられたこと。優勝争いをするレベルではなく、ベスト8を争うレベルだろうか。
 キーパーの山下が初戦の後で言っていたが、去年のワールドカップで体験した失敗がまったく生かせていない。むしろ、致命的なミスが増えた。そしてそれを3戦に渡って繰り返した。
 素人のファンとして私が感じたことは大きく2つの点。
 まず、サッカーの基礎の差が埋めがたいまでに露わになってしまったこと。ボールスピード、走るスピード、ボールの飛距離、一対一での勝負弱さ、判断力の遅さ。今の女子サッカーの最先端は、それらが日本の女子サッカーよりずっと早い。だから、ダイナミックで迫力のあるサッカーを展開するけれど、日本代表はどうしても小さく非力でチマチマして見えてしまう。
 この原因ははっきりしている、と私は思う。なでしこリーグが、欧米のリーグよりゆるいからだ。普段からスピードの速い、判断の速さも強いフィジカルも求められる中で試合をしているのと、洗練されたサッカーはしているが、ゆるいパススピードでもそれが通ってしまうリーグでプレーしているのとでは、その蓄積の差は思っているより大きいものとなる。強いプレスを受けると何もできなくなってしまうのは、日常の環境の違いから来ると思うので、もはや一朝一夕では変えられない。
 若い世代の才能を、私はつゆも疑っていない。でも、彼女たちは挑戦をしていないと思う。ホームの東京五輪に狙いを定めているせいで、なでしこリーグから欧米のリーグに挑戦する選手がほとんどいない。日本にいたほうが代表に定着しやすいからだ。
そうしてリスクを負わないでいるうち、基礎的な部分での差がどんどん拡大してしまった。その結果、強豪相手に戦術を実現できないほどに、個々のプレーがレベルダウンしてしまった。日本の女子サッカーは、いわば鎖国状態にあると思う。
 田中美南はベレーザ で活躍できても代表ではそのポテンシャルを発揮しきれなかった。だから今季からINAC神戸に移籍した。お互いがわかりあいすぎている中でのサッカーだけでは、世界に通用しないから。私はその気持ちを、世界への挑戦に向けてほしかった。
 海外に出て代表から消える例が多いから(横山とか猶本とか)、出ていくことにためらってしまうのかもしれない。でもそれは、日本のサッカーを停滞させる大きな要因になる。
 もう一点も、それと関係するが、戦術の不足である。今回対戦した3チームは、今の世界のベスト3と言ってもいいと思うが、最先端の緻密な戦術が徹底されていた。男子のリヴァプールみたいなサッカーを、女子もするような時代になったのである。日本女子のお株であるパスサッカーは、その最先端の戦術の前で、ほとんど機能しなかった。
 高倉監督は、局面局面での選手個々の自主的な判断を重視し、それができるようになるよう求めてきた、という。男子サッカーでの課題とまったく一緒だが、それが日本のサッカーに最も欠けている部分であり、育てたい気持ちはよくわかる。けれど、思考や判断も、フィジカルや駆け引きも、すべてひっくるめて個の強さを学ぶには、やはり欧米のリーグに挑戦する以外に道はないと思う。日本のなでしこリーグ環境で可能だと思えるなら、それは世界を甘く見ている。
 そういう自主性を持つ選手に、高度な最先端の戦術を仕込んでいるのが、今の世界の女子サッカーの現在だ。日本の位置はそれよりも少し過去にいる。
 五輪までにできることはし尽くして、本番では今の力を発揮し尽くしてほしい。そのうえで、代表レベルの若手は五輪後、リスクをかけて容赦のない欧米のリーグ環境に挑んでほしい。田中美南、杉田、長谷川、遠藤、三浦、清水、南、籾木、高橋はなあたりが率先して。そして、代表監督もスペインで今活躍している選手たちを呼んでほしい。


谷崎賞の受賞スピーチ2018-10-11

 まずはこの作品を候補にしてくださった方々、また選考のために読んでくださった選考委員の皆様に、感謝を申し上げます。ありがとうございます。
 ご承知のように、この賞は候補作になっていることは書き手にも明かされないので、受賞した場合のみ、いきなり通知がくるわけです。ぼくはお電話をいただいた時、夏休みの旅行で飛行機に乗る直前でした。担当の編集者から「今お時間よろしいでしょうか」と言われた時、つい「うーん、長くかかりますかー?」と答えてしまいました。要件の内容を聞いた後の豹変ぶりといい、じつに感じ悪かったなと、思い返すたびに恥ずかしいです。すみません。
 おかげで、夏休みはとても気分よく過ごすことができました。旅行先で仕事もせずに、受賞の余韻にだけ浸っていられたわけですから。
 ところが、夏休みを終えてからが大変でした。例の「新潮45」の問題が起こったからです。受賞作『焔』は、新潮社の刊行なのです。
 今回の受賞でぼくが誇れることの一つは、編集者とのコラボレーションです。
 この本はあちこちに書いた短編小説を集めたものではありますが、ただ集めたわけではありません。編集者と数年越しの打ち合わせを重ねながら、作品集が一つの世界像を作り上げられるよう、いくつもの試みを行いました。作品の間にサブテキストを挟んだり、装幀の方にレイアウトを工夫してもらったり、それに合わせた装画を描いていただいたり。皆で相談と試行錯誤を繰り返しながら、それぞれの担当が持ち味を発揮してくれたおかげで、バラバラだった短編がコレクティブな力を持てるようになったと確信しています。
 この本の示す世界像は、私たちの生きるこの世が憎悪、憎しみに覆われていくことへの悲観と、そこからの離脱です。「悲観」と申しましたが、それは「諦め」を意味しません。むしろ憎悪に与しないための、拒絶です。
 にもかかわらず、まさにその憎悪が新潮社の雑誌を乗っ取ってしまった。新潮社への批判が相次ぐ中、ぼくの本についても、新潮社だから今は買うことはできない、と言われたりしました。
 けれど、ぼくが一緒に本づくりをした人たちは、憎悪に加担してはいません。そういうことに与しないという本を作っているわけだから。実際に、新潮社の文芸セクションは、「新潮45」を批判するツイートを引用する、という方法で、差別に加担しない意思を示しました。
 このやり方には、消極的だとか、責任逃れだとか、いろいろな批判もありました。でもぼくは、もしかしたらこれまで無関心だったかもしれない人たちが、おずおずとであろうが、批判の意思を示そうとしたのなら、それはまずは歓迎したいと思いました。
 差別やヘイトスピーチといった憎悪の目的は、世の中を敵と味方に二分して争いを拡大させることです。社会中が憎み合って、どこもかしこも敵同士になることを望んでいるのです。憎悪の目的をくじけるのは、憎み合わず、叩き合わずにいる姿勢です。憎しみに洗脳されたくないと感じている人は誰であれ、分断されずに協調しあっていくことが肝心なのです。
 文学の書き手たちは、「文学は善悪の彼岸にあるのだ」というような言い方や考え方を好みます。ぼくも基本的には、文学は世の常識や通念としての善悪には縛られないと考えています。けれど、最近いろいろと文学や芸術の暴力性として問題になっているケースは、その説明では正当化できないと感じています。
 差別的、ヘイト的な言葉がこの社会を動かしつつある現場を、文学は少々ないがしろにしてきたのではないか。ただの古くなった価値観を振りかざしているだけで、自分たちの表現の自由を維持するための努力を怠ってきたのではないか。そう感じることが増えています。昭和初期に日本の戦争に加担する言説を作ってきた書き手たちも、じつは「善悪の彼岸」にいるつもりだったのではないかと、ぼくは思っていますが、このままでは文学はそれを繰り返しかねません。
 ぼくの考えでは、文学とは猛毒を薬に変えて差し出す表現です。『アルカロイド・ラヴァーズ』という作品を書いたときに植物毒のことをさんざん調べたのですが、ほぼすべての植物の毒は、じつは薬として使われています。毒と薬は、同じ物質なのです。文学とは、毒の力を保ちながら薬として使うメディアであり、作家とはその調合を心得た専門家ということになります。だから、格闘家が一般人相手に喧嘩してはいけないように、作家は何が言葉の暴力で何が表現なのか、よく知っておかねばなりません。文学の業界、出版の業界が、そういう現場の感覚にうとくなっていることが、「新潮45」の問題を許した一因でもあると思います。
 ぼくの尊敬する横綱白鵬が言っていることですが、危機というのは常にチャンスでもあります。危機を克服するために学び、考えれば、それはチャンスに変わるのです。業界全体で、ヘイトと表現の自由について、学び考えていければと願っています。
 受賞のスピーチとしてはふさわしくないものになってしまったかもしれませんが、業界にこそ本気で取り組んでほしいので、この機会にぼくの考えを共有させていただきました。ぼく自身も、毒があふれるいまの社会、毒が強ければ強いほど薬の強さも増すという思いで、この受賞に背中を押してもらいながら、さらに時代にふさわしい自分の文学を作り続けるつもりでいます。
 ありがとうございました。

大相撲の土俵女人禁制問題について2018-04-05

 昨日、巡業の土俵上で挨拶していた舞鶴市長が突然倒れ、駆け寄った女性たちが心臓マッサージなどを施している最中に、「女性の方は土俵から降りてください」とアナウンスがあった問題。ニュースを知り、その場の映像を見た時には私の頭も沸騰し、感情的な言葉を吐いてしまって落ち込んだが、その後の八角理事長のコメントを読んで、まずは納得した。コメントは次のようなもの(4月5日付スポーツ報知より)。
「本日、京都府舞鶴市で行われた巡業中、多々見良三・舞鶴市長が倒れられました。市長のご無事を心よりお祈り申し上げます。とっさの応急措置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます。応急措置のさなか、場内アナウンスを担当していた行司が『女性は土俵から降りてください』と複数回アナウンスを行いました。行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫(わ)び申し上げます」。
 余計な言い訳をせずに対応が間違っていたことを認めたのだし、昨日の過ちに関しては、終わりにするべきだ。
 こういうことが起きるたびに、私はひどく消耗する。私もこの対応には怒りを覚えたが、それは長年、この件(本場所などの土俵上を女人禁制にしていること)に嫌な思いをし続け、苦しい思いを抱えてきたからだ。このことは後ほど展開する。
 昨日の事例は確かに批判されるべき出来事だが、いまの巷では、相撲界はいわば「非国民的」な非常識集団なのだからいくらでもバッシングしていい、という空気のもと、相撲をよくするとかその文化を現代に合ったものに変えていくといった観点など全く欠いたまま、ひたすら自分たちが溜飲を下げるための対象としてバッシングされ続けている。昨日の件への批判も、大半はそんな心根から発せられた、言い捨てのようなものだった。叩いていいという空気ができたらいくらでも叩いてよくてそうすれば正義の気分を持っていられて実際には憂さ晴らしの暴力でしかなくてもマジョリティの側からのバッシングだから罪悪感を抱かないでいられる、って、もう究極の理想的な全体主義でしょ。
 そんな反応の中には、「貴乃花親方はこういう協会の旧弊な体質を変えようとしていたのだ」というような意見もあって、あきれた。あの人ほど、戦前のような家父長制をベースとする復古主義的な相撲に戻そうとしている人はいないのであって、協会の誰よりも女人禁制主義者ですよ。世を教育勅語の世界に戻そうとする人を、改革派の英雄に祭り上げているメディアの姿勢は、橋下徹前大阪市長をヒーローに祭り上げたのと同じ姿勢であり、そのメカニズムやメンタルの精緻な分析は、松本創さんの名著『誰が『橋下徹』をつくったか』を読むとよーくわかる。貴乃花親方は、民主的な相撲協会を実現するうえで、最大の障壁なのだ。
 なので、バッシングではなくて、自分にとっての相撲を壊してほしくないという思いから、私は今回の事件について批判を述べたい。
 2007年から11年までに噴出した不祥事の後、相撲協会は明らかにそれまでの相撲協会から変わろうと、さまざまな努力はしていると思う。多々、認識の甘い点があるため、もっと徹底して変えなくてはならないものを変えられないでいたりして、その最大の事例が、相撲の現場における暴力容認、鉄拳制裁は必要悪、みたいな意識だろう。日馬富士の事例から垣間見えたのは、これは日馬富士の性格の問題ではなく、相撲界全体でまだ共有されている暴力文化の問題だな、ということだった。その後、細かく、暴力の問題が発覚しているのは、そういうことだろう。同時に、それが相撲界の中でも問題視されるようになったから、顕在化することも多くなったのだろう。その意味では、変わろうとする意識が形を伴いつつある証拠であり、いいことだと思う。
 ただ、顕在化するたびに、先に述べたような、たんなる苛烈な集団いじめでしかないメディアと世間からのバッシングにさらされる。そして事件の当事者が廃業に追い込まれていく。バッシングの欲望は、ターゲットの敗北を眺めて優越感に浸るのを目指しているから、そこまで追い込まないと気が済まない。
 私はここにはものすごい違和感がある。こういうあり方はおかしいし、あってはならないと思っている。
 これはあくまでも私の相撲観だが、相撲は社会的なセイフティーネットの役割をどこかに持ち合わせていると思う。家族や地域社会で支えきれない、端的に言えばはみ出し者たちを10代半ばから預かり、生活を含めた居場所としていく。かつての芸能の側面が強かった時代は、よりその色が濃かっただろう。今はだいぶその色は薄いけれど、関取や役付にはなれない力士や行司、呼び出し、床山たちの世界には、まだそういう要素が残っていると私は感じている。相撲部屋が疑似家族制なのは、未成年のはみ出し者を育てる場所としての家族環境、という意味合いもあっただろう。
 そこで重要なのは、失敗を許す環境である。指導の仕方は硬軟いろいろあるだろうが、失敗から学ばせて成長させていく場であることが、個々人の尊厳を作っていく。はみ出し者たちも多くいる集団だから、派手な失敗も多いだろうし、時には度を越すこともあろう。でもそこで相撲界から放逐するのでなく、学ばせていく。その機能が大相撲にはあると思うのだ。
 しかし、今のメディアと世の態度は、これと大きくかけ離れている。一度失敗をした者は、相撲界から追放しないと気が済まない。ここには、相撲界をよくする意思も、失敗した個人を学ばせて経験値を上げようという意思も、皆無だ。あるのは、人が落ちていくのを見て喜びを感じるという嗜虐性のみだ。
 もちろん、同じ過ちを繰り返し続けるとか、度を超しすぎた事件を起こすとか、その人の経験や立場など、勘案するべき事項はある。けれど、まだ若く経験の少ない者の過ちに関しては、学んで立ち直らせることに全力を注ぐべきだし、相撲界が蓄積させてきたその経験は活かすべきなのだ。それが社会的包括だと思う。
 その中で、では相撲界がどんな基準で、過ちを判断し、どの方向に導くのか、その点がいまは本当に問われるべきこととなっている。そして私の大きな不満と違和と苦しさもそこにある。
 鉄拳制裁の問題に関しては、徐々にではあるけれど、改善して行こうとしているので、見守りたい。
 けれど、差別の問題は手付かずだ。
 一つは、私がずっと書き続けてきて『のこった』という本にもした、外国人や民族、国籍差別の問題。館内で起こる差別的な声援に対し、今だに何の対応もなされていないし、モンゴル力士、特に白鵬をターゲットにしたメディアとネットの差別的攻撃に対しても、相撲協会は何も手を打ちもしなければ、声明を出したりもしない。それどころか、横審が差別を煽る言動をしても、それを受け入れている。親方になるために日本国籍が必要という、国籍差別の条項を見直す機運も、まったくない。
 そしてもう一つが、今回、顕在化した、性差別の文化の問題である。この記事によると、(「女人禁制の土俵、いまも賛否 「女性総理になったら、杯を誰が…」」朝日新聞with news)
「いまも女性は国技館の土俵には立てない。毎年夏に国技館で開かれる「わんぱく相撲全国大会」には、女子が地方予選で優勝しても出場できない。
 力士の断髪式でも、息子は土俵に上がって引退した父親のまげにハサミを入れられるが、娘は、それができない。土俵の下から花束を渡す子が多い。」
 横綱貴乃花のファンだった私は、貴乃花の引退以降、十余年にわたって相撲を見るのをやめていたが、その原因に、2000年に起きた太田房江・大阪知事(当時)を土俵に上げない問題があったことを、今回、思い出した。大阪場所で優勝力士への知事賞の表彰をしようとしたところ、相撲協会から、「女性は土俵に上がれない」として却下された事件である。
 身分制そのもののようなこの対応に私自身がやりきれない思いでいっぱいになったし、私の親しい女性の友人たちから、「そんな相撲をそれでも見るんだ?」という批判的な眼差しを浴びせられた。ただでさえ、貴乃花ファンであることに、自分でも分裂した苦しさを抱えていたのに(力士として心酔していることと、人間としてはどうしても受け入れられないという拒絶感と)、こんな時代錯誤の差別を押し通そうとされたら、もうこちらも耐えられない。その気分も、私を相撲から離れさせた大きな要因だった。
 そのことを忘れていたのは、近年は、女人禁制問題が顕在化していなかったからだ。私もつらくなるので、きっと、はっきりとは意識に上らせないようにしていたのだろう。けれど、相撲協会はこの件では何ら変更を告げていないので、女人禁制はそのままである。そしてそれは先に挙げた記事の例として、細部に現れている。
 今回、若い行司が観客の「土俵上に女性を上げていいのか」という強い声に混乱し、ついアナウンスをしてしまった背景には、大相撲界は今だに国技館の土俵を女人禁制にし続けていることがある、と私は思っている。そのように教えこまれて形作られた価値観のベースがあるから、慌てた時にそちらに触れてしまったのではないか。
 差別の行為をする人には、多くの場合、差別している意識はない。それが自然だと思っているから。しかし、された側は人間として否定されたような強烈な傷を受ける。
 大相撲の、土俵に女性を上げないというしきたりは、どんな経緯や歴史があろうが、現代では、性差別はしてよいというメッセージにしかならない。私は条件なしで、このしきたりは廃止すべきだと思っている。さもないと、相撲の文化が常に、属性で人を排除し傷つけ続けることになる。私はそういうことに加担していると思いながら相撲を見ることに耐えられない。相撲協会は、そういう人から相撲を奪わないでほしい。
 それが暴力になるような伝統はいくらでも変えればよい。伝統はそうやって変化しながら、時代を生き残るものなのだから。伝統の名で差別を温存するなら、それはネトウヨや差別を目的とした暴力主義者のやっていることと、なんら変わりはなくなる。こういうことを言うと、歌舞伎云々という話がすぐ出てくるが、歌舞伎界がどういう姿勢を取ろうが、相撲は相撲で、現代の人権の基準に則ったあり方にしてほしい。
 今回、問題が顕在化したのをいい契機として、国技館や本場所の土俵にも女性が上がれるよう、そろそろ変えるべきではないか、という議論をしてはどうだろうか。確実に相撲の信頼回復と人気につながるはずだ。


謹賀新年2018-01-01

 あけましておめでとうございます。
 昨年は仕込みの年でしたが、後半は相撲エッセイ集『のこった』を刊行、ちょうど相撲界で事件が起きたときだったので、巻き込まれました。
 今年は、近いところでは、3年ぶりの小説となる『焰』(新潮社)を2月に刊行します。新しい試みをしているので、ご期待ください。また、『夜は終わらない』の文庫を2月に、『呪文』の文庫も秋に予定しています。
 そして何よりも、来年に発表する予定の長編を書くという大きな計画が待っています。
 昨年の目標として「サルサ手話短編集づくり来るべき長編の準備腰痛を治してフットサルへの本格復帰、書斎の整理」と、「たべるのがおそい」3号に書きましたが、短編集づくりとフットサル復帰以外は、かないませんでした。
 今年は、私生活では今を楽しみ、小説では近くはない未来を見据えて、そこに届けるようなつもりで考えていきたいと思います。
 今年もよろしくお願いします。

鳥取ループ裁判に行ってきた2017-12-25

 今日は対鳥取ループ裁判の第7回口頭弁論を傍聴してきた。9月25日の第6回公判に続いて、2度目の傍聴である。

 この裁判は、鳥取ループを名乗る被告が、「全国の部落の地名や関係者の個人情報をインターネットに公開している」という暴力と差別を問うもの。詳しくは、この裁判にも関わっている若手たちが作っているABDARC(アブダーク)のサイトを見てほしい。
 私でさえ、この公判に行くには、朝から精神的な武装が必要である。さもないと、激しく感情を乱され、傷つけられるから。なぜなら、被告の鳥取ループは、裁判もヘイトの材料として利用して、楽しんでいるからである。被差別部落の地名や個人情報がさらされるというアウティングの暴力が問題となっているのに、その裁判で提出される、プライバシーを含むあらゆる情報を、公判の公開原則を悪用して、ネットにさらすのである。今日の公判ではまさにこの点が問題となったが、つい先ごろ、大阪高裁での別の裁判で、訴えた原告の個人情報が記載された裁判資料を鳥取ループがネットで公開していた件に関し、削除と賠償金支払いを命じられたとのことである(参照)。
 初めて傍聴した9月の公判で、自らが己の弁護人となってヘイト言説を当事者の前で述べ立てる鳥取ループ本人を見たときは、私はコントロールを失いそうになった。原告は毎回、これに直面させられるのかと、いたたまれない思いになった。
 この苦痛は、李信恵さんが桜井誠ら在特会の人たちに民族的差別発言で傷つけられた件の裁判を、大阪地裁に傍聴しに行ったときにも、味わわされたものだった。
 裁きを得るためには、事実を明るみに出さねばならず、それは訴えた側が、差別された詳細な記憶・記録と真正面から向き合うことに他ならず、さらには自らを差別した当人がそこにいて、再び裁判の場で差別をしてくることに立ち向かわねばならないのである。この、「被差別の再現劇」が必然的に引き寄せてしまう暴力を最小限に抑えるために、肝心なのは、この再現性は差別をなくすためにあるのだということを共有している者たちが見守ることだと、その傍聴の際に体で学んだのだ。
 けれど、関東に住む私は大阪地裁の公判にはなかなか足を運ぶことができない。そのぶん、東京地裁で行われている部落差別の裁判にはもっと頻繁に行くことができる。それぞれは別の人たちが苦しんでいる別の事件だけれど、差別や憎悪を拡大させようとしている者たちへの裁判という点では同じ意味を持つ。どちらも、他人を貶めることで力を手に入れようとするやり方が標準になりつつある今の社会を作っている、暴行者たちである。私は私で今、相撲という場で進行している差別に直面させられている。あちこちで発生している暴力が、互いに相乗効果を得ながら急拡大している以上、自分にできる範囲で、それを許さない意思を示していくしかない。つまり、差別者たちに、差別やヘイトをしても力を得ることはできない、という体験をしてもらうのだ。
 この裁判が私にもたらす明るい可能性は、若い世代がABDARCを作って、よりオープンに、よりカジュアルに、より敷居を低く、差別問題を考える場を広げていこうとしていることである。これは例えば、今年に波が訪れた、よりカジュアルでよりオープンな姿をとったフェミニズムのあり方とも、私には重なる。
 差別について、漠然としかわからないので、基礎的なことを知ってみたいという人は、ABDARCのサイトのQ&Aなどを読むといいかもしれない。
 ABDARCはイベントも開催していて、その記録なども載っている。第1回イベント「私たちの部落問題」での講演「インターネットと部落差別の現実」はこちらで読めるし、私の感想はこちら