2012年10月15日 ― 2012-10-15
改めて、森口氏のiPS細胞臨床実験の虚偽と誤報の問題について考える。ツイッターで思わず書き連ねてしまったが、その言説の一部だけが流通するのは危険であり、まずかったと思い直している。
前提として、まず虚偽の発表や論文を作成し、メディアに売り込んできた森口氏に最初の罪と責任があることは間違いない。しかし、この虚偽を本当に虚偽たらしめたのは、大々的に報じた読売新聞である。森口氏の嘘は、あまりにも見破るにたやすい嘘であり、読売新聞が報じなければ、誰にも顧みられなかった可能性があるものだった。
最初の報道の時点では、私も、「へえ、そうなのか、すげえな」と感心していた。だが、ハーバード大学が森口氏の存在やアリバイを否定する声明を出した時点で、本当に仰天した。読売新聞は、そんな初歩的な裏までとらずに、こんな超特大のネタを記事にしたのか!という驚きである。
この誤報のことを、私は自分の周囲にいる大学教員(文系)に話した。その人は、その時点で、報道の内容も知らなかった。「何だか会場での展示方式の発表で……」「パネル発表?」「それそれ。でも論文は書いたそうで」「査読入ってる論文?」「いや、そうじゃないらしい」「ありえないでしょ! そんな決定的な事例を、審査のないパネル発表と査読のない論文で発表するはずないじゃん」。
研究職であれば常識であるようなことを、読売新聞は見抜けず調べもせずに、これだけの大きな話を記事にしたのだ。これだけの大スクープである。全社を挙げて行ったと考えてよいだろう。誰も歯止めをかけられる者はいなかった(いても、聞いてもらえなかった)ということだ。
読売新聞がごく常識的に取材をしていれば、森口氏の主張が世に広く知られることはなかった。森口氏は孤独に嘘をつくだけで終わったのである。
これをわざわざ大問題に仕立て上げたのは、誤報をした読売新聞である。私は、森口氏の発表が虚偽であることを証明できた時点で、読売は森口氏の続報については静かにすべきだったと思う。そして、なぜ誤報に至ったか、社や業界の体質にまで踏み込んで経緯と分析を行い、そのうえで、ほとぼりが冷めたころ、森口氏がなぜ虚偽の発表をしたのか、これもアカデミズム業界の慣例棟にまで踏み込んで、取材と分析をすべきだったと思う。
だが、そうはならなかった。
読売新聞は、誤報を認めて謝罪記事を載せ、今回の取材の経緯を明らかにした。しかしのその文章は、驚くほど他人ごとのようなトーンだった。一方、森口氏の主張を報じなかった全国紙も、森口氏は9月ごろほぼすべての全国紙にこのネタを自ら売り込んでいたこと、森口氏の説明に怪しい点があるので記事化を見送ったことなどを説明した。さらに、そもそも森口氏はここ何年かにわたり、自分の研究成果を各紙に売り込んでおり、各紙も実際にそれを取り上げて記事にしていたことを明らかにした。つまり、今回のネタを売り込んできた時点で、森口氏は、各新聞にとって知らない相手ではなかったのである。
ここからは私の個人的な感想だが、日本の新聞業界に特有の横並び体質が出たな、と感じた。どこか一紙が書いた時点で、他の新聞も「あそこが取り上げたのなら、うちでも書くか」という意識が働きやすくなる。二社が取り上げれば、三社目はもっと取り上げやすくなる。そうして全国紙のほぼすべてに乗ったりすると、森口氏は大新聞にも取り上げられるちゃんとした研究者、というイメージになる。そのイメージを、新聞社自身が、価値判断の材料に使ってしまう。うちを含めいつも各紙に出る研究者だから、ちゃんとしてるだろう、と。今回、読売が慎重さを欠いた背景には、このような、すでにできあがった森口氏への人物評価があったのではないか。
問題は、この横並び意識が、読売誤報後の各社の中でじわじわと発揮されたことである。各社も、過去に森口氏の言うがままに記事にしたことがあるというやましさがあり、読売を他人事だとは思えなかったという同情もあっただろう。
報道の調子が変化するのは、森口氏が虚偽を暴かれた後にニューヨークで記者会見をし、虚偽を認めなかったときからだ。すでに虚偽であることがわかっている以上、そんなことはほとんど報道するに値しないニュースだと私は思うが、報道各社はにわかに森口氏に厳しくなり、その言い分をしつこく報じた。ここから、森口氏の見世物化が始まるのである。
むろん、森口氏の応対にも問題はある。けれど、自分が騙されてその嘘を大々的に広めたのなら、共犯者となってしまったその恥を受けとめて、それ以上、嘘に荷担するべきではないだろう。ところが、読売だけでなく、新聞各社、そしてそれにつられたテレビ局が、とんでもない食わせ物だというトーンで森口氏を扱い始めたのである。
何度でも言う。誤報がなければ、森口氏の嘘は誰にも顧みられない孤独な嘘で終わった。なぜなら、森口氏は大学に定職もなく、研究機関の職員でもなく、政府関係の役職を持っているわけでもない、かろうじて名前だけ「研究員」をいただいている、ほとんど自称職に近い状態だからだ。つまり、何の権力も持っていないのだ。そのような人間のつく嘘は、まわりが相手にしなければ、嘘として成立さえしない。数年前の韓国での捏造事件のように、スター教授が圧倒的な影響力でつく嘘とは、悪質度が全然違う。その意味で、読売新聞こそが問題を作り出した張本人であり、その責任をとる必要があるのだ。
けれど、その責任を、森口バッシングという形で、一方的に転嫁しようとしているのが現在だ。最初はそんなつもりはなかったかもしれないが、森口氏が嘘を認めないために、騙しておいてなんだその態度はと逆ギレして怒ったら、世の中も一緒になって怒るので、これは都合のいいことになった、このまま追及しておこう、と推移しているように感じる。
森口氏は、バッシングなどされなくても、もう研究職の業界でどこからも相手にされず、社会人としての生命を絶たれた状態に置かれるだろう。それが嘘をついてきたことの責任だろう。研究業界で罰を受けるのは仕方がない。しかし、研究と無縁の者たちから、なぜバッシングされねばならないのか。誤報がなければ、この不祥事は業界の中で終わった。それが、外の者たちまでからバッシングされるのは、誤報の罪を新聞業界が免れるためのスケープゴートにされているからである。
卑劣きわまりない。だが、いったいこのような卑劣さに、私たちは何度出くわしていることか。
なぜこの社会は、責任をとるべき立場の人間がとらないのか。それは、この社会のどの業界でも、同じだからだ。みんながやっているから、自分たちもやるのだ。横並び意識は、新聞社特有ではない。新聞社も、日本社会の一員として、政界や官界、教育業界や経済界がやっているのと同じことをしているのだ。そしてこの社会を構成しているのは、私たちだ。だから、新聞社が無自覚にふるっている無責任の暴力に鈍感でいられ、むしろ荷担してバッシングをしてしまう。
私は読売新聞をバッシングしたくて書いているのではない。「自己責任論」のようなバッシング論として、責任の話をしているのでもない。その逆で、バッシングすることで自分の過ちから世の関心をそらせるようなやり方を批判している。新聞とは、そのような傾向に歯止めを掛けるメディアであると思うのに、自らがバッシングに荷担している。組織としての新聞が戦前のように、ポピュリズムの中で熱狂を煽り始めるのは、もう間もなくのことだと思う。あとは個人の記者の倫理だけが、報道を支えていくだろう。