2012年7月29日(日) ― 2012-07-29
「死にたがる社会」のバッシング
ご承知のように、日本は年間3万人を超える人が自ら命を絶つ自殺大国である。14年連続で3万人以上の人が、「もう生きてはいけない」「自分は死んだほうがいい」と思って命を絶つ。実際には、そう思ったところで実行に移す人は、何十人、何百人に1人だろう。3万人の背後には、およそ100万人の予備群がいる、と言われているが、生活保護を受けている人が200万人を超えている現在、予備軍の数はその数倍に上るだろうと、私は感じている。生活保護を受けるにいたった人の大半は、1度は自死を考えていると、数々の現場関係者が報告しているからだ。
何百万人もの人が、「生きていけない」「死んだほうましだ」と思いつめている。その人たちに、社会全体が「そうだ、おまえたちは死んだほうがいい」と言い、背中を押そうとしているのが、この1、2カ月の出来事である。人気お笑いタレントの母親が生活保護を受給していた件に端を発した、生活保護受給者バッシングのことだ。
受給者をいくらバッシングしても、この社会は少しもよくならない。そんなことは、バッシングしている者たちも承知しているだろう。では、なぜバッシングするのか。
「生きている価値がない」という個々人の諦念と自暴自棄が積もり積もったこの社会は、震災後、集団として、自らを消す方向へ舵を切ったように、私には感じられる。一人ひとりがはっきりと「死んだほうがましだ」とまでは考えていなくても、無意識のどこかに、「もう終わりにしたい」という衝動が巣くっているのだ。
死にたい気持ちは、飽和すると、自分を通り越して他人に向かうこともある。その典型例が秋葉原殺傷事件だ。自分を無価値だと見なし、自分を消去してしまいたい気持ちは、他人を無選別に消去したい気持ちに簡単に置き換わる。「死にたい気持ち」=「殺したい気持ち」なのだ。無関係の人を殺して何になる、と、秋葉原事件のようなことが起こると、怒りと批判の声が沸き上がる。私もそう思う。そしてその批判は、生活保護をバッシングしている人たちにも、当てはまる。無関係の受給者を死のふちに追いやって、何になるのだ、と。
私には、社会自体の自殺願望が、誰でもいいから消去してやりたいという気持ちとして表れたのが、今回のバッシングだと映る。つまり、「生きていても仕方がない」と感じている者同士が、互いを追いつめているのだ。「死にたい気持ち」=「殺したい気持ち」が急激に膨れあがり、さらにその陰に、=「殺されたい気持ち」が隠されていると思う。自死には踏み切れないが、この社会全体がめちゃくちゃになって滅亡する形で一緒に死ぬのなら、そのほうが楽だ、という欲望。その欲望が飽和してしまったのが、今の日本社会だ。その欲望が、片山さつき議員や橋下徹大阪市長のエキセントリックな言動を支える。
実のところ、死にたい衝動とは、一種の依存ではないか。リストカットで死に隣接することで、かろうじて生を実感し、なんとか生き続けるのと同じだ。その依存が外(他人)に向かうと、バッシングして人が死のふちに追いつめられるのを見てかろうじて自分は生を実感し、なんとか生き続ける、という行為になる。リストカットが行きすぎると、簡単に死の側に転ぶ。同様に、バッシングが行きすぎると、全員が死の側に転ぶ。そのときは、滅亡への熱狂が、ファシズムの嵐となって吹き荒れるだろう。私には、極言を弄する為政者でさえ、その種の依存に陥っている中毒者のように感じられる。
死に足をかけることで、かろうじて生きている社会。なんと殺伐とした社会であろう。私たちはもはや、バッシングなしでは生きられなくなりつつある、重度の依存症患者なのだ。戻る道はただ一つ。「死にたい気持ち」の源を直視することである。
(初出:北海道新聞2012年7月6日付け朝刊 各自核論)