2012年3月13日 ― 2012-03-13
無関心という隠蔽
震災以降、私はニュースのダイエットを行っている。毎日見ていたテレビのニュースは見なくなり、新聞と信頼する人のツイッターを少々のぞくぐらいになった。自分の精神衛生を保つためだ。ニュースに接すれば接するほど、現実の実態はわからなくなり、疑心暗鬼は膨れあがり、不安ではち切れそうになるからだ。
疑心暗鬼の源は、震災以後、特に原発関連で何度も目にしている「隠蔽」という言葉にあるだろう。電力会社や政府が情報を隠蔽している、という気分だ。この結果、ちまたには、権力のある者たちが自分たちを騙そうとしている、という被害者意識が蓄積しつつある。そのことが私には不安である。
だが、隠蔽はそれだけではない。別種の見えない隠蔽も進行している。それは無関心という隠蔽である。
六月二十二日のツイッターで、私は次のようなつぶやきを読み、大変暗い気持ちになった。北九州で長年ホームレス支援をされている、牧師の奥田知志さんの言葉である。
「被災者支援を東北現地でも、また地元北九州でも微力ながらやっている。だが、ある方からこんなことを言われ大変落ち込んでいる。『被災者支援にホームレス支援の人が出てくるのは被災者に対して失礼だ。ホームレス支援の肩書を下すべきだ』」
震災は、それまで「普通に」暮らしてきた人たちを、突然、生活が困難な立場に突き落とす。今回はその数と地域がとてつもなく多い。普通に生活していると思っている人をマジョリティと呼ぶとすれば、マジョリティの側からいきなりマイノリティに転落すると言える。転落は自分のせいではないから、自分をマイノリティだとは考えたくないし、一時的に苦境に陥っているだけでやがては普通の生活に復帰するのだから、特殊な目で見るな、という思いがあるだろう。
だが、震災前にホームレス状態に陥った人たちの大半も、まったく同じなのである。雇用環境のいちじるしい悪化や、今の社会の「空気を読めないものは切り捨てる」という体質などによって、自分が原因ではないにもかかわらず困窮し、路上に出てしまう。そのときには、とりあえず今をしのぐためだ、という意識でいる。だから、すぐに社会に復帰するつもりでいるし、自分をホームレスだとは思っていない。
誰も、「あの人はホームレスだ」という目で見られたくなどない。それは、性格的に自分の責任でそんな立場になってしまう特殊な人だ、という蔑みのニュアンスがあるからだ。だが、誰もそのような特殊な人間だから困窮したのではない。被災者と同様に。
奥田さんを始め、私の友人でもNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の人たちなど、被災者の支援活動に当たっている方々の中には、貧困やホームレス問題の活動を日常としている人がとても多い。かれらの持っている日ごろの支援のノウハウが、そのまま活かせるからだ。それは、避難生活とは、ホームレス状況にほかならないことを意味する。被災のようなきっかけで貧困やホームレスに陥っていく例を、支援活動にたずさわっている人たちはいやというほど見聞しているから、何とかそれを食い止めたい一心で、被災地に入っているのである。
だが、先ほど述べたような心理で、震災前からのホームレスと、被災者を切り分けようとする。そこに線引きをすることで得をするのは、貧困対策の予算を削りたいと思っている自治体や企業ばかりだ。
もやいの代表理事、稲葉剛さんは、「派遣村などの運動でようやく可視化されてきた貧困が、震災以降、決定的に再不可視化されている」というようなことを述べている。避難生活を送ってはいない私たちまでもが、線引きに乗ってその見方に荷担するのは、無関心によって現実を隠蔽する態度にほかならない。
(初出:北海道新聞2011年7月9日付け夕刊 各自核論)