2012年4月29日(日)2012-04-29

 起きている出来事に物語はない。ただ起きていることがあるだけだ。物語を付けるのは人間である。
 人間は、出来事に物語を付けずに受け取ることはできない。その物語は、個々人の内面とブレンドされて、幾通りも作られていく。人の数だけ、物語は存在する。
 表現をする者は、物語を排して、できるだけ、起きていることをナマで捉え、そのまま提示したいとあがく。それが不可能であることは承知のうえで、全身全霊であがく。
『あもーる あもれいら 第3部 サマークリスマスのかげで』は、起きていることをギリギリまでナマに近い形で捉えきった、奇跡のような作品である。舞台は、問題を抱えている親や家庭の子どもたちが預けられる保育園。困難な境遇であるほど、色づけされる物語は濃くなり、より悲劇の定型に近づいていく。だから、なおさら、ナマの形で提示するのは難しい。にもかかわらず、岡村淳さんは、ナマに限りなく近づいた。
 ビデオカメラの場合、加工・編集せずに提示すればナマに近づけるわけではない。むしろ、その作業がないと、ナマから遠ざかるばかりだ。いかにして、忍び寄る物語の影から逃れるか。プロとして、半世紀の人生を生きてきた者として、知恵と経験のすべてが投入される。
 この作品を見終わった直後の私の感想は、何も言葉にならなかった。ただただ、ナマの現実がそこで生起することに圧倒され、飲み込まれ、私は無力な存在だった。それについて考えたりコメントしたりする言葉など、出てこなかった。言葉で解釈など、したくなかった。でも脳内は嵐だった。泣くとか喚くとか笑うとかいった形でしか、その嵐は表せないと感じた。これは岡村さんの作品史上でも、私の見たドキュメンタリー映画の中でも、最高の作品だということは間違いなかった。2度目の上映を、それから一季節後に見て、ようやく言葉が動き出した。
 あもれいら保育園の1年を追った『あもーる あもれいら』シリーズ全3作は、曼荼羅である。ここには世界のすべてが描かれている。これが曼荼羅として完成できたのは、第3部によるところが大きい。なぜなら、1部と2部の世界を究極にまで相対化し、ほとんど虚無の淵すれすれにまで近づきながら、撮影している岡村さん自身がこの世界の住人として、相対化されることを拒んでいるからだ。
 冒頭から、私は打ちのめされ、興奮した。蟻たちがクローズアップで撮影される。岡村さんにとって蟻の撮影は、ドキュメンタリー作家としての原点の一つである。岡村さんのこの世に対するまなざしが、ここにすべて現れている。
 カメラはその蟻の背景として、こちらに駆け寄ってくる子ども二人を捉えている。その子どもたちが、蟻を撮している岡村さんに話しかける声が、間近に聞こえてくる。「何撮ってるの?」「蟻だよ」「蟻は刺すだろ?」「毒を刺すのもいれば噛むのいるね」「じゃあ、おじさんの映画には蟻しか出てこないんだ?」云々。この「蟻」を、「子ども」に置き換えても「人間」に置き換えても、意味は同じだ。
 次第にカメラは引き、子どもたちを撮す。そのうち一人は、第一部「イニシーエション」で活躍したカイオ君だ。お兄ちゃんに連れられて新しく入園してきたものの、毎日激しく泣いて帰りたがったカイオだ。
 同じ保育園の一年を追っているのだから、あたりまえだが、第3部でも、第1部第2部で登場した子たちが大勢現れる。その子たちの変化や身の上に降りかかる出来事が連続して描かれる。
 第3部は特に、やりきれない出来事がいくつも相次ぐ。その大きなものは、まず、この保育園育ちで今はもう15歳になったマリ=クレアの身の上だ。第2部(だったかな?)で、妊娠中の娘として登場するマリ=クレアは、無事に男の子ペドロを生み、さっそくアモレイラ保育園に預けに来る。ところが、ほどなくして、マリ=クレアは子どもを預けに来なくなる。心配した堂園シスターと岡村さんが、マリ=クレアを探して回る。
 ようやく探し出し、堂園シスターが事情を聞く。その内容を、岡村さんは詳しく描かない。にもかかわらず、堂園シスターの姿から、マリ=クレアの置かれている環境の想像を絶する過酷さが、十分すぎるほど伝わってくる。言葉にすればセンセーショナルかもしれない。だが、物語が欲望するそのような「派手さ」ではなく、マリ=クレアの孤独に閉じ籠もった心、そこに寄り添おうとする堂園シスター、マリ=クレアを追いつめている環境の質感、そういったものを大事に丁寧に岡村さんの映画は表そうとする。
 私はこの場面で号泣してしまった。この後で登場する、堂園シスターが再びマリ=クレアを訪ねるときの、マリ=クレアの喜びと信頼があふれ出てくる笑顔の場面でも、心揺さぶられてしまう。物語をつけているのは、見ている私のほうなのだ。
 次の大きな事件は、一番年少2歳児のマルキーニョ君の身の上に起こる出来事だ。岡村さんはこの事件も、多くを語らない。そっと、視界の端で、しかし心の中心で、事件を受けとめる。
 最後はケテリン。第1部を見た人は覚えているだろう、あの最後の場面で堂園シスターを怒らせ、放置され、ホールで一人意地を張りながら、凍りつくようなひと言を漏らす、女の子である。おそらく、あもれいらシリーズの中で、最も困難を抱えた問題児だろう。
 第3部でもケテリンのこまっしゃくれぶりは、初っぱなの「パンティ」のエピソードから炸裂しているが、映画後半ではふざけ回っているのがエスカレートし止まらなくなり、先生たちを怒らせ、放置される。そこで繰り出されるセリフ、仕草が、家庭の姿をそのまま伝えてきて、絶句する。飲み屋を営む若い母親は、家で売春もし、子どもに対しては半ばネグレクトだという。
 事件の翌日に堂園シスターがケテリンの家を訪ねる。そのときにケテリンの見せる表情は、疲れた中年女性のようだ。ケテリンは4歳だか5歳だかにして、すでに人生に疲れている。
 同じような表情を一瞬見せる子が、アリーニだ。園が終わっても、母親がなかなか迎えに来ず、雨の中一人待つアリーニの苛立った顔には、やはり人生に疲れた中年のような表情が浮かぶ。普段は目立ちたがりで天然のアリーニが、分別くさい顔で、撮影している岡村さんに、「おじさん、濡れるから入らないと」と語りかける場面では、見ている私が語りかけられ、自分がアリーニよりずっと幼い子どものような気がした。このアリーニは、第2部「勝つ子負ける子」で、負けて大泣きする子として、私の記憶に深く刻まれている。
 こうして連なる大きな出来事はどれもあまりに重いものばかりなのだが、それをつないでいく日常の子どもたちの姿は、爆発的にエネルギッシュで、ラテンの陽気に満ちていて、爆笑の連続である。見ているほうも、笑い続け、ときに号泣し、ときに重さに打ちのめされ、感情のポテンシャルをすべて前回にすることを求められる。それが心地よい。
 私の大好きな場面は、卒園していく年長の子どもたち一人ひとりに、「将来なりたいもの」を岡村さんが尋ねていくところである。同じような場面が、岡村さんの短篇「きみらのゆめに」でも登場する。そちらは、15歳の子たちに将来を尋ねていくのだが、あもれいらと双璧をなす、歓びに満ちたシーンだ。
 そこで子どもたちは、思い思いの言葉を口にする。ところが、一人が自分の希望を訂正し、他の子の言った希望を真似して、自分もそれになると言ったとたん、「俺も」「私も」といっせいに大勢がその希望に鞍替えし始めるのである。
 同じような現象が、飴をもらう場面でも見られる。火付け役はあのケテリン。もらった飴を、いちご味に替えてもらい、それを自慢して、他の子に「いちごに替えてもらえば」と言ったとたん、ほぼ全員が「いちごに替えて」と殺到する。
 抱腹絶倒の場面なのだが、ここでは二つのことがわかる。
 一つは子どもはいかに環境の影響を受けやすく、周囲を真似することでいろいろなことを学んで成長していくのか、ということである。その白紙さがまばゆいほどだ。
 もう一つは、誰かが周りに同調し始め、その量が臨界を越えると、同調の雪崩現象が起こる、その仕組みだ。この現象は、今私たちが生きている日本の社会で非常によく見られる。つまり、環境の影響を受けやすく、周りを真似してしまうのは、子どもだけではないということだ。子どもがやっていると可笑しいが、大人がするとおぞましい。
 子どもは影響を受け、真似ていることを、あけすけに見せてしまう。だから、子どもの背後に、大人の社会が濃厚に浮かび上がってくる。「あもれいら」シリーズは、子どもだけを描きながら、今の大人の社会を、直接描く以上に明確に表す。だから曼荼羅なのだ。
 この作品は、岡村さんの付ける字幕も素晴らしい。子どものたちのポルトガル語を、そのエッセンスを損なわない日本語に置き換え、私たちの喜怒哀楽を引き出してくれる。岡村さんの「言語力」にも魅せられるドキュメンタリーだ。

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