2011年6月5日(日) ― 2011-06-05
首相になりたい病患者の菅直人首相を、私は就任当初から支持などしていなかったが、今、他の人に首相が交代することはもっと支持しない。こんな消極的な態度でしか政治に向き合うことはできないことが、悲しいが。
菅内閣のよい点は、自分たちのコントロールを失った失敗が、かなりの程度まで一般の目にはっきり見えていることである。放射能をめぐる情報を出さなかった過程が、今の時点でもう明らかになっていることである。
どういう形にせよ、小沢一郎や自民党・公明党が関わって内閣が作られれば、こういう事情が明るみに出ることは激減するだろう。菅内閣が倒れれば、隠蔽が、隠蔽だとわからないような形で行われることになるだろう。その結果、被災地にいない人間は、政治的な秩序が回復したかのような印象を持つことができる。被災地については、復興のために切り捨てられる部分が、目に見えなくなるだろう。その結果、順調に復興しているかのような印象を、被災地にいない人々は抱くことできる。
つまり、旧に復するのである。自民党や公明党、そして民主党の一部が望んでいるのは、そのような権力のあり方だろう。震災で突きつけられた問題はなかったことにすることで、以前の日常を取り戻したかのように見せる。電力会社や中央官庁があらゆる手を使って求めているのも、そのような政府のあり方だろう。
原発がこれだけ増えて、安全対策もなおざりにされてきたのに、日本社会の住民の目にそれが見えてこなかったのは、権力のあり方が、そのように「自然」だったからだろう。隠蔽というのは、隠蔽していることがわかるような形で行われては、隠蔽にならない。そんなことは存在していないかのように自然に隠すことで、初めて機能する。
私たちはそんな社会を本当に望んでいるのだろうか? そんな旧への復し方を模索しようという動きには、はっきりと拒否の意志を示さなくてはならない。一連の「内閣不信任騒動」をまともに支持する人など、きわめて少数だろうが、夏には内閣が替わることになったようなので、その点を監視する必要がある。
今の内閣で問題なのは、復興の名の陰で着々と進められている、福祉の縮小である。復興の財源を確保するためと称して、この社会の概念を、「自助努力」へ再び変えようとしている。情報を受けとめることに疲れている私は一次資料で確認しているわけではないが、自分が信頼している人たちの発信する情報を見ていると、この社会の唯一のセイフティネットである生活保護を、支給の期限を設ける形で縮小しようとしているだとか、医療福祉を、その受け皿の具体的な設計もないままに、「在宅」支援ベースにしようとしている(つまり、はした金をやるから自分たちでどうにかしろ、医療機関に来たければ自分で金を出せ、という方針)だとかいったことを、あまり注目されないのをいいことに、広く意見の集約をはかることもなく決めてしまおうとしている。自民党時代の「自己責任」よりもひどい切り捨て社会が、出現しようとしている。原発の現状のようないい加減な安全対策が、人の目に触れない間にまかり通っていったように、個人ではどうにもできない原因で困難に陥った人たちを「復興」のための犠牲にするような無責任な社会が、人の目に触れない間に作られつつある。これは、菅内閣が「政治主導」をすっかり失って、官僚らの見えないコントロールに盲目的に従っていることの、最悪の例だろう。
政治が社会のためでなく自らの権力のための施策を行おうとするときは、何かを隠れ蓑にする。最悪のことを進めるために、大問題が他にあるかのように情報をばらまいて注意をそらす。
今見えていないところで何が行われているのかを、気にする必要がある。そのすべてを一有権者が自力でチェックし続けることなど不可能だが、それぞれの分野でそれをチェックし問題点を指摘している専門家や当事者は存在している。大きなメディアがそこに関心を向けないことは、一種の共犯だが、現代ではそれらの情報発信を個人が行うことができ、私たちはそれをなにがしかの権力の妨害なしに受け取ることができる。そのような形で意識には留めて、肝心なときには意思表示をしておく必要がある。
菅内閣のよい点は、自分たちのコントロールを失った失敗が、かなりの程度まで一般の目にはっきり見えていることである。放射能をめぐる情報を出さなかった過程が、今の時点でもう明らかになっていることである。
どういう形にせよ、小沢一郎や自民党・公明党が関わって内閣が作られれば、こういう事情が明るみに出ることは激減するだろう。菅内閣が倒れれば、隠蔽が、隠蔽だとわからないような形で行われることになるだろう。その結果、被災地にいない人間は、政治的な秩序が回復したかのような印象を持つことができる。被災地については、復興のために切り捨てられる部分が、目に見えなくなるだろう。その結果、順調に復興しているかのような印象を、被災地にいない人々は抱くことできる。
つまり、旧に復するのである。自民党や公明党、そして民主党の一部が望んでいるのは、そのような権力のあり方だろう。震災で突きつけられた問題はなかったことにすることで、以前の日常を取り戻したかのように見せる。電力会社や中央官庁があらゆる手を使って求めているのも、そのような政府のあり方だろう。
原発がこれだけ増えて、安全対策もなおざりにされてきたのに、日本社会の住民の目にそれが見えてこなかったのは、権力のあり方が、そのように「自然」だったからだろう。隠蔽というのは、隠蔽していることがわかるような形で行われては、隠蔽にならない。そんなことは存在していないかのように自然に隠すことで、初めて機能する。
私たちはそんな社会を本当に望んでいるのだろうか? そんな旧への復し方を模索しようという動きには、はっきりと拒否の意志を示さなくてはならない。一連の「内閣不信任騒動」をまともに支持する人など、きわめて少数だろうが、夏には内閣が替わることになったようなので、その点を監視する必要がある。
今の内閣で問題なのは、復興の名の陰で着々と進められている、福祉の縮小である。復興の財源を確保するためと称して、この社会の概念を、「自助努力」へ再び変えようとしている。情報を受けとめることに疲れている私は一次資料で確認しているわけではないが、自分が信頼している人たちの発信する情報を見ていると、この社会の唯一のセイフティネットである生活保護を、支給の期限を設ける形で縮小しようとしているだとか、医療福祉を、その受け皿の具体的な設計もないままに、「在宅」支援ベースにしようとしている(つまり、はした金をやるから自分たちでどうにかしろ、医療機関に来たければ自分で金を出せ、という方針)だとかいったことを、あまり注目されないのをいいことに、広く意見の集約をはかることもなく決めてしまおうとしている。自民党時代の「自己責任」よりもひどい切り捨て社会が、出現しようとしている。原発の現状のようないい加減な安全対策が、人の目に触れない間にまかり通っていったように、個人ではどうにもできない原因で困難に陥った人たちを「復興」のための犠牲にするような無責任な社会が、人の目に触れない間に作られつつある。これは、菅内閣が「政治主導」をすっかり失って、官僚らの見えないコントロールに盲目的に従っていることの、最悪の例だろう。
政治が社会のためでなく自らの権力のための施策を行おうとするときは、何かを隠れ蓑にする。最悪のことを進めるために、大問題が他にあるかのように情報をばらまいて注意をそらす。
今見えていないところで何が行われているのかを、気にする必要がある。そのすべてを一有権者が自力でチェックし続けることなど不可能だが、それぞれの分野でそれをチェックし問題点を指摘している専門家や当事者は存在している。大きなメディアがそこに関心を向けないことは、一種の共犯だが、現代ではそれらの情報発信を個人が行うことができ、私たちはそれをなにがしかの権力の妨害なしに受け取ることができる。そのような形で意識には留めて、肝心なときには意思表示をしておく必要がある。