『ロンリー・ハーツ・キラー』より引用2016-09-28

星野智幸コレクション第2巻「サークル」収録 長編小説『ロンリー・ハーツ・キラー』より、第2部モクレンの意見広告

私は殺しません
 あえて意見広告まで打って、こう宣言してみせるのは、せめて私の友人・知人たちには、私のことをこれまでと同じように信用していてほしいからです。
 私は誰も殺しません。
 保証はありません。この言葉だけが担保です。でも、それ以上の保証はあるでしょうか? 言葉を信じる、それ以外に、他人を信用する方法はあるでしょうか?
 無条件で信じろ、とは言いません。信じてもらうために、私が信用するに値する言葉を使う人間かどうか判断していただきたくて、ここに意見を書いている次第です。
 そもそも、殺さないことを宣言するだなんて、滑稽だ異常だと思う人もいるでしょうが、私はそうは思いません。殺さないなんてあたりまえじゃないか、それをわざわざ表明しなくちゃならないなんて嘆かわしい、などとは、まったく考えません。殺さないことがあたりまえではない世の中はいくらでもあり得るし、現にあったし、今もそうです。私が宣言するのは、どんな世の中になろうが私は殺さない、ということです。殺さないことはもはや常識でも何でもない以上、私が何を考えているのかははっきり言わないとわからないでしょうから、言うまでです。必要なら、どれほど当然と思われることでも、私は意思表明していいと思っています。
 逆に、正当防衛という考え方がまるで常識であるかのように普及していますが、私はその考えもあたりまえのこととは思いません。どこかの投書で読んだ、「死んでもよい」とは「殺されてもよい」であり、「殺されてもよい」とは「殺してもよい」であり、「殺してもよい」は「死んでもよい」である、という感覚のほうに、よりリアリティを感じます。暴論となることを恐れずに言えば、正当防衛を訴えて殺人を犯す人の心の中にも、このような感覚がなかったとは言えないのではないでしょうか?
 この続きは、ぜひ小説で読んでください。

 正当防衛の名の下に身の危険を感じたら相手を殺してもよいという空気が支配的になっていく社会で、モクレンという登場人物は、殺さないことを宣言する意見広告を打ちます。この「殺さないことがもはや常識でも何でもない社会」は、この作品を書いた2002年当時、極端な世界像でしたが、今、差別などの暴力で人の心を殺しても咎められず、病人や高齢者は死なせるべきだと言った殺人を促すような暴言がメディアでまかりとおり、実際に障害者や病人が無差別に殺される世となっている現在は、まさにこの小説の世界と地続きです。モクレンのこの宣言に、まさか書いた自分が励まされようとは、思いもしませんでした。
 このあたりのテーマについては、10月23日(日)に青山ブックセンターで行われる刊行記念のトークで詳しくお話ししようと思います。イベントの詳細はこちら。14時から。1000円。要申し込み。

短歌のトークイベントに行ってきた2016-09-17

 紀伊国屋書店で行われた、瀬戸夏子さんと伊舎堂仁さんの短歌のトークイベントに行ってきた。ユリイカの8月号で特集「新しい短歌、ここにあります」が組まれたことを受けてのイベント。
 短歌の世界はほとんど何も知らない。縁遠かっただけでなく、小説や批評の「業界」では、短歌は極めて保守的な表現媒体だと見なす言説が多く、特に私が若い時分の現代思想全盛期はその傾向が強く、私もその影響を受けて、近寄らないようにしてきたのだ。そもそも、私には文学的素質は少なく、詩が苦手なため、韻文全体に疎いということもあるが。
 けれど、この1、2年、短歌が私に近づいてきた。西崎憲さん(フラワーしげるさん)と知り合ったことがまず大きい。それから、路上文学賞をしていて、第3回で鳥居さんを知った。路上文学賞の大賞受賞作は散文詩のような短編小説だったけれど、鳥居さんの本領は短歌だ。また、字幕の師匠のお母様が短歌を詠んでらしていて、亡くなられた後にまとめた歌集を送ってくださった。さらに、私が大学で教えていたときに学生だった瀬戸夏子さんが短歌で活躍していて、新しい歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(書肆侃侃房)に帯を書くことになった。
 この瀬戸さんの短歌が、爆弾だった。どこが保守的な表現媒体なのだ! ここまで自我を吹き飛ばし、極北へ突っ込んでいく言語表現は、小説ではもう絶滅寸前である。ここに紹介はできないが、ぜひ歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』を読んでみてほしい。短歌の概念も印象も激変するから。
 そうして見渡してみれば、短歌の新しい書き手たちがうじゃうじゃしていることに気づく。確かに、なんだか名付けようのない妙な短歌の書き手たちが次々と現れているようだ。
 短歌をわかりたいとか自分で書いてみたいとは思わないのだけど、瀬戸さんの短歌を読んで、この言葉には触れていたい、と思った。それで、イベントに行ってみた次第。
 伊舎堂さんの短歌も初めて読んだが、通念としての文学から遠くあろうという意識を強く感じるものだった。硬く言えば、世の言葉の言説批判ということになるか。批判と言っても糾弾するのではなくて、自然で自明のように思われている巷の言い方や表現を、自然とは感じられなくさせてしまうというもの。お二人の対談はその意味で、スリリングだった。
 短歌の「私(わたくし)性」についての話は、ああ、私小説のことと共通するなあ、と思いながら聞いた。短歌はアマチュアの裾野も広いので、「わたくし性」を詠うものが本流をなすという事情もあるのに対し、小説ではそのようなことがほとんどないため、さすがに私小説作家はもはや少数だが、私の感覚からすれば、形を変えた私小説はまだまだ主流をなしている。ここが最も厄介な支配的言語の領域であり、マジョリティである人の意識をマイナーな自己意識に変えてしまうという、正当化の装置なのだ。これは日本社会の精神風土と化しているのだろうなと思う。
 現実には、同じ「短歌」のくくりに収まりきらないぐらい、多様になっているようだ。例えば鳥居さんの短歌と瀬戸さんの短歌では、両極にも、違う言語にも思える。今日のトークでは、小説には純文学だとかミステリーだとかラノベだとかジャンルがあるが、短歌も本当はそうできるぐらいなのに、読者の規模が小さいから「短歌」だけでくくられる、という話が出た。
 そんなわけで、短歌への警戒感はほとんど消えた。むろん、天皇の言語というルーツを持つ以上、無防備にはなりようがないのは、変わらない。でも、私には背負うところは何もないので、気楽に読むことを楽しみたい。


2016年6月29日(水)2016-06-29

 聾者の音楽を描いた『LISTEN リッスン』をようやく見た。別世界の体験だった。そこは、音声言語とは違う日本手話という言語を使う聾文化という異文化の中でも、最もコアにして前衛である表現の世界だったから。
 聾者にとって音楽がどんな概念なのか、聾者の作り手たちはこの映画を撮りながら模索した。それはあることはわかっているのに、まだ確実に捉えられてはいない表現なのだ。それは手話詩から始まった。手話の動きと、そこから派生していくような体の動き、さらには踊りとなっていく動き。動きの中には、手話の言語の一部である「顔の表情」も含まれる。さまざまな微細な動きが手話を構成するトーンなのだが、それらが言語という形から飛翔して、音楽という表現になろうとする。
 この映画は、耳栓を渡され、無音のまま見る。しばしば耳栓を使う難聴の私には、少しは慣れていることだけど、やはり視覚だけで世界を眺めるのは異質な体験である。手を特徴的な動きとしながら、全身で言語にならない感覚を表していくのを見ているうち、私は小刻みに眠りに落ちた。手が、まるで催眠術師のもののようなのだ。冗談でなく。
 映画を見て眠ることはしばしばあるけれど、この映画での睡眠は、まったく新しい経験だった。同じ映画館の中に、いるはずのない人がいて、その人が動いているのを幻視したり(もちろん夢だけど)、知らないストーリーと結びついて言葉が聞こえてきたりと、幻覚幻聴がたくさん訪れたのだ。普段使っている聴覚をシャットアウトしたら、体が何かを補おうとしたのかもしれない。そして、それはスクリーンに映っている聾者の動きと連動しているのだ。こんなにまで無意識を解放された映画はなかったかもしれない。
 見ながら連想していたことの一つは、ピナ・バウシュだった。何か受ける感じに共通しているところがある。と思ったら、パンフレットの中で牧原監督がこんなことを言っていた。
「ピナ・バウシュ舞踏団の作品の中に手話を表現するところがあります。私は最初、それが手話を表現しているとは知らなかったんですが、観ていて「あれ? これ手話が入っているなぁ? どうして?」とびっくりしたんです。顔の表情や身体の動き、空間の間の使い方などから「これは手話っぽいぞ」と。その後調べたら、やはりそれは手話だということが分かったんです。でも、聴者にはそれが分からない人が多いらしいんです。分かる人には分かるらしいんですが。聾者にははっきりと分かる。ピナさんはやはりすごすぎますね。普通の人には無理。手話を聴者的表現として使用してしまう。」
 ピナさんはすごすぎるのである。
 15人の出演者の大半は、聴者の学校に通ったことのない、ずっと聾学校で育ったのが12人。そのうち半数が、親も聾者のデフファミリーだという。たまたまだったのだが、要は、「聾者のアイデンティティがしっかりとある人の方がより自分としての”音楽”を表現できる人が多かったと。『聾者の音楽』というテーマなので、やっぱり手話を獲得していて『自分は聾であるんだ』というものがないと、表現が聴者のものになってしまう。」(牧原監督)ということなのだ。これは見ていてもなんとなく感じた。
 もう一つ連想したのが、ソケリッサ。ホームレスの独自のダンスだが、リーダーの青木さんが舞踏の人なので、『LISTEN』でも重要な表現をする舞踏家の雫境(だけい)さんと重なったかもしれない。ソケリッサも、自分の体のリズムの表現なので、音という枠に縛られない音楽に私には見える。踊りと音楽の中間にあるというか。踊りには完全になりきれないからこそ音楽になっているというか。
 この映画を観る人は斉藤道雄・著『手話を生きる』という本も読むと、この聾者の音楽表現の意味がよくわかるようになるだろう。私もこの本を読んで以来、聾者の文化にものすごい吸引力で引かれつつあるのだ。私は難聴になってから、聴者の世界のフチを知り、そこから足を踏み外しかけているのだが、聾者でもないので、聾文化を理解できることはない。特に、ネイティブの聾者の文化は、最近になってようやく可視化され、自身たちも意識することでアイデンティティとすることが可能になってきた中で、その豊かさ奥深さに目がくらみそうになる。本当にはわからなくても理解したいという熱望が、私を襲う。
 今思うのは、これを生で見たいということだ。
 映画『LISTEN リッスン』公式サイト

2016年4月16日(土)2016-04-16

 興奮冷めやらぬうちに。久々に長ーいブログです。
 今日は作家の木村友祐さんと温又柔さんのトークを、下北沢のB&Bに聞きに行った。冒頭に温さんが「ニホン語で祈ります、まんなかversion」という自作の詩を朗読した。聞いていて、涙が出そうになった。この数日、熊本の地震のさなかにデマという暴力を振るう連中がわいていて、怒りながら気持ちが鬱々としてしまい、落ち込まないようにできるだけ無感覚を装っていた。その抹殺されかかっていた感覚が、温さんの力強く、気持ちのこもった言葉と朗読によって、一気に解放され、感情が決壊しそうになった。しかも、その暴発しかねない感情を、温さんの詩の言葉は、悪霊に変えるのでなく、解放しながらなだめてしまった。詩ってすごいと思った。
 そのあと、本題である木村さんの新刊小説『イサの氾濫』をめぐって話が進む。特に、標準化された日本語以外の言葉を書くことについて。感銘を受けたところを書こうとすると、トーク全部を再現しなければならなくなる。誰もが持つ「命の訛」「生き方の訛」を肯定しよう、とか。
 その中で、木村さんが以前、地の文までも八戸弁で書きたくなる、と書いていたことについて質問。答えを聞いてハッとした。方言は話し言葉、生活の言葉なので、地の文自体を訛りで書くことは難しかった、と。
 急に思い出したのが、津島佑子さんが口承文芸にこだわっていたこと。津島さんは、「地の文」という存在をいやらしいと感じていたんじゃないか。生活の言葉、生活の感情や気分、そこから立ち上がる地の文にならない物語、そういったものを言葉につなぎとめておきたかったんじゃないか。木村さんも、地元で八戸弁で話していると、感情なんかに広がりを感じる、と言っていた。これは大切な言葉の現場の一つ。そう考えれば、方言ではないかもしれないけれど、地の文は一見地の文でも、そのような生活の言葉化された地の文で、もはや標準化された言語ではないのかもしれない。津島さんの作品はむろん、木村さんの作品も。
 そして、木村さんは「イサの氾濫」と、今発売中の文藝春秋に掲載されている詩を、朗読。これがまた素晴らしかった! いつもの木村さんとは思えない、小説に乗り移られているとしか言いようのない朗読! なんか、小説内の存在が、そこに、目の前に、暑苦しく生々しく、実在しているのだ!
 これが、生きた言葉であり、文学の表現なんだと思い知った。文学の現場に身を置いているだけに、失望落胆することが多いが、今日はその最良の力を受けて、揺り動かされて、子どものように文学に影響を受けた。
 木村さんと温さんは、2009年に同じ時のすばる文学賞でデビューした。その時から見ていて、二人はそれぞれ、自分にできる言語活動を、地道に、自分に忠実に続けてきていた。そうしていつの間にか、「文学業界」などではなく、自分たちのそれぞれの現場を持ち、そこに身を置き続け、その文学に本当に感銘を受け心から信じてくれる人たちに応援され、同じ時期に、本を出した。温さんは『日本語生まれ、日本語育ち』(白水社)というエッセイ集を。木村君はこの『イサの氾濫』(未来社)を。
 どちらも、その現場の人たちの関係が結晶した本である。手に取っているだけで愛おしくなるような、悦びに満ちている。今回の『イサの氾濫』は、誰もが書籍化を望み(私も文芸誌の発表時に読んでずっと待っていた)、それを受けて批評家が版元を紹介し、なんとますむらひろしさんが装画を買って出て(というより、この作品の単行本化をけしかけ続けていたらしい)、木村さんを大好きなみんなに大喜びされてできあがった。
 二人とも、「作家である自分」のためになど書いていない。なんのために小説を書くのか、書かずにいられないのか。自我のためではない。怒りや悔しさや違和感、疎外感がその原動力だけど、言葉でその悪感情を晴らすためでもない。ただ、そこに普通に存在しているものを普通に存在していると表したいがためなのだ。読めばわかる。だから、生きた言葉が記されるのだ。
「文学の業界」に生きていると、外が見えなくなる。外が見えなくなっていることが、見えなくなる。木村さんや温さんは、そういう位置から遠いところで書いている。いつも現場に身を置いて、他人の言葉に身をさらしている。日本語の文学ではとても貴重なあり方なのだ。きつい時は多々あり、書けなくなりそうな時もあったと思う。でも、めげずに、自分の現場を譲らずに、ごまかさずに、書き続けて、こんなにまで美しい本を出して、日本語文学の現場と最前線はここにあると思う。敬意を覚える。これは大切なモデルケースなので、若い書き手にこの二人のあり方を見てほしい。
 さらに今日は、心を持って行かれた小説の翻訳家と、思いがけずお知り合いになれた。そして、その翻訳大賞の受賞者の方が、じつは温さんや木村さんと同じ魂でもって文学をしていることを知り、本当に嬉しくなった。だから私はあんなに感銘を受けたのか、と合点した。
 自分が人生をかけている文学表現の場で、こんな存在たちと共感しあえて、今日は幸福だった。

2016年3月7日(月)2016-03-07

Promise
  in memory of Tsushima Yūko

Ten years ago, the journal Bungei put together a special issue on my work, and Tsushima-san contributed a wonderful essay to it. She mentioned the shock she’d felt at Nakagami Kenji’s untimely passing, and later, when I told her how moved I’d been by the memorial essay she’d written for him back then, she said, “Well, Hoshino-san, when I die you can write one for me.” Touched, I gladly promised I would.
It was a promise I thought I wouldn’t have to fulfill for at least another few decades. But now here I am, sustaining the same shock Tsushima-san did back when Nakagami died. I’ve lost my bearings, no longer sure of where I am, or when.
Tsushima-san frequently wrote stories about characters who’d lost irreplaceable people in their lives, showing how they try to accept death, to overcome it and move on; Tsushima-san herself, though, always seemed as far from death as a person can be. In fact, life force overflowed from her to an almost excessive degree, pushing back death at every turn.
I was one of those fascinated by this life force of hers, pulled into her orbit by her magnetism. We first met during the 2002 Japan-India Writers' Caravan, a project conceived by and for writers who wanted to travel to India. Tsushima-san took charge of the project with her usual verve, co-running it with the Indian writer Mridula Garg, the idea being that it was strange that Japanese and Indian authors only knew of each others’ work via mediation by the West. To redress this, the Caravan was a traveling roadshow facilitating direct meetings between non-Western authors.
Preparing this project, Tsushima-san took it upon herself to read the work the Indian writers had published in English. So the trip involved, for her, not just the physical movement to India, but also the movement of her heart into an Indian linguistic space via the written word. I tried to imitate her effort the best I could, but my English was so poor that in the end I had to give it up. But it wasn’t necessarily that Tsushima-san’s English was so good—rather, it was simply that she felt she needed to do it, so she didn’t let anything stop her. Imagining it now, it strikes me as so like her to work so deftly, even lightheartedly, to overcome any and all boundaries she may encounter.
The Caravan ended up making two trips to India, as well as hosting Indian writers in Japan and a making a trip to Taiwan. Everyone working at Subaru during those years as the journal backed each of the project’s endeavors must share the sense of loss I’m feeling now.
As the excitement around the Caravan died down, Tsushima-san decided to use the money left after the Women Writers' Association dissolved to fund the publication of books by Indian women authors in translation. The task of readying the translations for publication, our literary sensibilities rubbing up against each other all the while, was an intense experience for the four of us who made up the little production committee: Tsushima-san, myself, author Matsuura Rieko and office manager Fujii Hisako.
Tsushima-san’s desire to always move outward, to encounter those who were total strangers to her, was not merely an intellectual endeavor—it seems to me to have been something more immediate that that, something rawer. And I think this is a quality we had in common. I aspired to be like her, envious of the way she balanced the enormous scale of her border-crossings with a personal touch, the way she treated everyone she met as just another person, no different from anyone with whom to share fellow-feeling. In this way, Tsushima-san was always there before me, guiding me.
The one time she ended up behind me was in 2006, when a group of us were on Taiwan’s Lanyu Island visiting the Tao writer Shaman Rapongan. To travel around the island, our six-person group decided to rent motorbikes to ride, two per bike. The other members of the group paired off and got going right away, leaving Tsushima-san, who’d been less quick on the uptake, having to ride behind me. I was hardly an expert biker, and as we sped along I remember her calling out, “You don’t have to go so fast, it doesn’t matter if the others leave us behind! Take your time!” or joking through her unease, “We better not die together on this bike, just imagine the crazy stories the newspapers would write!” For my part, I found myself fantasizing I was one of the cool young bikers in Hou Hsiao-Hsien’s Goodbye South, Goodbye. Besides our literary visit, we also visited the nuclear waste storage facility on the island, and after the Fukushima nuclear disaster I remember us talking, the two of us, about how Tōhoku had become Japan’s Lanyu.
It is precisely because of the times we live in that I feel Japanese literature needs the power of Tsushima-san’s writing still. Tsushima-san was a writer who threw body and soul into using fiction to create some kind of change, no matter how small, in society. To lose someone like her, the de facto leader of this already endangered species of Japanese author, makes me feel so alone, as if stripped bare and buffeted by fierce cold winds. The sorrow and loneliness seem sharp enough to cut flesh. Yet at the same time I can hear her voice telling me, “Such loneliness is the very stuff of literature, is it not?”
So I’m not going to recount every interaction I ever had with Tsushima-san. And I’m not going to thank her for all she did for me. For her role in my life has not come to an end, and she will continue to give me strength, now and for always.

SUBARU magazine, April 2016
(translated by Brian Bergstrom, Montréal, 6 March 2016)