2016年4月16日(土) ― 2016-04-16
興奮冷めやらぬうちに。久々に長ーいブログです。
今日は作家の木村友祐さんと温又柔さんのトークを、下北沢のB&Bに聞きに行った。冒頭に温さんが「ニホン語で祈ります、まんなかversion」という自作の詩を朗読した。聞いていて、涙が出そうになった。この数日、熊本の地震のさなかにデマという暴力を振るう連中がわいていて、怒りながら気持ちが鬱々としてしまい、落ち込まないようにできるだけ無感覚を装っていた。その抹殺されかかっていた感覚が、温さんの力強く、気持ちのこもった言葉と朗読によって、一気に解放され、感情が決壊しそうになった。しかも、その暴発しかねない感情を、温さんの詩の言葉は、悪霊に変えるのでなく、解放しながらなだめてしまった。詩ってすごいと思った。
そのあと、本題である木村さんの新刊小説『イサの氾濫』をめぐって話が進む。特に、標準化された日本語以外の言葉を書くことについて。感銘を受けたところを書こうとすると、トーク全部を再現しなければならなくなる。誰もが持つ「命の訛」「生き方の訛」を肯定しよう、とか。
その中で、木村さんが以前、地の文までも八戸弁で書きたくなる、と書いていたことについて質問。答えを聞いてハッとした。方言は話し言葉、生活の言葉なので、地の文自体を訛りで書くことは難しかった、と。
急に思い出したのが、津島佑子さんが口承文芸にこだわっていたこと。津島さんは、「地の文」という存在をいやらしいと感じていたんじゃないか。生活の言葉、生活の感情や気分、そこから立ち上がる地の文にならない物語、そういったものを言葉につなぎとめておきたかったんじゃないか。木村さんも、地元で八戸弁で話していると、感情なんかに広がりを感じる、と言っていた。これは大切な言葉の現場の一つ。そう考えれば、方言ではないかもしれないけれど、地の文は一見地の文でも、そのような生活の言葉化された地の文で、もはや標準化された言語ではないのかもしれない。津島さんの作品はむろん、木村さんの作品も。
そして、木村さんは「イサの氾濫」と、今発売中の文藝春秋に掲載されている詩を、朗読。これがまた素晴らしかった! いつもの木村さんとは思えない、小説に乗り移られているとしか言いようのない朗読! なんか、小説内の存在が、そこに、目の前に、暑苦しく生々しく、実在しているのだ!
これが、生きた言葉であり、文学の表現なんだと思い知った。文学の現場に身を置いているだけに、失望落胆することが多いが、今日はその最良の力を受けて、揺り動かされて、子どものように文学に影響を受けた。
木村さんと温さんは、2009年に同じ時のすばる文学賞でデビューした。その時から見ていて、二人はそれぞれ、自分にできる言語活動を、地道に、自分に忠実に続けてきていた。そうしていつの間にか、「文学業界」などではなく、自分たちのそれぞれの現場を持ち、そこに身を置き続け、その文学に本当に感銘を受け心から信じてくれる人たちに応援され、同じ時期に、本を出した。温さんは『日本語生まれ、日本語育ち』(白水社)というエッセイ集を。木村君はこの『イサの氾濫』(未来社)を。
どちらも、その現場の人たちの関係が結晶した本である。手に取っているだけで愛おしくなるような、悦びに満ちている。今回の『イサの氾濫』は、誰もが書籍化を望み(私も文芸誌の発表時に読んでずっと待っていた)、それを受けて批評家が版元を紹介し、なんとますむらひろしさんが装画を買って出て(というより、この作品の単行本化をけしかけ続けていたらしい)、木村さんを大好きなみんなに大喜びされてできあがった。
二人とも、「作家である自分」のためになど書いていない。なんのために小説を書くのか、書かずにいられないのか。自我のためではない。怒りや悔しさや違和感、疎外感がその原動力だけど、言葉でその悪感情を晴らすためでもない。ただ、そこに普通に存在しているものを普通に存在していると表したいがためなのだ。読めばわかる。だから、生きた言葉が記されるのだ。
「文学の業界」に生きていると、外が見えなくなる。外が見えなくなっていることが、見えなくなる。木村さんや温さんは、そういう位置から遠いところで書いている。いつも現場に身を置いて、他人の言葉に身をさらしている。日本語の文学ではとても貴重なあり方なのだ。きつい時は多々あり、書けなくなりそうな時もあったと思う。でも、めげずに、自分の現場を譲らずに、ごまかさずに、書き続けて、こんなにまで美しい本を出して、日本語文学の現場と最前線はここにあると思う。敬意を覚える。これは大切なモデルケースなので、若い書き手にこの二人のあり方を見てほしい。
さらに今日は、心を持って行かれた小説の翻訳家と、思いがけずお知り合いになれた。そして、その翻訳大賞の受賞者の方が、じつは温さんや木村さんと同じ魂でもって文学をしていることを知り、本当に嬉しくなった。だから私はあんなに感銘を受けたのか、と合点した。
自分が人生をかけている文学表現の場で、こんな存在たちと共感しあえて、今日は幸福だった。