2012年5月26日(土) ― 2012-05-26
売れっ子お笑いタレントの親が生活保護をもらっていたことが詳らかにされ、大バッシングが起こり、厚生労働大臣が生活保護の給付水準を引き下げることを検討し始める、というニュースを、ソウルに住みながらネットで知って、また殺人未遂が起きているのか、と暗澹たる気持ちになった。
この件で異様さを感じるのは、生活保護の実態への関心など本当はなく、ただ世間の何でもいいから叩いてやりたい、バッシングしたいという気分に、人気の芸能人がらみという点がうってつけだったために騒ぎが大きくなっただけなのにもかかわらず、政治が動いている点だ。政治を動かす要素は、もはや現場の実情や構造、その分析ではなく、世の中の漠然とした気分へと、すっかり取って代わっている。
バッシングを受けて政治が生活保護水準を下げたりしたら、どのようなことが起こるか。ただでさえ、社会から経済的社会的にこぼれ落ちて、生存の瀬戸際にいる大量の人たちを、死の側へ押しやることになる。背中を押したら死ぬとわかっている人に対し、複数人で背中を押したら、これは殺人になるのではないだろうか。今の社会が行っていることは、そのような行為である。有権者も政治家も、報道も含め。
今の世の、叩きのめしたい、バッシングしたい、非難をぶつけてやりたいという欲望は、特に震災原発事故後、とてつもなく巨大化していて、強大な暴力となっている。一人一人の内面の苛立ちは無力なものだから、それが集団ではどれほど威力のある暴力なのか、個々人が意識するのは難しい。だから、エスカレートする一方だ。今回の生活保護の問題は、一部の政治家が、その巨大な暴力を利用して、またメディアも無意識にそれに荷担して、生存の瀬戸際にいる者たちの背を押させようとした、という事件だと、私は思っている。イギリス人が、植民地支配しているインドで、イスラム教徒をたきつけてヒンドゥー教徒を攻撃させることで、自分たちの思いどおりの施策を実行した、分断統治のやり方だ。背中を押しているほうも押されているほうも、じつは同じような立場に置かれている一般人だ。
生活保護の現場に関しては、一方で、何年にもわたり、その瀬戸際に立って食い止めようと活動してきた人たちがいる。社会の巨大な暴力を必死で和らげようとしてきた人たちが、少なからずいる。だから、暴力のほうもそれなりの大きさにならないと、威力を発揮できない。今回は「芸能人」という話題性が、その威力を巨大にした。
だが、今の日本社会では、その暴力がほんのそよ風が吹く程度、発揮されるだけで、生存の瀬戸際に立たされる人たちも大勢いる。そよ風程度の暴力だから、暴力を振るっている当人たちも気づかないほどだ。
たとえば、入管の現場である。日本社会が労働力を必要とした時期に南米から日本に出稼ぎに来て、その際、親に連れられて幼児の歳で来日、日本で育ち、日本を母国と感じ、しっかり勉強して難関の大学に合格した者が、勤め先の経済状況により親が解雇されてビザが切れたために不法滞在となったことに対し、いきなり数週間後には南米に帰れ、と命ずる、というようなことが、普通に起きている。しかも、問題は、法や基準を厳格に適用してそのような措置が執られているのではなく、曖昧な基準をわざと放置しておいて、現場の気分によって、相手によって、措置が変わることだ。日本に住み続けられるかどうかが、それを認定する人の気分や感情で決まるなんて、ロシアやいくつかのアフリカ諸国のような、腐敗した官僚社会のようではないか。
それが可能なのは、入管の問題に関しては、誰もが無関心だからだ。まずメディアが無関心なので情報が少ない。報じたところで、関心は持たれない。それを監督するはずの行政も、現民主党政権は無関心なので、放置している。人の目がないことをいいことに、入管の職員は現場で君臨しているわけである。唯一の例外は、カルデロンさんのケースだったが、結局バッシングを招いただけだった。
関心を持つとなればバッシング、持たなければ当事者が死の危機にあろうが無視。過干渉かネグレクト、みたいな状態である。
その底にあるのは、象徴的に言えば、「人を殺したい欲望」だと、私は思ってる。
それが端的に表れているのが、日本の「死刑制度」への支持率だ。昔から高かったが、最近はさらに上昇し続けている。私は、このバッシング社会が死刑制度支持を高めているのを見ると、みんな人を殺したいんだなあと感じる。つまり、死刑制度は、法に守られたバッシングと化している。
ただし、この場合の「人」は、じつは他人だけではない。そこには自分も含まれる。どうにもならない理不尽にさらされ続け、ひたすら無力感に打ちのめされてきた結果、私たちの社会のものすごく多くの人が、無意識のうちに、この社会をぶちこわしたい、めちゃくちゃにしたい、そうでないと劇的になんか変わらない、という気分に支配されている。あるいは、自分が終われば、少なくとも自分の意識の中ではこの理不尽は消える。選択肢はどちらかしかない。社会がめちゃくちゃになるか、自分が消えるか。どちらも同じこと。
だから、そんなバッシングをしたら、当の自分が苦しくなる、というようなケースでも、平然とバッシングに熱狂する。後で自分が終わろうが、どうでもいいのだ。今の自分がスカッとすれば。少なくとも誰かが苦しめば、自分は少し楽になる。集団化した巨大なバッシングは、あたかも古い社会を壊すかのような幻想を与えてくれる。
私たちがバッシングし、叩こうとし、殺そうとしているのは、「俺」なのだ。自分なのだ。私たちは、おぞましい悪夢を生きている。