2012年5月4日(金) ― 2012-05-04
ソウルに来ていてしばらくここで暮らすのだが、着いてから今日までは真夏だった。30度近くあって、日差しも強くて、春先に咲く花と初夏に咲く花が一緒に咲いている。そのためか、花粉症が一気に悪化した。黄砂のせいもあるかもしれない。でもマスクをしている人はいないので、日本でのように私もマスクはせず、すると鼻をかみ続けながらも開放的な気分になるから不思議だ。マスクは気持ちを閉鎖的にする。マスクと過剰な日除け対策(女性の場合)は日本人の特徴で、世界のどこに行っても、その格好で日本人だとわかる。
ソウルで私が韓国人と間違えられようがないのは、髪型だ。今、ソウルでは特に若者男子を中心に、髪の毛を後ろから前に流すスタイルがはやっていて、ヘルメットをかぶっているような姿をしている。私のように短髪を乱れ気味に立てている人は見たことがない。若者たちはさらに、大きな黒縁の眼鏡をかけていて、集団でいると見分けがつかないほどだ。ヒゲは生やさず、ズボンも腰でははかない。
Wi-Fiの普及はすごい。地下鉄の中でも車両内にWi-Fiのアンテナが設置されているから、皆、スマートフォンをいじっている。日本と比べると、本を読んでいる人はものすごく少ない。文庫本みたいなサイズの本がないのかもしれない。カフェで注文すると、円盤のような電子レシーバーを渡され、席で待つ。できあがったらそのレシーバーがバイブするので、取りに行く。
仁寺洞の入り口と地下鉄弘大入口駅の出口では、ビッグイシューを売っているおじさんがいた。読めないのだけれど私は一冊買った。3000ウォンで、1600ウォンがおじさんの収入になる。
昨日は古刹を尋ね、境内で見慣れないかわいらしい花が咲いていたので写真を撮った。花は見慣れないものの、葉の形に見覚えがある。しばらく見つめていて、はっと思い出した。トリカブトだ。青だけでなく紫、白。おそらく園芸用に品種改良されたものだろう。日本で売っている品種とはまた花の形が違った。
そんなわけで韓国語を勉強中。意味はわからなくても文字が読めるようになってきたのが嬉しくて、片っ端から声に出して読んでみている。一文字読むのに一秒ぐらいかかるが。
2012年5月5日(土) ― 2012-05-05
先日、芸能メディア向けに記者発表されたとおり、『俺俺』が映画化されます。三木聡監督、亀梨和也
主演、公開は来年の予定。記者発表に当たって、私が出したコメントは以下の通り。
「『俺俺』は「俺」が増殖する物語である。今も増殖中なので、とても私の小説だけでは収まりきらない。そのあふれた「俺」らが、今度は映画で描かれるという。どんな滑稽な悪夢が展開されるのか。あなたも私もすでに『俺俺』世界の住人なのだ、もう逃れられない。」
『俺俺』刊行時に、ツイッター上でそれぞれの読者のそれぞれの俺俺を増殖させて書いてもらうという企画を試みましたが、それが今度はプロの手によって映画上でなされるわけです。
2012年5月5日(土) ― 2012-05-05
韓国は火と鉄の国だと、今日も思う。
おなじみ、農楽のパフォーマンスを、高校生ぐらいの若者が広場で披露しているのを見ながら、ケンガリ、チンの音に聞き惚れる。チョッカーラ、スッカーラ、鉄器、鉄の文化の音。特にチンの音には魔力がある。
韓国では仏様の誕生日のお祝いが、今月、盛大に行われるのだそうだ。このため、街じゅうに色とりどりのぼんぼりがぶら下がっている。先日、古刹を訪ねたときも、そのぼんぼりの美しさに圧倒された。ぼんぼりには、子どもの仏陀が右手の人差し指を天に向けているキャラクターっぽい姿が描かれている。再来週の夜にはこのぼんぼりが灯され、ソウルの大通りを、ねぶた祭りみたいにお釈迦様や象やその他の巨大な張り子の灯籠が盛大な行列を繰り広げ、農楽の者たちが踊り歩き、僧侶や子どもたちが提灯を掲げて行進をするという。楽しみである。
ともかく提灯が多い。キャンドルデモもそうだが、韓国の人たちは火をスピリチュアルに使うことに長けている。火で魂を表す術に通じている。
その中心となる曹溪寺(チョゲサ)に、今日の昼ごろ行ってみたところ、法要というのか、が行われていた。寺の中を埋め尽くさんばかりに集まった年齢の高い女性たち(男はほとんどいない)が、僧侶の読むのに合わせて経を唱える。やがて僧侶たちは麦わら帽をかぶって外に出てきて、スピーカーで流れる「南無阿弥陀仏」の読経とともに、ゆっくりと境内を歩き始める。その後をついて、アジュモニたちが長い行列を作る。蛇のような行列は、色とりどりの提灯がびっしりと空を埋めている境内でところどころとぐろを巻き、またほぐれて蛇行し、と、複雑な軌跡を描いてひたすら境内を練り歩く。そして最後には待ち受けた僧侶から、茶色い玉を一つ(数珠?)受け取って、行進を終える。
興味深かったのは、そのお経の読み方である。もちろん、日本の読み方とは違う。なんと説明してよいのか、これがやはり韓国風の節回しがついた、日本よりも歌うような読み方なのである。その国の音楽性は、教典を読むときの節回しに表れる。昨年、トルコを旅したときは、コーランの朗唱にそれを感じた。祈りの時間になると、様々な素人がジャーミーに集って順に読み始め、読む者の個性がさらにそこにアレンジされるのが面白い。
読経のリズムを刻むのも、木魚だけでなく、ケンガリのような金属のものを鳴らす。ここでも鉄の音。信者の祈り方でも、五体投地をしている人たちが結構多いのには驚いた。
とにかく圧倒されてしまった。
ちなみに、今日は韓国でもこどもの日。
2012年5月26日(土) ― 2012-05-26
売れっ子お笑いタレントの親が生活保護をもらっていたことが詳らかにされ、大バッシングが起こり、厚生労働大臣が生活保護の給付水準を引き下げることを検討し始める、というニュースを、ソウルに住みながらネットで知って、また殺人未遂が起きているのか、と暗澹たる気持ちになった。
この件で異様さを感じるのは、生活保護の実態への関心など本当はなく、ただ世間の何でもいいから叩いてやりたい、バッシングしたいという気分に、人気の芸能人がらみという点がうってつけだったために騒ぎが大きくなっただけなのにもかかわらず、政治が動いている点だ。政治を動かす要素は、もはや現場の実情や構造、その分析ではなく、世の中の漠然とした気分へと、すっかり取って代わっている。
バッシングを受けて政治が生活保護水準を下げたりしたら、どのようなことが起こるか。ただでさえ、社会から経済的社会的にこぼれ落ちて、生存の瀬戸際にいる大量の人たちを、死の側へ押しやることになる。背中を押したら死ぬとわかっている人に対し、複数人で背中を押したら、これは殺人になるのではないだろうか。今の社会が行っていることは、そのような行為である。有権者も政治家も、報道も含め。
今の世の、叩きのめしたい、バッシングしたい、非難をぶつけてやりたいという欲望は、特に震災原発事故後、とてつもなく巨大化していて、強大な暴力となっている。一人一人の内面の苛立ちは無力なものだから、それが集団ではどれほど威力のある暴力なのか、個々人が意識するのは難しい。だから、エスカレートする一方だ。今回の生活保護の問題は、一部の政治家が、その巨大な暴力を利用して、またメディアも無意識にそれに荷担して、生存の瀬戸際にいる者たちの背を押させようとした、という事件だと、私は思っている。イギリス人が、植民地支配しているインドで、イスラム教徒をたきつけてヒンドゥー教徒を攻撃させることで、自分たちの思いどおりの施策を実行した、分断統治のやり方だ。背中を押しているほうも押されているほうも、じつは同じような立場に置かれている一般人だ。
生活保護の現場に関しては、一方で、何年にもわたり、その瀬戸際に立って食い止めようと活動してきた人たちがいる。社会の巨大な暴力を必死で和らげようとしてきた人たちが、少なからずいる。だから、暴力のほうもそれなりの大きさにならないと、威力を発揮できない。今回は「芸能人」という話題性が、その威力を巨大にした。
だが、今の日本社会では、その暴力がほんのそよ風が吹く程度、発揮されるだけで、生存の瀬戸際に立たされる人たちも大勢いる。そよ風程度の暴力だから、暴力を振るっている当人たちも気づかないほどだ。
たとえば、入管の現場である。日本社会が労働力を必要とした時期に南米から日本に出稼ぎに来て、その際、親に連れられて幼児の歳で来日、日本で育ち、日本を母国と感じ、しっかり勉強して難関の大学に合格した者が、勤め先の経済状況により親が解雇されてビザが切れたために不法滞在となったことに対し、いきなり数週間後には南米に帰れ、と命ずる、というようなことが、普通に起きている。しかも、問題は、法や基準を厳格に適用してそのような措置が執られているのではなく、曖昧な基準をわざと放置しておいて、現場の気分によって、相手によって、措置が変わることだ。日本に住み続けられるかどうかが、それを認定する人の気分や感情で決まるなんて、ロシアやいくつかのアフリカ諸国のような、腐敗した官僚社会のようではないか。
それが可能なのは、入管の問題に関しては、誰もが無関心だからだ。まずメディアが無関心なので情報が少ない。報じたところで、関心は持たれない。それを監督するはずの行政も、現民主党政権は無関心なので、放置している。人の目がないことをいいことに、入管の職員は現場で君臨しているわけである。唯一の例外は、カルデロンさんのケースだったが、結局バッシングを招いただけだった。
関心を持つとなればバッシング、持たなければ当事者が死の危機にあろうが無視。過干渉かネグレクト、みたいな状態である。
その底にあるのは、象徴的に言えば、「人を殺したい欲望」だと、私は思ってる。
それが端的に表れているのが、日本の「死刑制度」への支持率だ。昔から高かったが、最近はさらに上昇し続けている。私は、このバッシング社会が死刑制度支持を高めているのを見ると、みんな人を殺したいんだなあと感じる。つまり、死刑制度は、法に守られたバッシングと化している。
ただし、この場合の「人」は、じつは他人だけではない。そこには自分も含まれる。どうにもならない理不尽にさらされ続け、ひたすら無力感に打ちのめされてきた結果、私たちの社会のものすごく多くの人が、無意識のうちに、この社会をぶちこわしたい、めちゃくちゃにしたい、そうでないと劇的になんか変わらない、という気分に支配されている。あるいは、自分が終われば、少なくとも自分の意識の中ではこの理不尽は消える。選択肢はどちらかしかない。社会がめちゃくちゃになるか、自分が消えるか。どちらも同じこと。
だから、そんなバッシングをしたら、当の自分が苦しくなる、というようなケースでも、平然とバッシングに熱狂する。後で自分が終わろうが、どうでもいいのだ。今の自分がスカッとすれば。少なくとも誰かが苦しめば、自分は少し楽になる。集団化した巨大なバッシングは、あたかも古い社会を壊すかのような幻想を与えてくれる。
私たちがバッシングし、叩こうとし、殺そうとしているのは、「俺」なのだ。自分なのだ。私たちは、おぞましい悪夢を生きている。