2012年3月5日(月)2012-03-05

居場所を削り合う社会

 少し以前、「便所メシ」という言葉があった。大学生が、一人で食事をしているところを誰かに見られたら、寂しい人として地位が下がるから、トイレの個室にこもって食事を済ませるのだ。
 他人の目線が、自分の評価のすべてになっているのである。自分の価値とは、自分で決めることではないのだ。そんな息苦しさは、自由気ままでいいはずの大学生ですら追いつめ、居場所を奪っている。
 先日、ビッグイシュー基金の主催で行われた「若者ホームレス支援会議」に参加したとき、若い人の自己肯定感をいかにしたら育てられるかという話になった。今は若年層のホームレス化と自殺が急増しているが、その根本の原因に、うまくいかないのはすべてダメな自分のせい、という自尊感情の低さがある。
 キーワードは「居場所」。自分がそこにいてもよく、周りの基準に合わせずとも存在を認めて受け入れてくれる場所があれば、自尊感情も育ってくる、というわけだ。
 いったいいつから居場所は奪われたのだろうか。それは突然に進行したことではない。
 サリン事件以前にオウム真理教に入信した者たちも、あの時代、居場所のなさに苦しんだ者たちだったと私は思う。まじめにものを考えようとする人間が「ネクラ」として嘲笑されたバブル期とは、要領のよさ、ノリのよさを身につけろ、という強迫観念に取り憑かれた時代だった。祭りに乗り遅れないよう必死で流行に引きずられていく生き方に、自由があったとはとても言えない。
 そんな風潮に違和感を覚える者に、行き場はなかった。私は外部があると思い、メキシコへ脱出したが、より生真面目な者たちは、セクトしか選択肢がなかったのかもしれない。
 サリン事件の後、私たちはかれらがなぜ入信し、先鋭化していったのか、虚心坦懐に耳を傾けるべきだった。そうすれば、かれらの中に自分と共通する部分があることを、知っただろう。私たちも、自分を放棄しているという意味では、本当の居場所を持っていないことに、気づけただろう。
 だが、社会とメディアが行ったことは、かれらの居場所をさらに奪うことだった。かれらを追放することで、自分たちの居場所を確保しようとしたのだ。自分たちとは異なる異常者として切り分けることで、私たち誰もの内に潜むオウム的なるもの、つまり自分らしさが肯定される居場所を持てずに生きているという不安と絶望から、目をそらしてしまった。
 以来、この社会では、集団で誰かをバッシングをすることで自分を守ろうとする生き方が、標準となった。行き着く先は、すべての人間が完全に居場所を失う社会である。
 原発から目を背けて原発を増やしてしまったように、オウム的なるものから目を背ければ、それはどんどん増殖する。例えば加藤智大の事件は、その一例だろう。
 自分が社会から排除されて居場所がないと感じている者にとって、タブーなど存在しない。オウムのころ以上に居場所のなさが極まっている現在、さまざまな形で暴力を肯定する宗教的なセクトに人が集まっていくと、私は危惧している。

(初出:共同通信2011年11月配信)

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