ブログの引っ越し2011-04-16


 これまで使っていたエキサイトのブログの、広告が鬱陶しくなり、アサブロに引っ越すことにしました。これまで同様、よろしくお願いします。
 より手軽なツイッターを使うようになってから、ブログの更新はまばらになっておりますが(これまで、1回のブログを書くのに1時間とか2時間をかけていたのです)、140字では展開できないこともありますので、折りにふれこちらでも書いていくつもりです。
 また、かつてサイトでお知らせしていた「新着情報」、つまり私が新しく書いた文章なり小説なりのお知らせも、こちらで行っていきます。発表から時間のたったエッセイも、問題のない範囲で掲載していく予定です。

2011年4月19日(火)2011-04-19

(初出・北海道新聞2011年4月2日夕刊「原発列島化 責任直視を」)

 東京の自宅で、揺れが来たとき、全身を覆ったのは恐怖だった。パニックに陥って妙な行動を取ろうとした自分をあとで振り返りながら、恐怖がいかに人間を無能にするか、思い知らされた。
 その恐怖は和らいだとはいえ、今でも心身の中枢に潜んでいる。一度植えつけられた恐怖は取り除くのに労力がかかるからだ。同時に、原発事故が収束せず、大惨事の可能性をいまだに残しているがゆえに、私たちはいまだに震災の最中にいる、という事実が、恐怖を現在のものとして持続させている。
 その恐怖を振り払いたくて、反原発の声や行動が広がっているのは、当然だろう。原子力は、人間の力では制御しきれないことが明らかになったのだ。私も、人類はあらゆる核エネルギーから手を引くべきだ、と思っている。
 にもかかわらず、「原発反対」と声高に主張することに、ためらいを覚えてもいる。「原発は必要悪だ」などと思っているわけではない。自分の住む列島をここまで原発だらけにしてしまった責任は、自分にもある、と感じるからだ。
 震災が起こる少し前から、私は森達也氏の『A3』というノンフィクションを読んでおり、震災後も読み続けた。地下鉄サリン事件の麻原彰晃裁判を考察した本である。
 サリン事件? 何を今さら、と感じる人も多いだろう。この本は、世の中を激変させた過去の出来事について、「何を今さら」と人が感じてしまうことを問題にしている。事件後、オウム真理教に対して、「とてつもない巨悪はとにかく厳罰に処せ」という世の空気が強まり、その空気に押されるようにして、さまざまな法や慣例を破ってまでして麻原彰晃に死刑判決を下したのが、あの裁判だった、と森氏は考える。そして、その「異例」はいつの間にか、「ひどい犯罪は法をねじ曲げてでも死刑にしてよい」という「常識」に変わっていく。その結果犠牲になったのが、なぜ、どんな理由で、どんな経緯で、あの事件は起こったのか、という、事実の解明、責任の所在の解明である。オウム真理教や麻原彰晃の「異常さ」を言える人はたくさんいても、なぜ事件を起こしたのか正確に説明できる人は、はたしているだろうか?
 地下鉄サリン事件が起こったのは、一九九五年の三月二十日である。同じ年のふた月前に、阪神淡路大震災が起こっている。一九九五年は日本社会をどん底に突き落とし、恐怖で萎縮させた年だった。そこから立ち直るにあたって、私たちはどれほどのことを学んだだろう。ひょっとして、恐怖を振り払うために、ただひたすら「悪者」を叩き、あとは忘れることで先へ進んでしまったのではないだろうか。
 原発についても、同じことを思うのだ。冷戦が終わる前までは、「核」の脅威はそれなりのリアリティを持って語られ、世界でも日本でも「反核」、その延長としての「反原発」の活動や言論は盛んだった。
 それがバブルのころから古いトレンド扱いされ、私たちはすっかり無関心になった。原発政策に賛同し積極的に歓迎した、というわけではない。たんに事実から目をそらしたのだ。その結果、批判のないのをいいことに、電力会社を含む経済界、官庁、政治家が巨大な利権を作って、原発の拡大と、電力消費を促すライフスタイルを独善的に進めていった。自分自身も含め、社会が核に対し、せめて冷戦以前ほどの関心を維持していれば、この独善に世論の力でブレーキをかけることはできたのではないか、という思いが私にはある。
 本気でこんな目に遭うことを繰り返したくなかったら、私たちは、原発に対して東電だけでなく自分たちも責任を負っていることを直視したうえで、脱原発の意思を鍛え直すべきではないだろうか。本当の復興は、私たち自身が変わることで可能になると思うのである。

大江健三郎賞・公開対談のお知らせ2011-04-20

 私の長編小説『俺俺』が、今年の「第5回大江健三郎賞」をいただいたのですが、贈呈式に代わるイベントとして、5月19日(木)夜7時から、大江健三郎さんと私の公開対談が行われます。
 どなたでも聞きに来られますので、ご興味のある方は、下記の要領でお申し込みください。(応募者が定員を越えた場合は、抽選になるようです)。
           *
日時 5月19日(木)19:00開始(18:30開場)
会場 講談社 社内ホール(有楽町線護国寺駅)
●ハガキの場合
郵便はがきに「大江賞公開対談参加希望」と明記の上、住所、氏名、年齢、職業、電話番号をご記入ください。
宛先:〒112-8001文京区音羽2-12-21
   海外文芸出版部 大江健三郎賞公開対談係
応募締切:5月6日(当日消印有効)
当選は発送をもってかえさせていただきます。(5月9日以降発送予定)
●ネットの場合
次のサイトから申し込んでください。
http://www.kodansha.co.jp/boshu.html

もっと詳しい情報が知りたい方も
http://www.kodansha.co.jp/boshu.html
をご覧ください。

2011年4月23日(土)2011-04-23

 102歳で自ら命を絶った被災者のことがずっと頭を離れない。私でさえ、地震が起きた直後、「生きてる、助かった」という気持ちを抱いた。この方も、地震の直後は、自分が生きていることに安堵しただろう。
 102歳というと、関東大震災を子どものころに経験しているはずである。福島県飯館村の方だから、揺れはそれほどでもなかったかもしれないが、被害の巨大さ、何よりも社会が被ったダメージは、知っていただろう。
 2度の大震災を経験したであろうその方が、震災を生き延びた直後になぜ自ら命を絶たねばならなかったのか。102年を生きて、天寿を全うするのを、なぜ待たなかったのか。
 私の推測でしかないが、私の受けたショックの理由を、この方に象徴させる形で書く以外に、考えるすべはない。
 私が受けたショックというのは、この方に限らず、津波ですべてをさらわれた方、放射能に汚染されてとても住めないような土地の方たちのうち、少なからぬ方々が元の土地でもとの生活をしようと、強い意志を持っていることだった。
 それほどまでに自分の生まれ育った土地に執着があるのかと、驚いたのだ。そのために命を絶った方を知ったときには、驚いたなんて生易しい感情ではなく、本当に自分の存在を根底から揺さぶられるほど衝撃を受けた。
 そんなの当たり前じゃないかと思う人もいるだろう。だが私には私なりの、ショックを受ける理由がある。私は故郷を持たない転勤族の子どもだったからだ。正確に言えば東京に実家があるが、東京に定住するようになったのが十代半ばだったため、生まれ育った故郷という意識もないし、愛着も特にない。
 そんな自分は、常にマイノリティーだった。ふるさとがないことがコンプレックスだった時期も長かった。根無し草であることは、何かを欠いているのだと、ずっと思ってきた。地域に根ざす共同性からたおやかに排除されたりもした。そこから解放されたのは、大学生になって様々なアイデンティティの人間と会ってからである。ふるさとというのは、絶対的なものではなく、ない人もいればある人もいる、ないからといって必ずしもマイナスではないのだと、ようやく思えるようになったのだ。
 そうなってみると、自分がいかに「ふるさと幻想」に抑圧されていたのか、自覚し始める。「ふるさとはあって当然、ない人はかわいそう」とまでは言わないにせよ、そのマジョリティ性が、私のようなあり方を、一つの選択肢として認めてこなかったのだ、という気になってくる。
 かくして、そっちがこちらの立場を想像も理解もする気がないのなら、こっちだってあんたらのことは理解する気はないよ、と思うようになった。そして実際、愛憎を抱きながらネイティブの土地に生き続けることの苦楽など、想像するのをやめてしまった。こちらはこちらで、根無し草の苦楽と可能性を考えることで手いっぱいになったのだ。
 だが、今、自分はなんと不毛な対立を生きてきたのだろうと、呆然とするばかりだ。その対立が、互いへの無関心を生み、強化し、互いの首を絞める結果をもたらした。
 それは本当に対立するようなことだったのだろうか。共存するので何の問題もないはずのことだったのではないだろうか。棲み分けた結果、私はあまりにも無関心でいすぎた。土地とともに生きることが、どのようなアイデンティティを作り、自我がどれほどその土地と一体になっているのか、想像してみもしなかった。土地とそこで築いた生活を奪われることが、震災の被害よりも大きな損失であることなど、考えたこともなかった。定住生活者が、故郷を持たない者のアイデンティティなど、想像もつかないように。
 それをリアルな感覚として経験はできないけれども、自分の一生と分かちがたく結びついた土地と生活を失う苦痛を、今私は必死で思い描いている。その想像と感覚抜きでは、震災後の社会のあり方など、考えることができないからだ。
 互いが「好きにすればいいんじゃないの」と、領域侵犯せずに無関心と冷淡さを維持している限り、それぞれの主体が選択できるような社会は実現できない。それは結局、選択の自由内でのヒエラルキーを作るだけだ。震災によって、私たちの選択(目をそらす、という態度も選択の一つ)が互いに無縁ではあり得ないことが、あからさまになっている以上。
 互いの依って立つ基盤を尊重し、それを支え合う文化を、私たちは意見をぶつけ合いながら見つけ、形作っていかなければならない。共通感覚をもとにした「常識」で判断するのではなく、自分には理解のできない感覚の中で、どこが共存できる部分かを見極め、信頼のよすがとするしかない。
 私も定住者も、等価な当事者なのだ。「当事者性」を声高に主張するのではなく、互いが当事者であることを意識することが、当事者になることなのだろう。