2011年4月23日(土)2011-04-23

 102歳で自ら命を絶った被災者のことがずっと頭を離れない。私でさえ、地震が起きた直後、「生きてる、助かった」という気持ちを抱いた。この方も、地震の直後は、自分が生きていることに安堵しただろう。
 102歳というと、関東大震災を子どものころに経験しているはずである。福島県飯館村の方だから、揺れはそれほどでもなかったかもしれないが、被害の巨大さ、何よりも社会が被ったダメージは、知っていただろう。
 2度の大震災を経験したであろうその方が、震災を生き延びた直後になぜ自ら命を絶たねばならなかったのか。102年を生きて、天寿を全うするのを、なぜ待たなかったのか。
 私の推測でしかないが、私の受けたショックの理由を、この方に象徴させる形で書く以外に、考えるすべはない。
 私が受けたショックというのは、この方に限らず、津波ですべてをさらわれた方、放射能に汚染されてとても住めないような土地の方たちのうち、少なからぬ方々が元の土地でもとの生活をしようと、強い意志を持っていることだった。
 それほどまでに自分の生まれ育った土地に執着があるのかと、驚いたのだ。そのために命を絶った方を知ったときには、驚いたなんて生易しい感情ではなく、本当に自分の存在を根底から揺さぶられるほど衝撃を受けた。
 そんなの当たり前じゃないかと思う人もいるだろう。だが私には私なりの、ショックを受ける理由がある。私は故郷を持たない転勤族の子どもだったからだ。正確に言えば東京に実家があるが、東京に定住するようになったのが十代半ばだったため、生まれ育った故郷という意識もないし、愛着も特にない。
 そんな自分は、常にマイノリティーだった。ふるさとがないことがコンプレックスだった時期も長かった。根無し草であることは、何かを欠いているのだと、ずっと思ってきた。地域に根ざす共同性からたおやかに排除されたりもした。そこから解放されたのは、大学生になって様々なアイデンティティの人間と会ってからである。ふるさとというのは、絶対的なものではなく、ない人もいればある人もいる、ないからといって必ずしもマイナスではないのだと、ようやく思えるようになったのだ。
 そうなってみると、自分がいかに「ふるさと幻想」に抑圧されていたのか、自覚し始める。「ふるさとはあって当然、ない人はかわいそう」とまでは言わないにせよ、そのマジョリティ性が、私のようなあり方を、一つの選択肢として認めてこなかったのだ、という気になってくる。
 かくして、そっちがこちらの立場を想像も理解もする気がないのなら、こっちだってあんたらのことは理解する気はないよ、と思うようになった。そして実際、愛憎を抱きながらネイティブの土地に生き続けることの苦楽など、想像するのをやめてしまった。こちらはこちらで、根無し草の苦楽と可能性を考えることで手いっぱいになったのだ。
 だが、今、自分はなんと不毛な対立を生きてきたのだろうと、呆然とするばかりだ。その対立が、互いへの無関心を生み、強化し、互いの首を絞める結果をもたらした。
 それは本当に対立するようなことだったのだろうか。共存するので何の問題もないはずのことだったのではないだろうか。棲み分けた結果、私はあまりにも無関心でいすぎた。土地とともに生きることが、どのようなアイデンティティを作り、自我がどれほどその土地と一体になっているのか、想像してみもしなかった。土地とそこで築いた生活を奪われることが、震災の被害よりも大きな損失であることなど、考えたこともなかった。定住生活者が、故郷を持たない者のアイデンティティなど、想像もつかないように。
 それをリアルな感覚として経験はできないけれども、自分の一生と分かちがたく結びついた土地と生活を失う苦痛を、今私は必死で思い描いている。その想像と感覚抜きでは、震災後の社会のあり方など、考えることができないからだ。
 互いが「好きにすればいいんじゃないの」と、領域侵犯せずに無関心と冷淡さを維持している限り、それぞれの主体が選択できるような社会は実現できない。それは結局、選択の自由内でのヒエラルキーを作るだけだ。震災によって、私たちの選択(目をそらす、という態度も選択の一つ)が互いに無縁ではあり得ないことが、あからさまになっている以上。
 互いの依って立つ基盤を尊重し、それを支え合う文化を、私たちは意見をぶつけ合いながら見つけ、形作っていかなければならない。共通感覚をもとにした「常識」で判断するのではなく、自分には理解のできない感覚の中で、どこが共存できる部分かを見極め、信頼のよすがとするしかない。
 私も定住者も、等価な当事者なのだ。「当事者性」を声高に主張するのではなく、互いが当事者であることを意識することが、当事者になることなのだろう。

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