2011年4月19日(火)2011-04-19

(初出・北海道新聞2011年4月2日夕刊「原発列島化 責任直視を」)

 東京の自宅で、揺れが来たとき、全身を覆ったのは恐怖だった。パニックに陥って妙な行動を取ろうとした自分をあとで振り返りながら、恐怖がいかに人間を無能にするか、思い知らされた。
 その恐怖は和らいだとはいえ、今でも心身の中枢に潜んでいる。一度植えつけられた恐怖は取り除くのに労力がかかるからだ。同時に、原発事故が収束せず、大惨事の可能性をいまだに残しているがゆえに、私たちはいまだに震災の最中にいる、という事実が、恐怖を現在のものとして持続させている。
 その恐怖を振り払いたくて、反原発の声や行動が広がっているのは、当然だろう。原子力は、人間の力では制御しきれないことが明らかになったのだ。私も、人類はあらゆる核エネルギーから手を引くべきだ、と思っている。
 にもかかわらず、「原発反対」と声高に主張することに、ためらいを覚えてもいる。「原発は必要悪だ」などと思っているわけではない。自分の住む列島をここまで原発だらけにしてしまった責任は、自分にもある、と感じるからだ。
 震災が起こる少し前から、私は森達也氏の『A3』というノンフィクションを読んでおり、震災後も読み続けた。地下鉄サリン事件の麻原彰晃裁判を考察した本である。
 サリン事件? 何を今さら、と感じる人も多いだろう。この本は、世の中を激変させた過去の出来事について、「何を今さら」と人が感じてしまうことを問題にしている。事件後、オウム真理教に対して、「とてつもない巨悪はとにかく厳罰に処せ」という世の空気が強まり、その空気に押されるようにして、さまざまな法や慣例を破ってまでして麻原彰晃に死刑判決を下したのが、あの裁判だった、と森氏は考える。そして、その「異例」はいつの間にか、「ひどい犯罪は法をねじ曲げてでも死刑にしてよい」という「常識」に変わっていく。その結果犠牲になったのが、なぜ、どんな理由で、どんな経緯で、あの事件は起こったのか、という、事実の解明、責任の所在の解明である。オウム真理教や麻原彰晃の「異常さ」を言える人はたくさんいても、なぜ事件を起こしたのか正確に説明できる人は、はたしているだろうか?
 地下鉄サリン事件が起こったのは、一九九五年の三月二十日である。同じ年のふた月前に、阪神淡路大震災が起こっている。一九九五年は日本社会をどん底に突き落とし、恐怖で萎縮させた年だった。そこから立ち直るにあたって、私たちはどれほどのことを学んだだろう。ひょっとして、恐怖を振り払うために、ただひたすら「悪者」を叩き、あとは忘れることで先へ進んでしまったのではないだろうか。
 原発についても、同じことを思うのだ。冷戦が終わる前までは、「核」の脅威はそれなりのリアリティを持って語られ、世界でも日本でも「反核」、その延長としての「反原発」の活動や言論は盛んだった。
 それがバブルのころから古いトレンド扱いされ、私たちはすっかり無関心になった。原発政策に賛同し積極的に歓迎した、というわけではない。たんに事実から目をそらしたのだ。その結果、批判のないのをいいことに、電力会社を含む経済界、官庁、政治家が巨大な利権を作って、原発の拡大と、電力消費を促すライフスタイルを独善的に進めていった。自分自身も含め、社会が核に対し、せめて冷戦以前ほどの関心を維持していれば、この独善に世論の力でブレーキをかけることはできたのではないか、という思いが私にはある。
 本気でこんな目に遭うことを繰り返したくなかったら、私たちは、原発に対して東電だけでなく自分たちも責任を負っていることを直視したうえで、脱原発の意思を鍛え直すべきではないだろうか。本当の復興は、私たち自身が変わることで可能になると思うのである。

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