鳥取ループ裁判に行ってきた2017-12-25

 今日は対鳥取ループ裁判の第7回口頭弁論を傍聴してきた。9月25日の第6回公判に続いて、2度目の傍聴である。

 この裁判は、鳥取ループを名乗る被告が、「全国の部落の地名や関係者の個人情報をインターネットに公開している」という暴力と差別を問うもの。詳しくは、この裁判にも関わっている若手たちが作っているABDARC(アブダーク)のサイトを見てほしい。
 私でさえ、この公判に行くには、朝から精神的な武装が必要である。さもないと、激しく感情を乱され、傷つけられるから。なぜなら、被告の鳥取ループは、裁判もヘイトの材料として利用して、楽しんでいるからである。被差別部落の地名や個人情報がさらされるというアウティングの暴力が問題となっているのに、その裁判で提出される、プライバシーを含むあらゆる情報を、公判の公開原則を悪用して、ネットにさらすのである。今日の公判ではまさにこの点が問題となったが、つい先ごろ、大阪高裁での別の裁判で、訴えた原告の個人情報が記載された裁判資料を鳥取ループがネットで公開していた件に関し、削除と賠償金支払いを命じられたとのことである(参照)。
 初めて傍聴した9月の公判で、自らが己の弁護人となってヘイト言説を当事者の前で述べ立てる鳥取ループ本人を見たときは、私はコントロールを失いそうになった。原告は毎回、これに直面させられるのかと、いたたまれない思いになった。
 この苦痛は、李信恵さんが桜井誠ら在特会の人たちに民族的差別発言で傷つけられた件の裁判を、大阪地裁に傍聴しに行ったときにも、味わわされたものだった。
 裁きを得るためには、事実を明るみに出さねばならず、それは訴えた側が、差別された詳細な記憶・記録と真正面から向き合うことに他ならず、さらには自らを差別した当人がそこにいて、再び裁判の場で差別をしてくることに立ち向かわねばならないのである。この、「被差別の再現劇」が必然的に引き寄せてしまう暴力を最小限に抑えるために、肝心なのは、この再現性は差別をなくすためにあるのだということを共有している者たちが見守ることだと、その傍聴の際に体で学んだのだ。
 けれど、関東に住む私は大阪地裁の公判にはなかなか足を運ぶことができない。そのぶん、東京地裁で行われている部落差別の裁判にはもっと頻繁に行くことができる。それぞれは別の人たちが苦しんでいる別の事件だけれど、差別や憎悪を拡大させようとしている者たちへの裁判という点では同じ意味を持つ。どちらも、他人を貶めることで力を手に入れようとするやり方が標準になりつつある今の社会を作っている、暴行者たちである。私は私で今、相撲という場で進行している差別に直面させられている。あちこちで発生している暴力が、互いに相乗効果を得ながら急拡大している以上、自分にできる範囲で、それを許さない意思を示していくしかない。つまり、差別者たちに、差別やヘイトをしても力を得ることはできない、という体験をしてもらうのだ。
 この裁判が私にもたらす明るい可能性は、若い世代がABDARCを作って、よりオープンに、よりカジュアルに、より敷居を低く、差別問題を考える場を広げていこうとしていることである。これは例えば、今年に波が訪れた、よりカジュアルでよりオープンな姿をとったフェミニズムのあり方とも、私には重なる。
 差別について、漠然としかわからないので、基礎的なことを知ってみたいという人は、ABDARCのサイトのQ&Aなどを読むといいかもしれない。
 ABDARCはイベントも開催していて、その記録なども載っている。第1回イベント「私たちの部落問題」での講演「インターネットと部落差別の現実」はこちらで読めるし、私の感想はこちら