2011年7月19日(火) ― 2011-07-19
女子サッカーを見始めた10年前、強豪国であったのは、王者アメリカ、ドイツ、スウェーデン、カナダ、中国、北朝鮮などであった。この名前を見ていて気づくのは、北方の欧米諸国か、東アジアの社会主義国だということだ。両者に共通するのは、女性の社会進出が相対的に進んでいるという点である。
女子サッカーの隆盛は、フェミニズムとともにある。女子サッカー文化の発展を牽引しているアメリカは、性差別を超えるプログラムの一環として、女子サッカー教育に力を入れた。その結果、女子サッカーはアメリカでは、「女こども」がするスポーツとなった。同様に、フェミニズム先進国であるドイツやスウェーデン、カナダといった北方の欧米諸国で、女性たちが積極的に関わってきた。男女同権が党是である「共産主義国」の中国や北朝鮮では、その国家主義的強化もあって、いち早く強豪化した。そこで隆盛化したのは、力と体格を前面に押し出すパワーサッカーだった。男子サッカーと違って、ヨーロッパにせよアメリカ大陸にせよ、マチスモの色濃いラテン諸国(ブラジルを除く)がいまいち強くないのは、そのような成り立ちも関係している。日本の女子サッカーはまず、身近にいる中国や北朝鮮の打倒を目指して成長し、さらにアメリカやドイツのリーグでプレーすることで成長した。パワーの先進諸国に育てられて、パワーではない新しいあり方を開花させた、妹分なのだ。
9年前に日本女子の代表をスタジアムに見に行ったとき(ワールドカップ予選のプレーオフ、対メキシコ戦)、そのチームは技術はなかなかだけど、球のスピードも遅いし、走力もないし、ミスも多かった。にもかかわらず、とても胸を打たれて、魅了されてしまったのは、男子サッカーが持たない「熱さ」を持っていたからだ。サッカーをすることの喜びに満ち、その喜びを貪り尽くそうと、ものすごく必死だった。
今度の優勝を見ればわかるように、今のチームもその延長上にある。熱さと喜びへのかぎりない貪欲さこそが、人々を魅了したのだ。
そして、ここが重要なのだが、これは男社会に最も欠落しているものだ。女子サッカーは、たんに、男子のしていたサッカーを女性がしているのではない。その文化の根っこに、男社会の持つ無意味さや空虚を否定する要素を持っていて、それが大きな原動力のひとつとなっている。この場合の男社会とは、もう機能しなくなっているのにその権限の保持だけに必死になっている既得権益層(例えば一部の行政機関、政府、行政と結びついた私企業等々)と言い換えてもよい。そしてそれを消極的に無為に受け入れ維持させてしまう、この社会。そういった、日本社会の「現実至上主義」のメンタリティを指す。男子のサッカーはそれに寄り添っているところがある。女子のサッカーはそのアンチテーゼだ。
私はそのようなものとして、女子サッカーを、ありうべきひとつの未来のイメージとして、楽しみ、考え、見てきた。その象徴にして実像が、澤穂希だ。そうやって、2002年に「ファンタジスタ」という小説も書いた。9.11 後の小泉(首相)的社会に対置させるべき像として、澤を想像した。
私は現実の日本女子サッカーに、過剰な意味づけをしているとは思う。選手はそんなことまで意識していないし、もっとシンプルに行動している。でも、私が幻想を抱いているわけでもない。女子サッカーという存在は、本当にそのような要素を持っているのだ。
だから、私はごく少数の人を除いて、今の喜びを共有はしない。少なくとも、女子サッカー文化を知ろうともせずに、数ある「日本代表」のひとつとしてのみ消費して「感動」しようとするような空気に対しては、関係ないねと言いたい。女子サッカーの文化を蹂躙するようなメディアの盛り上がり方には、「おまえら終わってるよ」と言いたい。(だから私自身は「ナデシコ」という名称も使わない。その名称が普及に大きな役割を果たしていると思うし、だから選手も好んで使っていることも承知しているけれど)。
この優勝の盛り上がりに、女子サッカーがメジャー化するという希望と、何だか水を差したくなる嫌悪と、両方を感じてしまう。被災で弱った社会が、ここから力を受け取るのは素晴らしいと思う。選手たちがその祈りを胸に戦ったことにも間違いなく心を打たれる。一方で、被災や復興を口実に盛り上がるな、と腐したくもなる。作り物のニセの感動物語を真に受けるな、と言いたくもなる。
女子サッカーの隆盛は、フェミニズムとともにある。女子サッカー文化の発展を牽引しているアメリカは、性差別を超えるプログラムの一環として、女子サッカー教育に力を入れた。その結果、女子サッカーはアメリカでは、「女こども」がするスポーツとなった。同様に、フェミニズム先進国であるドイツやスウェーデン、カナダといった北方の欧米諸国で、女性たちが積極的に関わってきた。男女同権が党是である「共産主義国」の中国や北朝鮮では、その国家主義的強化もあって、いち早く強豪化した。そこで隆盛化したのは、力と体格を前面に押し出すパワーサッカーだった。男子サッカーと違って、ヨーロッパにせよアメリカ大陸にせよ、マチスモの色濃いラテン諸国(ブラジルを除く)がいまいち強くないのは、そのような成り立ちも関係している。日本の女子サッカーはまず、身近にいる中国や北朝鮮の打倒を目指して成長し、さらにアメリカやドイツのリーグでプレーすることで成長した。パワーの先進諸国に育てられて、パワーではない新しいあり方を開花させた、妹分なのだ。
9年前に日本女子の代表をスタジアムに見に行ったとき(ワールドカップ予選のプレーオフ、対メキシコ戦)、そのチームは技術はなかなかだけど、球のスピードも遅いし、走力もないし、ミスも多かった。にもかかわらず、とても胸を打たれて、魅了されてしまったのは、男子サッカーが持たない「熱さ」を持っていたからだ。サッカーをすることの喜びに満ち、その喜びを貪り尽くそうと、ものすごく必死だった。
今度の優勝を見ればわかるように、今のチームもその延長上にある。熱さと喜びへのかぎりない貪欲さこそが、人々を魅了したのだ。
そして、ここが重要なのだが、これは男社会に最も欠落しているものだ。女子サッカーは、たんに、男子のしていたサッカーを女性がしているのではない。その文化の根っこに、男社会の持つ無意味さや空虚を否定する要素を持っていて、それが大きな原動力のひとつとなっている。この場合の男社会とは、もう機能しなくなっているのにその権限の保持だけに必死になっている既得権益層(例えば一部の行政機関、政府、行政と結びついた私企業等々)と言い換えてもよい。そしてそれを消極的に無為に受け入れ維持させてしまう、この社会。そういった、日本社会の「現実至上主義」のメンタリティを指す。男子のサッカーはそれに寄り添っているところがある。女子のサッカーはそのアンチテーゼだ。
私はそのようなものとして、女子サッカーを、ありうべきひとつの未来のイメージとして、楽しみ、考え、見てきた。その象徴にして実像が、澤穂希だ。そうやって、2002年に「ファンタジスタ」という小説も書いた。9.11 後の小泉(首相)的社会に対置させるべき像として、澤を想像した。
私は現実の日本女子サッカーに、過剰な意味づけをしているとは思う。選手はそんなことまで意識していないし、もっとシンプルに行動している。でも、私が幻想を抱いているわけでもない。女子サッカーという存在は、本当にそのような要素を持っているのだ。
だから、私はごく少数の人を除いて、今の喜びを共有はしない。少なくとも、女子サッカー文化を知ろうともせずに、数ある「日本代表」のひとつとしてのみ消費して「感動」しようとするような空気に対しては、関係ないねと言いたい。女子サッカーの文化を蹂躙するようなメディアの盛り上がり方には、「おまえら終わってるよ」と言いたい。(だから私自身は「ナデシコ」という名称も使わない。その名称が普及に大きな役割を果たしていると思うし、だから選手も好んで使っていることも承知しているけれど)。
この優勝の盛り上がりに、女子サッカーがメジャー化するという希望と、何だか水を差したくなる嫌悪と、両方を感じてしまう。被災で弱った社会が、ここから力を受け取るのは素晴らしいと思う。選手たちがその祈りを胸に戦ったことにも間違いなく心を打たれる。一方で、被災や復興を口実に盛り上がるな、と腐したくもなる。作り物のニセの感動物語を真に受けるな、と言いたくもなる。
2011年7月20日(水) ― 2011-07-20
女子サッカー日本代表、その団結力、とてつもない諦めなさがどこから来るのかを考えると、最初に思い浮かぶのは、アルモドバル監督の『オール・アバウト・マイ・マザー』だ。あの団結力は、『オール・アバウト・マイ・マザー』を核をなす、「女たちの絆」に最も近い。映画の女たちは、互いが困っている・弱っているときにこそ、共感し助け合う。そこには利害感情がない。だからとてつもなく強い。
それは、名誉の意識がつなぐ男同士の絆とは、そもそもの出自が違う。女にもともと備わっているという本質的な要素ではなく、「女」として生きてきた環境によって持つにいたった要素であることを、『オール・アバウト・マイ・マザー』は示している。日本の女子サッカー選手の絆と不屈さも、存在が無視されていることを前提として生きる者たち同士の、絆と不屈に私には見える。私の日常で言えば、つきあいのある出版社の女性編集者たちにも、同じようなものを感じる。だから、彼女たちは一般に、男の社員よりも不屈だ。一般的には男の社員が最後には、「会社の方針なんで」と会社の価値観に自分を寄り添わせることを選択してしまうところを、彼女たちはできるところぎりぎりまで戦い続ける。
映画で言えば、溝口健二の『赤線地帯』なんかにもそれがある。そして、今、メキシコからそのような映画の秀作が登場した。23日からシネマート新宿で公開される『グッド・ハーブ』だ。
世の中の流れから少し外れて生きている母娘とその息子の物語。母ララはメキシコにアステカの時代から伝わる薬草の研究者。主人公である娘ダリアは、幼い息子を育てるシングルマザー。母ララが認知症を患うなか、娘ダリアはそれまで知らなかった母の歴史と向き合っていく。それは、自分自身と向き合う過程でもあった。
大きな物語が進展するわけではない。とても静かに、ゆったり、時間は流れる。ときおり映し出される植物の数々が、そのゆったりしたリズムの通奏低音を奏でる。その時間の中で、女たちがさまざまな会話を繰り広げる。
この静かな時間の、何と心地よいこと。日々、重苦しい何かに圧迫されている現在の私には、心底、ひと息つける時間だった。
最も美しいシーンのひとつが、ダリアが高齢の友だちであるブランキータ(この女優が素晴らしい!)の家の屋上で、仲間の女性も交えて3人でマリファナを吸いながら、おしゃべりの愉楽に浸りつつ、洗濯物を干す場面だ。『オール・アバウト・マイ・マザー』の、マヌエラ、ウマ・ロホ、ロサ、アグラードがおしゃべりを久広げる名場面を思い起こさせる。
マリファナと書いたが、ここで登場する薬草は、近代社会では麻薬の類とされるものも含まれる。それらは、メキシコの先住民文化では、世界秩序のひとつだったのだから。
この作品には、マリア・サビーナというおばあさんが何度も引き合いに出され、最後には映像が映る。幻覚キノコを扱う、実在した先住民の女呪術師である。欧米では、1960年代にこの人の存在がドキュメンタリーとなったことで、麻薬文化に火がつき、ヒッピームーブメントの原動力となった。ダリアはいわばヒッピームーブメント2世である。
私は、1992年にメキシコ留学中、オアハカという先住民文化の濃い土地に旅行したとき、たまたま知りあったアルフォンスというオランダ人から、マリア・サビーナのことを教えられた。そのドキュメンタリーである本を示され、これは素晴らしい本だから日本語に翻訳してみないか、と言われて読んだのだ。(当時のメキシコにはこういうオランダ人やドイツ人がゴロゴロしていて、いまだヒッピー文化のまっただ中にあった)。そして、幻覚キノコの儀式への仕様は厳密なカレンダーと掟によって決められていて、それを守らないとまったく儀式としての効果がないことが語られていた。
だからこの映画の醸し出す雰囲気が、懐かしい。大学にもヒッピー文化は色濃く残っていた。1990年代のメキシコはこんな感じだったよなあ、と思う。ある意味で、『アモーレス・ペロス』などような「男の子」映画よりも、メキシコっぽさを伝えていると思う。
監督はマリア・ノバロという女性。女性の生き方を、妥協なく落ち着いた視線で描く。私が住んでいた1991年には『ダンソン』という映画が高い評価を受けていた。私も何度か見て、深い感銘を受けた。主人公の女性(確かシングルマザーだったような)が、昔流行ったキューバの「ダンソン」というゆったりしたダンスを手がかりに、親の過去へと向き合うもの。と、書くと、『グッド・ハーブ』と似ている。
マリア・ノバロの映画がようやく日本で公開されて、本当に感激である。
映画のサイトはこちら。何であれ、疲れている人は、「グッド・ハーブ」を摂取してみると、落ち着くだろう。
それは、名誉の意識がつなぐ男同士の絆とは、そもそもの出自が違う。女にもともと備わっているという本質的な要素ではなく、「女」として生きてきた環境によって持つにいたった要素であることを、『オール・アバウト・マイ・マザー』は示している。日本の女子サッカー選手の絆と不屈さも、存在が無視されていることを前提として生きる者たち同士の、絆と不屈に私には見える。私の日常で言えば、つきあいのある出版社の女性編集者たちにも、同じようなものを感じる。だから、彼女たちは一般に、男の社員よりも不屈だ。一般的には男の社員が最後には、「会社の方針なんで」と会社の価値観に自分を寄り添わせることを選択してしまうところを、彼女たちはできるところぎりぎりまで戦い続ける。
映画で言えば、溝口健二の『赤線地帯』なんかにもそれがある。そして、今、メキシコからそのような映画の秀作が登場した。23日からシネマート新宿で公開される『グッド・ハーブ』だ。
世の中の流れから少し外れて生きている母娘とその息子の物語。母ララはメキシコにアステカの時代から伝わる薬草の研究者。主人公である娘ダリアは、幼い息子を育てるシングルマザー。母ララが認知症を患うなか、娘ダリアはそれまで知らなかった母の歴史と向き合っていく。それは、自分自身と向き合う過程でもあった。
大きな物語が進展するわけではない。とても静かに、ゆったり、時間は流れる。ときおり映し出される植物の数々が、そのゆったりしたリズムの通奏低音を奏でる。その時間の中で、女たちがさまざまな会話を繰り広げる。
この静かな時間の、何と心地よいこと。日々、重苦しい何かに圧迫されている現在の私には、心底、ひと息つける時間だった。
最も美しいシーンのひとつが、ダリアが高齢の友だちであるブランキータ(この女優が素晴らしい!)の家の屋上で、仲間の女性も交えて3人でマリファナを吸いながら、おしゃべりの愉楽に浸りつつ、洗濯物を干す場面だ。『オール・アバウト・マイ・マザー』の、マヌエラ、ウマ・ロホ、ロサ、アグラードがおしゃべりを久広げる名場面を思い起こさせる。
マリファナと書いたが、ここで登場する薬草は、近代社会では麻薬の類とされるものも含まれる。それらは、メキシコの先住民文化では、世界秩序のひとつだったのだから。
この作品には、マリア・サビーナというおばあさんが何度も引き合いに出され、最後には映像が映る。幻覚キノコを扱う、実在した先住民の女呪術師である。欧米では、1960年代にこの人の存在がドキュメンタリーとなったことで、麻薬文化に火がつき、ヒッピームーブメントの原動力となった。ダリアはいわばヒッピームーブメント2世である。
私は、1992年にメキシコ留学中、オアハカという先住民文化の濃い土地に旅行したとき、たまたま知りあったアルフォンスというオランダ人から、マリア・サビーナのことを教えられた。そのドキュメンタリーである本を示され、これは素晴らしい本だから日本語に翻訳してみないか、と言われて読んだのだ。(当時のメキシコにはこういうオランダ人やドイツ人がゴロゴロしていて、いまだヒッピー文化のまっただ中にあった)。そして、幻覚キノコの儀式への仕様は厳密なカレンダーと掟によって決められていて、それを守らないとまったく儀式としての効果がないことが語られていた。
だからこの映画の醸し出す雰囲気が、懐かしい。大学にもヒッピー文化は色濃く残っていた。1990年代のメキシコはこんな感じだったよなあ、と思う。ある意味で、『アモーレス・ペロス』などような「男の子」映画よりも、メキシコっぽさを伝えていると思う。
監督はマリア・ノバロという女性。女性の生き方を、妥協なく落ち着いた視線で描く。私が住んでいた1991年には『ダンソン』という映画が高い評価を受けていた。私も何度か見て、深い感銘を受けた。主人公の女性(確かシングルマザーだったような)が、昔流行ったキューバの「ダンソン」というゆったりしたダンスを手がかりに、親の過去へと向き合うもの。と、書くと、『グッド・ハーブ』と似ている。
マリア・ノバロの映画がようやく日本で公開されて、本当に感激である。
映画のサイトはこちら。何であれ、疲れている人は、「グッド・ハーブ」を摂取してみると、落ち着くだろう。
2011年7月28日(木) ― 2011-07-28
あさって30日の土曜日は、ライフリンク主催のトークイベント『メメント・モリ』に出演する。すでにチケットは売り切れているが、インターネットで生中継(ニコニコ生放送)されるとのこと。
同じく出演されるのは、『困ってるひと』で多くの人の心を揺さぶっている作家の大野更紗さん @wsary 。あさってを控えて、大野更紗さんのことを書いておきたい。
私が大野さんを知ったのは、昨年の春ごろ。ドキュメンタリー映画『ビルマVJ』を見て、ツイッター上で「ビルマ情報ネットワーク」 @BurmaInfoJapan をフォローして読んでいたところ、大野さんのつぶやきがリツイートされていたのだった。当時はまだ本名で書かれていていた。それで大野さんの他のつぶやきも読み始めたところ、夢中になってすべてのつぶやきを読んでしまったのだった。大野さんはまだ入院していらして、ご自身の病状や病院での日常を、ずっと関わってきたビルマについてのつぶやきとともに、詳細に書き記していた。そのリアリティたるや、まるで読んでいる私が入院生活を送っている感覚に陥るほど。(大野さんの過去のつぶやきはtwilogで読めます。)
私が魅了されたのは、その言葉だった。素晴らしい言語感覚で、置かれている日常の細部を記述し尽くそうとするものだから、私はその言葉に飲み込まれてしまった。大野さんがどんな病気なのかもよくわからないのに、心身を縛る一秒一秒の感覚が、こちらの感覚に迫ってくる。これまで想像したこともない、難病者のリアリティに初めて触れた瞬間だった。むろん、本当に理解し自分の感覚とすることはできない。ただ、言葉の力に喚起されて想像力のスイッチが入り、ほんのさわりを体験しただけだ。それでも、そこが、自分の頭では届かない他人に触れるための、よすがなのだ。
そのころの大野さんの文体は、今とはまた違っていた。私はあの文体が好きだった。大野さんの言葉は、本質的に詩だと、私は思っている。言葉で書き表せないことを、言葉が含んでいるからだ。
さらに、大野さんは他の難病の方々と、ツイッター上でやりとりをされていた。私はその方々のツイートも読むようになった。同じような難病者であっても、もちろん人それぞれで、さまざまな考え方や、日常の記し方があった。いずれも私が知らなかった日常であるが、複数の難病の方の日常を読み続けているうち、それが普通に存在しているこの社会の日常の一部として感じられるようになっていった。これは自分としては劇的な出来事である。自分がその中で生きている日本の社会を考えたり想像したりするとき、常にそのような立場の人の存在も頭に入ってくるようになったのだから。
それからほどなくして、大野さんは退院された。その経緯は『困ってるひと』に詳しい。余談だが、私には車椅子の障害者の叔父がいたが、その叔父が、病院や施設ではなく、地域社会に入って自分で生きることにものすごくこだわっていた。選択肢を持つこと、それを自分で選ぶこと、それが自分の意思を持つことにつながること、そのことに強いこだわりを持ち続け、そういう社会を作ることに、八王子で執念を燃やしてきた。
大野さんは、退院されてからも、退院後の日常生活の細部を、ものすごい勢いで書き続けられた。日々の食事、読んだもの、見た映画、病院とのやりとり、薬の仕分け、ヘルパーさんのこと、車椅子申請の気の遠くなるような手続き……。それらが、難病者として一人で生きることの感触を、つぶさに伝えてくる。中でも私が印象的だったのは、大野さんのご両親が送ってくる野菜だった。大野さんのお母さんが、収穫した野菜に手書きでメッセージを添えている写真には、胸を衝かれた。大野さんにこれだけの気持ちの強さがあるのは、こんなご両親に囲まれて育ったという環境もあるのだなあ、と感じた。だから、原発の事故があったときに私が想起した人々の中には、大野さんのご両親のこともあった。
そして、『困ってるひと』の連載開始である。あれだけの言葉の書き手なのだから、何かまとまったものを書いてほしいと思っていたし、懇意の編集者も大変に関心を示していたから、やがては……なんて私も考えたりしていた。そうしたら連載が始まったので、待ってましたという気分である。
そこでようやく、私も大野さんの病や置かれている実情の全体像を知ったのだった。大野さんはそれを、それまでのツイッターでの文体とはまるで違った文体で書き始めた。これにも度肝を抜かれた。何という多彩な言葉の使い手。この本について感じたこと学んだこと得たことは限りないが、中でも私にとって強烈だったのは、4章である。ここで書かれていないことに、読みながら言葉を失った。そして、病院の先生たちのやりとりから焦点を結んでくる、医療の文化の問題。大野さんが現在、生存を賭けて最も戦っていることである。
『困ってるひと』から読み手は間違いなく力をもらうだろう。そのもらった力を、今度は少しお返ししようではないか。大野さんは、表現者として、全身全霊で「難病者」というカテゴリーを作り、自分の身をさらすことで認知させている。「難病者」は私たちの生きる社会のあちらこちらで生活を送っているし、何よりも、私たちは全員が難病者予備軍である。生きているかぎり、難病になる可能性は誰でもいつでもはらんでいる。だから、難病者が社会からこぼれ落ちずに生きられるように、そのような制度が可能になるように、難病者の存在を常に意識のどこかに置いておくよう、『困っているひと』を読んで得た力を少しそちらへ振り分けようではないか。
同じく出演されるのは、『困ってるひと』で多くの人の心を揺さぶっている作家の大野更紗さん @wsary 。あさってを控えて、大野更紗さんのことを書いておきたい。
私が大野さんを知ったのは、昨年の春ごろ。ドキュメンタリー映画『ビルマVJ』を見て、ツイッター上で「ビルマ情報ネットワーク」 @BurmaInfoJapan をフォローして読んでいたところ、大野さんのつぶやきがリツイートされていたのだった。当時はまだ本名で書かれていていた。それで大野さんの他のつぶやきも読み始めたところ、夢中になってすべてのつぶやきを読んでしまったのだった。大野さんはまだ入院していらして、ご自身の病状や病院での日常を、ずっと関わってきたビルマについてのつぶやきとともに、詳細に書き記していた。そのリアリティたるや、まるで読んでいる私が入院生活を送っている感覚に陥るほど。(大野さんの過去のつぶやきはtwilogで読めます。)
私が魅了されたのは、その言葉だった。素晴らしい言語感覚で、置かれている日常の細部を記述し尽くそうとするものだから、私はその言葉に飲み込まれてしまった。大野さんがどんな病気なのかもよくわからないのに、心身を縛る一秒一秒の感覚が、こちらの感覚に迫ってくる。これまで想像したこともない、難病者のリアリティに初めて触れた瞬間だった。むろん、本当に理解し自分の感覚とすることはできない。ただ、言葉の力に喚起されて想像力のスイッチが入り、ほんのさわりを体験しただけだ。それでも、そこが、自分の頭では届かない他人に触れるための、よすがなのだ。
そのころの大野さんの文体は、今とはまた違っていた。私はあの文体が好きだった。大野さんの言葉は、本質的に詩だと、私は思っている。言葉で書き表せないことを、言葉が含んでいるからだ。
さらに、大野さんは他の難病の方々と、ツイッター上でやりとりをされていた。私はその方々のツイートも読むようになった。同じような難病者であっても、もちろん人それぞれで、さまざまな考え方や、日常の記し方があった。いずれも私が知らなかった日常であるが、複数の難病の方の日常を読み続けているうち、それが普通に存在しているこの社会の日常の一部として感じられるようになっていった。これは自分としては劇的な出来事である。自分がその中で生きている日本の社会を考えたり想像したりするとき、常にそのような立場の人の存在も頭に入ってくるようになったのだから。
それからほどなくして、大野さんは退院された。その経緯は『困ってるひと』に詳しい。余談だが、私には車椅子の障害者の叔父がいたが、その叔父が、病院や施設ではなく、地域社会に入って自分で生きることにものすごくこだわっていた。選択肢を持つこと、それを自分で選ぶこと、それが自分の意思を持つことにつながること、そのことに強いこだわりを持ち続け、そういう社会を作ることに、八王子で執念を燃やしてきた。
大野さんは、退院されてからも、退院後の日常生活の細部を、ものすごい勢いで書き続けられた。日々の食事、読んだもの、見た映画、病院とのやりとり、薬の仕分け、ヘルパーさんのこと、車椅子申請の気の遠くなるような手続き……。それらが、難病者として一人で生きることの感触を、つぶさに伝えてくる。中でも私が印象的だったのは、大野さんのご両親が送ってくる野菜だった。大野さんのお母さんが、収穫した野菜に手書きでメッセージを添えている写真には、胸を衝かれた。大野さんにこれだけの気持ちの強さがあるのは、こんなご両親に囲まれて育ったという環境もあるのだなあ、と感じた。だから、原発の事故があったときに私が想起した人々の中には、大野さんのご両親のこともあった。
そして、『困ってるひと』の連載開始である。あれだけの言葉の書き手なのだから、何かまとまったものを書いてほしいと思っていたし、懇意の編集者も大変に関心を示していたから、やがては……なんて私も考えたりしていた。そうしたら連載が始まったので、待ってましたという気分である。
そこでようやく、私も大野さんの病や置かれている実情の全体像を知ったのだった。大野さんはそれを、それまでのツイッターでの文体とはまるで違った文体で書き始めた。これにも度肝を抜かれた。何という多彩な言葉の使い手。この本について感じたこと学んだこと得たことは限りないが、中でも私にとって強烈だったのは、4章である。ここで書かれていないことに、読みながら言葉を失った。そして、病院の先生たちのやりとりから焦点を結んでくる、医療の文化の問題。大野さんが現在、生存を賭けて最も戦っていることである。
『困ってるひと』から読み手は間違いなく力をもらうだろう。そのもらった力を、今度は少しお返ししようではないか。大野さんは、表現者として、全身全霊で「難病者」というカテゴリーを作り、自分の身をさらすことで認知させている。「難病者」は私たちの生きる社会のあちらこちらで生活を送っているし、何よりも、私たちは全員が難病者予備軍である。生きているかぎり、難病になる可能性は誰でもいつでもはらんでいる。だから、難病者が社会からこぼれ落ちずに生きられるように、そのような制度が可能になるように、難病者の存在を常に意識のどこかに置いておくよう、『困っているひと』を読んで得た力を少しそちらへ振り分けようではないか。