野間新人賞 選評(ロングバージョン)2018-12-06

 群像2019年1月号に、野間新人賞の選評を書きましたが、字数が少なくていつも候補作の書き手たちに言葉を尽くせず申し訳ない思いを持っていたので、今年は長めの選評を書いてブログに載せることにしました。

 作品の強度がほぼ同等の5作品だったため、優劣がつけがたかった。
 古谷田奈月『無限の玄/風下の朱』は、タイトルでもわかるとおり、二作品で大きな一つのテーマを扱っている。「無限の玄」は男同士の支配被支配の構造、つまり男性ジェンダーは男性をも抑圧しているという力の働き方に迫ろうとしている。「父殺し」を描いたのではなく、「父殺し」という定型がなぜいつまでも存続し続けるのかを、探ろうとしている。女性ジェンダーの側に置かれている書き手が、他者である、男性ジェンダーに縛られる男を描くことは、大きな跳躍が必要であり、その跳躍を実現する力が、死んだ父親が毎日生き返るという秀逸な設定を生み出したのだと思う。奇妙な親和の感覚に、グロテスクなリアリティがある。対する「風下の朱」は、女性ジェンダー化された者たち同士の抑圧を描くが、その抑圧の源は、女性たちの中には存在しない。その理不尽さが表象されるのは、近代化以降繰り返されてきた、「生理を持つ女の病んだ身体性」である。男性ジェンダーの抑圧と葛藤し続けてきた身としては、前者の作品には共感と受け入れがたさの両方を受け取り(この作品世界の中では最終的に私は絶望し無力感に打ちひしがれるしかない)、後者の作品には共鳴して涙ぐんでしまいさえした。それは、前者の作品が言語化できない部分に触れていることを意味し、後者の作品は、切実だけど物語の定型に収まっているところがあることを示している。この作品を私は二番目に推した。
 木村紅美『雪子さんの足音』は、今でいう「毒親」のテーマ、すなわち子どもを支配し続ける母親を、疑似家族にまで広げたもので、まさに今書かれるべき重要な作品。私には、小野寺さんの卑屈になった恨みがましさをもっと展開しても良いように思えた。しかし、視点人物の薫がぼやけた存在であること(受け身な人物だとか判断が自分でできない人間といった設定なら、そのようなことをもっと示す細部が必要だが、それがないため、薫がどんな人間なのか、感触が伝わってこない)、三人称で書いているにもかかわらず一人称に感じられることなどにより、まだ完成作品となる途上にあるように思えた。
 町屋良平『しき』は、登場人物たちの心情や身体感覚を、手垢のついた言葉ではない文章で書くことで、なんとか表現しようと格闘している。言葉を更新することで表現を内実のあるものに作り直すのは文学の重要な役割であり、それに挑む姿勢は素晴らしい。ただ、描く対象への疑いが少し足りないように感じた。このため、どこか世の常識に寄りかかっているように感じられる部分があった。そこまで疑いを突き詰めたとき、初めて言葉で表現することの不可能性に突き当たり、そこから言葉の更新は始まるのではないだろうか。
 対照的に、金子薫『双子は驢馬に跨って』は、表現の可能性を信じていない。双子、英雄譚、放浪譚、謎解きといった物語の定型と、紋切り型のフレーズ(「いわゆる家族の絆ってやつがある」「おまえは自慢の息子だ」)ばかりなのに、それらの断片が金子薫の記述によって並べられたとたん、定型、紋切り型としての命を奪われる。定型や紋切り型が本当は空虚なのに意味があるかのように機能してしまう中で、金子薫のテキストの中では、その機能を止める。何も意味しないし、表現しない。その結果、この小説世界は現実から完全に浮遊し、自律する。この小説内で使われる言葉は、この小説内での独自の文法、言語体系として、現実の日本語体系とは微妙に異なる新しい言語をなす。この風通しのよさが、読んでいて無性に心地よかった。今のヘヴィーな現実を支配する物語に捕まらないために、これからはこういう小説も必要なのかもしれないと思った。私は本作を一番に推した。一点、最後に「オーナー」というもう一段メタレベルの存在を出すことで、この世界の力の構造にヒエラルキーが出て、遠近法が召喚されてしまったのは、ややもったいない。
 乗代雄介『本物の読書家』も、金子作品と同様、表現を安易に信じてはいない。書き手にとって、読むことは書くことであり、すでに書かれた言葉群から引用という記述を通して現在を可視化する。私も基本的には同感なのだが、どうしても1980年代から90年代に盛んだった思考をたどり直している、という段階に留まっているように思えてならなかった。それが流行だった時代にこういう作品を書くことと、そういう言説は過去のものと思われている現在に書くことでは、意味が違うことはもちろんわかるのだが、それでもこの30年を経ての読む書くをめぐる認識のバージョンアップは必要で、私にはその点がまだ不足しているように思えた。例えば、日本語ネイティブでない者にとっての読む書くとか、非識字者にとっての読む書くとか、そういったことが眼中に置かれていない「読む書く」の認識は、既得権の復権につながる懸念がある。引用される言葉がもっと広範囲の選択肢の中から選ばれて、書き手が自分から遠い言葉に侵食されて他者となったとき、初めて「読む」と「書く」はシンクロした瞬間が現れると考える私には、まだ「書く」に到達していない部分があるように思えた。そのことは、引用の枠となる物語部分の保守性にも現れている。私はこの作品もまだ作品となる前の途上にあると思った。