参議院選について2016-07-10

 参議院選がいかに大切かについて、書きます。
 憲法改正がかかっているという意味でももちろん大切なのですが、私はより根本的な意味から、参議院議員がいかに必要かを感じています。
 それは自殺対策支援を見てきたからです。一般的には派手な政策ではなく、あまり知らない人も多いと思いますが、自殺者がこのところ減少しているニュースは見たことのある人も多いでしょう。
 これは政治が動いたからです。そして、それを動かした中心は、参議院議員たちなのです。
 まず、政治が動いたというのは、自殺対策基本法という法律を、10年前に議会が作ったことです。この法律では、自殺は個人の問題ではなく、社会的な要因が引き起こす、追い込まれた末の死であり、行政はそれを防ぐための措置を取らなくてはならない、ということを明記しました。
 行政は法律に縛られ法律で動くので、自殺対策基本法ができたことで、自殺対策をしなければならなくなったのです。その成果が少しずつ出ているわけです。
 今年は、この法律が成立してから10年で、法律の足りないところもはっきりしてきたため、より具体的に突っ込んだ法律とするよう、改正されました。
 これらすべては、官僚主導ではなく、議員が動くことで、官僚の理解も進み、この法案と政策に文字通り命をかける官僚と一緒になって、実現したことです。
 政治家に働きかけたのは、民間で自殺対策支援をしている人たちです。10年前には、民主党の故・山本孝史参議院議員が民間の現場を知り、各党各会派の議員に呼びかけ、賛同した議員が党利党略を超えて超党派の議員連盟「自殺対策を推進する議員の会」を作り、議員立法として成立させました。
 今年の改正法案も、同様に超党派の議員連盟が精力的に動いて、成立にこぎつけました。
 専門性を持つ民間と政治家と官僚とが、よい形で連携し、民主党政権であろうが自民党政権であろうが、変わらずに自殺対策を進められたのです。
 なぜ、超党派の議員が協働できたのか、私は気になっていましたが、「自殺対策を推進する議員の会」の自民党議員は、「参議院だからできた」と言っていました。解散のある衆議院では、どうしても政局に支配されてしまう。党利党略に距離を置くことが難しくなる場合も多いが、参議院はそこから距離を置くことができる。加えて良識の府であるという自負もある。
 現状のような強大な与党が揺るぎない状態にあっては、党派を超えて政官民を連携させた自殺対策のような方法は、実際の制度を変えていく上で、私は唯一と言ってもいいぐらい重要なやり方ではないかと思います。
 差別・ヘイトスピーチを禁じた反ヘイト法が成立した過程にも、似た要素が多々あったと思います。
 政局に左右されず、党派にとらわれずに立法にこぎつけうるという点で、参議院議員は大切な機関なのです。地味かもしれないが、現実の政治は地味なことの積み重ねで行われます。それが、制度をよりよく変えるための唯一の方法です。
 まずは参議院議員の選挙で投票することが、その一歩です。少しだけ労力をかけて、投票所に足を運んでください。見えないところで、少しずつ変わっていくかもしれないのだから。

都知事選について2016-07-18

 都知事選、これまで黙ってきたけれど、書くだけ書いておく。
 私は今回の知事選は認めたくないという気持ちでいる。辞任には値しない理由で知事を辞任に追い込んで、有権者自身に何の利益があるのだろうか。
 私は舛添知事の都政を、それなりに評価している。舛添憎しの人は、タカ派言論人時代の発言をやり玉に挙げて、ボロクソに言っていたが、都知事になってからの舛添氏は、極右化の時代にあって、むしろリベラルに感じさえするほどの言動だった。前回の都知事選では私は宇都宮氏に投票したが、舛添氏が当選したとき、次善の結果だなと思った。実際、知事になってすぐ、ヘイトスピーチは許されないとはっきり明言したし、ホームレス襲撃事件にも許されないことだと批判した。今や、それらの暴力に対し、ゴーサインを出すかのような態度を取る政治家や首長が少なくない中で、舛添知事の姿勢は明確で評価されるべきものだった。ただ、ヘイトスピーチを禁じる条例制定には消極的だったり、行政として制度で対応していくと言っていた貧困対策は不十分だったり(特に住宅政策はもっと現場に耳を傾けてほしかった)と、批判したい点もあったが、それは任期半ばで辞任させるという話ではない。
 また、都有地を韓国人学校に貸し出すことを決めたことも、特筆に値する。まさに、この時代の悪い流れを断ち切ろうとする決断だった。だが、これも辞任によって白紙になってしまう可能性が高くなっている。
 そして何より、森喜朗の言いなりにならず、オリンピックの費用を激減させたこと。他のどんな知事が、あの強権に対してここまでできただろうか。金にケチだというなら、ケチだからこそできたことではないか。この難しい案件で都の官僚、議会をコントロールする行政手腕は政治家として有能な証だし、舛添知事の功績として最大の評価を与えてよいと思う。
 私も、言論人時代の舛添氏は、大嫌いだった。その見方が変わったのは、厚生労働大臣の時だ。労働行政は芳しくなかったけれど、少なくとも厚生の分野では、生来の優秀な官僚になりうる能力を発揮し、かつ官僚を抑える政治家としての力量も見せ、労を惜しまず現場からの声を聞き、案外とよい行政を行ったと思う。タカ派的言動が鳴りを潜めてきたのもそのころからだった。そこには、親の介護体験も大きく影響していただろう。
 舛添氏の金の問題を等閑視してよいとは私も思わない。態度に傲慢なところがあるのもいただけない。だが、議会を通じて糾せば済むレベルの話ではないか。それをよりよい政策実現の駆け引きに使うなりすればよいではないか。政策に賛同できないのであれば、次の選挙で落とせばいい。
 結局、ほとんど誰も舛添氏の行った政策を見てないのだなと思う。この非難の嵐の間、政策をある程度検証したうえでの批判など、皆無だった。生活保護バッシングと何も変わらない。叩いてよい対象となったから、叩いただけだ。そして、その暴力の欲求は、相手が降参するまで追い詰めないと、収まらない。
 こんなことで、政治が成熟するわけがない。湯浅誠さんが言うように、政治は結果だ。どんな政策を実行できたかが大切で、その政治家を好きだとか嫌いだとかは、そのあとで考慮すべき要素なのだ。私だって人としては好きではない。でも、気に食わないから辞めろと言えるのは、自分たちが政治に参加して責任を負っているという意識が希薄だからだ。
 それでも相手を打ちのめしたい衝動を抑えられないのは、その当人の傷ついたアイデンティティの問題だと、私は感じている。そして、有権者が自分のアイデンティティの問題を政治に持ち込むのは、大いに気をつけるべきだと思っている。これはこないだの参院選や各種のデモについても思う。集団的熱狂にアイデンティティを置き過ぎ、自分の心の拠り所としてしまうと、その外部が見えなくなり、外部の人たちの考え方が許せなくなる。これは自分にもその傾向があるから、自戒を込めて言っている。
 舛添知事の都政は、この極右化、ポピュリズム化する社会の中で、防波堤的存在になっていたと思う。舛添氏が辞めることで得をするのは、リベラルではなく、極右化を希求する人たちだ。
 原発の反対運動は80年代までに原理主義化して、自分たちの理想以外の声を許さなかったがゆえに、マジョリティの関心を失い、気がつけば54基もの建設を許してしまった。リベラルな人たちは同じ過ちを繰り返そうとしているとしか、私には思えない。
 この都知事選の結果がどうなるのか。私は、後悔してもしきれない結果も大いにありうると思っている。
「都知事選、小池氏が序盤先行 鳥越・増田氏が追う」
 野党共闘で出た鳥越氏も、ジャーナリストとしては尊敬しているが、青島都知事の例を思い返すと、都政というのは一筋縄でいくものではなく、大丈夫だろうかという心配ばかりが先立つ。何だか、あのときと似ているのだ。
 5年で4回の都知事選という異常事態の中(いったい幾らかかっているのだ)、世のバッシング欲のために行うことになったこの選挙を、私は受け入れたくない。だが、選挙権を空洞化させたくもないので、投票には行く。自分たちで政治を壊している証としての選挙なのだと記憶しながら。

大相撲、立ち合い正常化の問題2016-07-25

 「立ち合い正常化」という名目の、相撲の破壊について。
 それは八角理事長体制の始まった、5月場所に起こった。
 審判部も一新され、「立ち合いの正常化」を掲げて、立ち合いに両手をつくことを厳しく注意し始めた。
 3日目の、大栄翔対大砂嵐戦だった。
 大栄翔がしっかりと手をついていい立ち合いをし、立ち遅れた大砂嵐を一方的に押し出した。ところが、友綱審判長が、大砂嵐がきちんと両手をついていなかったとして、立ち合い不成立をアピールしていたのだが、行司が見落として続行させたということで、取り直しを命じた。納得がいかないのはきちんと立ち合いをした大栄翔だろう。そんな気持ちでは、すぐに切り替えて集中するのは難しい。2度目の立ち合いはうまくいかず、大砂嵐にあっさりと負けた。
 大栄翔ー大砂嵐戦
 私もまったく納得がいかなかった。どうしていい立ち合いをしたほうが、損をしなければならないのか。
 立ち合いは成立したとみなして勝負を進めた行司も、恥をかかされた。この取り組み以降、行事はこんな目に会うのはたまらんとばかりに、独自の解釈でしばしば、いい立ち合いの取り組みを途中で止め、やり直しをさせた。
 問題は、審判部が何をもってしてやり直しと判断すべきなのか、明確な基準を提示しないことである。このため、戦々恐々としている行司は、てんでバラバラの対応を取る。明らかに両手ともついていない松鳳山や琴勇気の立ち合いはしょっちゅう見逃される一方、優勝の行方を左右するような一番で、ほぼ手はついているのだから目くじらをたてるべきではない勝負を、やり直しさせたりする。
 立ち合いは、両者の呼吸が一番大事である。だから集中力も最も高まる瞬間である。手をついているかどうかについては、ある程度の幅があっていいはず。手をついたかどうかよりも、集中して両者がいい立ち合いをできるかどうかが、力士に取ってもお客さんにとっても、最重要なこと。それをもってして土俵の充実というべきだ。
 だが、今の審判部は、言い出してしまった強権を維持し、審判部の面子を損なわないことにばかり頭がいって、お客さんのことも力士のことも二の次になっているように見える。まるで、旧帝国軍の司令部みたいだ。
 その結果が、今場所のわけのわからないやり直し続出だ。特に、優勝のかかる千秋楽の白鵬対日馬富士戦、14日目の日馬富士対豪栄道戦、稀勢の里の綱がかかる白鵬対稀勢の里戦。それに13日目の白鵬対照ノ富士戦。
 ファンをバカにしているのかと言いたい。2度目の立ち合いで集中力の落ちた取り組みを、優勝のかかっている最後3日に何番も見せられて、私はすっかり白けてしまった。相撲の魅力をことごとく損なってくれた。力士にも失礼きわまりない。両者が全神経を高めている立ち合いの瞬間は、一種神聖な時間だ。それを自分たちの権威のためだけに軽々にやり直しさせるような権限は、審判にもない。何様だと思っているのだろう。これ以上、この状態を続けると、審判部が勝負の行方を決めていると疑われることにさえなりかねない。気にくわない行方になったら、やり直しさせればいいのだから。
 立ち合いの正常化自体は私も賛成だが、こんな異常事態は、40年近く相撲見てきた中でも、経験したことがない。審判部は謙虚になって、相撲を破壊するこの姿勢を改めるべきだ。
 千秋楽に、NHKの藤井アナウンサーがこの状態に疑問を呈した。大変勇気ある発言だと思う。鋭い踏み込みから理詰めの攻めを見せ続けた嘉風の相撲のような、会心の発言だった。私の敬愛する北の富士さんも同意し、基準を示すため場所後に講習会をするべきだと提案していた。八角理事長に一考を願いたい。