2016年6月29日(水)2016-06-29

 聾者の音楽を描いた『LISTEN リッスン』をようやく見た。別世界の体験だった。そこは、音声言語とは違う日本手話という言語を使う聾文化という異文化の中でも、最もコアにして前衛である表現の世界だったから。
 聾者にとって音楽がどんな概念なのか、聾者の作り手たちはこの映画を撮りながら模索した。それはあることはわかっているのに、まだ確実に捉えられてはいない表現なのだ。それは手話詩から始まった。手話の動きと、そこから派生していくような体の動き、さらには踊りとなっていく動き。動きの中には、手話の言語の一部である「顔の表情」も含まれる。さまざまな微細な動きが手話を構成するトーンなのだが、それらが言語という形から飛翔して、音楽という表現になろうとする。
 この映画は、耳栓を渡され、無音のまま見る。しばしば耳栓を使う難聴の私には、少しは慣れていることだけど、やはり視覚だけで世界を眺めるのは異質な体験である。手を特徴的な動きとしながら、全身で言語にならない感覚を表していくのを見ているうち、私は小刻みに眠りに落ちた。手が、まるで催眠術師のもののようなのだ。冗談でなく。
 映画を見て眠ることはしばしばあるけれど、この映画での睡眠は、まったく新しい経験だった。同じ映画館の中に、いるはずのない人がいて、その人が動いているのを幻視したり(もちろん夢だけど)、知らないストーリーと結びついて言葉が聞こえてきたりと、幻覚幻聴がたくさん訪れたのだ。普段使っている聴覚をシャットアウトしたら、体が何かを補おうとしたのかもしれない。そして、それはスクリーンに映っている聾者の動きと連動しているのだ。こんなにまで無意識を解放された映画はなかったかもしれない。
 見ながら連想していたことの一つは、ピナ・バウシュだった。何か受ける感じに共通しているところがある。と思ったら、パンフレットの中で牧原監督がこんなことを言っていた。
「ピナ・バウシュ舞踏団の作品の中に手話を表現するところがあります。私は最初、それが手話を表現しているとは知らなかったんですが、観ていて「あれ? これ手話が入っているなぁ? どうして?」とびっくりしたんです。顔の表情や身体の動き、空間の間の使い方などから「これは手話っぽいぞ」と。その後調べたら、やはりそれは手話だということが分かったんです。でも、聴者にはそれが分からない人が多いらしいんです。分かる人には分かるらしいんですが。聾者にははっきりと分かる。ピナさんはやはりすごすぎますね。普通の人には無理。手話を聴者的表現として使用してしまう。」
 ピナさんはすごすぎるのである。
 15人の出演者の大半は、聴者の学校に通ったことのない、ずっと聾学校で育ったのが12人。そのうち半数が、親も聾者のデフファミリーだという。たまたまだったのだが、要は、「聾者のアイデンティティがしっかりとある人の方がより自分としての”音楽”を表現できる人が多かったと。『聾者の音楽』というテーマなので、やっぱり手話を獲得していて『自分は聾であるんだ』というものがないと、表現が聴者のものになってしまう。」(牧原監督)ということなのだ。これは見ていてもなんとなく感じた。
 もう一つ連想したのが、ソケリッサ。ホームレスの独自のダンスだが、リーダーの青木さんが舞踏の人なので、『LISTEN』でも重要な表現をする舞踏家の雫境(だけい)さんと重なったかもしれない。ソケリッサも、自分の体のリズムの表現なので、音という枠に縛られない音楽に私には見える。踊りと音楽の中間にあるというか。踊りには完全になりきれないからこそ音楽になっているというか。
 この映画を観る人は斉藤道雄・著『手話を生きる』という本も読むと、この聾者の音楽表現の意味がよくわかるようになるだろう。私もこの本を読んで以来、聾者の文化にものすごい吸引力で引かれつつあるのだ。私は難聴になってから、聴者の世界のフチを知り、そこから足を踏み外しかけているのだが、聾者でもないので、聾文化を理解できることはない。特に、ネイティブの聾者の文化は、最近になってようやく可視化され、自身たちも意識することでアイデンティティとすることが可能になってきた中で、その豊かさ奥深さに目がくらみそうになる。本当にはわからなくても理解したいという熱望が、私を襲う。
 今思うのは、これを生で見たいということだ。
 映画『LISTEN リッスン』公式サイト