政治について ― 2022-07-26
政治について。
選挙のたびに、だいたい民主党、立憲民主党に投票している。けれど、もう何年も、投票するたびに罪悪感を抱いている。なぜなら民主党は、特に立憲民主党になったあたりからは明確に、自民党政治の補完勢力だとしか思えなくなったから。もはや本気で政権交代を目指すことなく、「政権を担いうる自民党以外」という選択肢を、ただただ消滅させていくだけの勢力としか、感じられないからだ。この党に投票し続けることは、自民党政権を延命させる補完勢力に加担している、という気持ちになる。気持ち、ではない、事実そうなのだ。
立憲民主党が自民党政権の補完勢力であると感じる最大の根拠は、安倍政治に対する正確な分析がまるでできていないことである。特にその根幹をなす経済政策、アベノミクスの評価だ。アベノミクスのせいで経済は悪くなった、格差は開いたと批判し続けてきたが、事実はまったく違う。
たとえば、このブログを読めばわかる通り、「失われた30年」をようやく終わらせることができたのは、アベノミクスによるものだ。(このブログでは今の円安に対して金利引き上げをするのはなぜおかしいか、についても詳細に解説してあります。一読の価値あり)
https://note.com/gyamaguchi/n/nfe629f91d172?fs=e&s=cl
解説されているようにデータがはっきり示しているだけでなく(これを統計の改変と思う人は、ほぼネトウヨと同じ思考方法だと疑ったほうがいい)、私はこの社会の中間層のマジョリティの人々から、経済が良くなり自分の経済状態も上向きに安定していることをいろいろ聞いた。新卒の雇用が良いことも聞いた。もちろんコロナ前だが。アベノミクスを批判するリベラルな人たちの耳には、その人たちの声は入ってこない。
安倍政治で問題だったのは、社会福祉政策と貧困対策、人権政策だ。この問題のターゲットになる人たちに対しては、徹底して冷たかった。そして、ヘイトスピーチを容認するかのような態度をとったことで、この社会にヘイトとは言った者勝ちという文化を定着させたこと、他人の意見を聞かず強権的に組織を運営することをよしとした結果、日本中のごく小さな組織までもが強権的運営をするようになったこと。
問題は書ききれない。私だってテレビで安倍総理の顔を見るのも声を聞くのも嫌だった。けれど、だからこそ、本気で政権交代を実現させることでしか、あの首相を引きずり下ろすことはできないと思ったし、そのためには、安倍政治がなぜあんなに支持され、選挙で勝ち続けられるのか、正確に分析する必要があると思った。そしてそれがアベノミクスの成功によるものであることは、そう理解の難しいことではないように思えた。
安倍政治の経済政策は、ごくまっとうなマクロ経済政策で、これは左派の政治が行うものだと私は学んだ。民主党の経済政策は、財政均衡を求める規律政策で、財務省が強固に求めている超保守派の経済政策だ。数年前にEUのスペイン、イタリア、ギリシアで財政危機が起きたとき、財政均衡を条件とするEUはドイツが中心となって厳しい緊縮財政策を求めた。これは貧乏人に対し、借金をしてでも助けてやる、のではなく、借金を返したら助けてやる、といってる政策で、苦しい人たちからさらに搾り取るやり方だった。猛反発がそれぞれの国で起こり、急進左派ポピュリズムの勢力が台頭した。ギリシアのチプラス首相、スペインのポデモスなど、緊縮財政策に反対し、積極材政策を訴える勢力である。
赤字国債がほぼ国内で購入されている日本と、対外債務が巨額な南欧の諸国とでは、経済政策も変わってくるが、いずれにせよ、財政均衡策は、ケチな金持ちがさらに庶民から吸い上げて貯金を貯め込むような政策であり、金の流れを停滞させることで金のある人間がより生殺与奪券を持つようになる、特に経済的弱者に非常に冷酷な経済政策だ。
アベノミクスはその反対の政策であり、民主党が掲げてきたのはこの、中間層にも弱者にも冷酷な経済政策である。私には、民主党が敗北し続けた原因は明白に思える。
何年か前に、「リベラル懇話会」というリベラルな立場の学者の有志が、民主党と勉強会を行い、経済政策についてもマクロ経済政策の重要性をレクチャーしている。
https://libekon.wordpress.com/
が、当時の民主党はこれを自分たちの政治にまったく反映させなかった。私としては、民主党が自民党の補完勢力に成り下がってしまったのは、このときだったと思っている。変われる最後のチャンスを逸してしまった。あの時点で、民主党はもう、安倍政治に負け続ける一本道を選んでしまった。
立憲民主党の掲げる人権政策はどれも必要だし、その専門的な能力を持つ立憲の議員も国会には居続けてもらわないとならない。だから、私も投票して無駄だったとは思っていない。
けれど、私は自分のアイデンティティのために投票はしない。政治で大事なのは、その政党が好きとか嫌いとか、その政治家を尊敬できるとかできないとか関係なく、少しでもマシな制度を作って運用してくれることだ。民主党はアベノミクス以上にしっかりしたマクロ経済政策を訴えて、世のマジョリティの票も集めることに精力を注ぐべきだった。そうすれば、政権交代は可能性を増し、掲げている人権政策を遂行する機会も得られた。
しかし、自分たちを支持してくれるリベラル層の夢にどっぷり浸かり、共産党との選挙協力という毒まんじゅうに手を出した。支持政党のない中道のマジョリティから目を背け、ジリ貧の左派政党同士で組むことを選んだ。こんな見事な補完勢力ぶりはあるだろうか。自民党に投票する中間層からは、票を奪おうとしないのだから。
もはや民主党は小政党への道まっしぐらである。嫌いな安倍の政治はロクでもないものに決まっていると決めつけ、安倍政治の成果から目を逸らした。民主党も、そこにアイデンティティを委ねた支持者たちも、自分たちの見たくないことを見ないできたのだ。私はそれを希望依存症と呼んでいるが、現実を見たいようにしか見ないという意味で、それは歴史修正主義者たちと同じメンタルの構造にあると思っている。これをカルト状態という。
安倍政治を止めてより良いものにするためには、敵を正確に知らなくてはならなかった。敵の強みと弱点を、正確に見極めなければならなかった。なのに、「おまえの母さんデベソ」と言っていれば勝てるかのような態度を取り続けた。
私がこんなことを言うのは恐ろしいが、維新やN党や参政党の台頭するなか、政党政治が崩壊していくことの歯止めは安倍元首相となってしまっていた。その意味がどれほど深刻か、民主党は受け止められなかった。この人が亡くなった今、自民党はどこまで持ちこたえられるか。ほどなく、より最悪な政治家が権力を持つことになるかもしれない。それは政党政治のふりをしながら、実際はそれを崩壊させる勢力となるだろう。
追記・ナチスのくだりは乱暴すぎる論でしたので、削除しました。
選挙のたびに、だいたい民主党、立憲民主党に投票している。けれど、もう何年も、投票するたびに罪悪感を抱いている。なぜなら民主党は、特に立憲民主党になったあたりからは明確に、自民党政治の補完勢力だとしか思えなくなったから。もはや本気で政権交代を目指すことなく、「政権を担いうる自民党以外」という選択肢を、ただただ消滅させていくだけの勢力としか、感じられないからだ。この党に投票し続けることは、自民党政権を延命させる補完勢力に加担している、という気持ちになる。気持ち、ではない、事実そうなのだ。
立憲民主党が自民党政権の補完勢力であると感じる最大の根拠は、安倍政治に対する正確な分析がまるでできていないことである。特にその根幹をなす経済政策、アベノミクスの評価だ。アベノミクスのせいで経済は悪くなった、格差は開いたと批判し続けてきたが、事実はまったく違う。
たとえば、このブログを読めばわかる通り、「失われた30年」をようやく終わらせることができたのは、アベノミクスによるものだ。(このブログでは今の円安に対して金利引き上げをするのはなぜおかしいか、についても詳細に解説してあります。一読の価値あり)
https://note.com/gyamaguchi/n/nfe629f91d172?fs=e&s=cl
解説されているようにデータがはっきり示しているだけでなく(これを統計の改変と思う人は、ほぼネトウヨと同じ思考方法だと疑ったほうがいい)、私はこの社会の中間層のマジョリティの人々から、経済が良くなり自分の経済状態も上向きに安定していることをいろいろ聞いた。新卒の雇用が良いことも聞いた。もちろんコロナ前だが。アベノミクスを批判するリベラルな人たちの耳には、その人たちの声は入ってこない。
安倍政治で問題だったのは、社会福祉政策と貧困対策、人権政策だ。この問題のターゲットになる人たちに対しては、徹底して冷たかった。そして、ヘイトスピーチを容認するかのような態度をとったことで、この社会にヘイトとは言った者勝ちという文化を定着させたこと、他人の意見を聞かず強権的に組織を運営することをよしとした結果、日本中のごく小さな組織までもが強権的運営をするようになったこと。
問題は書ききれない。私だってテレビで安倍総理の顔を見るのも声を聞くのも嫌だった。けれど、だからこそ、本気で政権交代を実現させることでしか、あの首相を引きずり下ろすことはできないと思ったし、そのためには、安倍政治がなぜあんなに支持され、選挙で勝ち続けられるのか、正確に分析する必要があると思った。そしてそれがアベノミクスの成功によるものであることは、そう理解の難しいことではないように思えた。
安倍政治の経済政策は、ごくまっとうなマクロ経済政策で、これは左派の政治が行うものだと私は学んだ。民主党の経済政策は、財政均衡を求める規律政策で、財務省が強固に求めている超保守派の経済政策だ。数年前にEUのスペイン、イタリア、ギリシアで財政危機が起きたとき、財政均衡を条件とするEUはドイツが中心となって厳しい緊縮財政策を求めた。これは貧乏人に対し、借金をしてでも助けてやる、のではなく、借金を返したら助けてやる、といってる政策で、苦しい人たちからさらに搾り取るやり方だった。猛反発がそれぞれの国で起こり、急進左派ポピュリズムの勢力が台頭した。ギリシアのチプラス首相、スペインのポデモスなど、緊縮財政策に反対し、積極材政策を訴える勢力である。
赤字国債がほぼ国内で購入されている日本と、対外債務が巨額な南欧の諸国とでは、経済政策も変わってくるが、いずれにせよ、財政均衡策は、ケチな金持ちがさらに庶民から吸い上げて貯金を貯め込むような政策であり、金の流れを停滞させることで金のある人間がより生殺与奪券を持つようになる、特に経済的弱者に非常に冷酷な経済政策だ。
アベノミクスはその反対の政策であり、民主党が掲げてきたのはこの、中間層にも弱者にも冷酷な経済政策である。私には、民主党が敗北し続けた原因は明白に思える。
何年か前に、「リベラル懇話会」というリベラルな立場の学者の有志が、民主党と勉強会を行い、経済政策についてもマクロ経済政策の重要性をレクチャーしている。
https://libekon.wordpress.com/
が、当時の民主党はこれを自分たちの政治にまったく反映させなかった。私としては、民主党が自民党の補完勢力に成り下がってしまったのは、このときだったと思っている。変われる最後のチャンスを逸してしまった。あの時点で、民主党はもう、安倍政治に負け続ける一本道を選んでしまった。
立憲民主党の掲げる人権政策はどれも必要だし、その専門的な能力を持つ立憲の議員も国会には居続けてもらわないとならない。だから、私も投票して無駄だったとは思っていない。
けれど、私は自分のアイデンティティのために投票はしない。政治で大事なのは、その政党が好きとか嫌いとか、その政治家を尊敬できるとかできないとか関係なく、少しでもマシな制度を作って運用してくれることだ。民主党はアベノミクス以上にしっかりしたマクロ経済政策を訴えて、世のマジョリティの票も集めることに精力を注ぐべきだった。そうすれば、政権交代は可能性を増し、掲げている人権政策を遂行する機会も得られた。
しかし、自分たちを支持してくれるリベラル層の夢にどっぷり浸かり、共産党との選挙協力という毒まんじゅうに手を出した。支持政党のない中道のマジョリティから目を背け、ジリ貧の左派政党同士で組むことを選んだ。こんな見事な補完勢力ぶりはあるだろうか。自民党に投票する中間層からは、票を奪おうとしないのだから。
もはや民主党は小政党への道まっしぐらである。嫌いな安倍の政治はロクでもないものに決まっていると決めつけ、安倍政治の成果から目を逸らした。民主党も、そこにアイデンティティを委ねた支持者たちも、自分たちの見たくないことを見ないできたのだ。私はそれを希望依存症と呼んでいるが、現実を見たいようにしか見ないという意味で、それは歴史修正主義者たちと同じメンタルの構造にあると思っている。これをカルト状態という。
安倍政治を止めてより良いものにするためには、敵を正確に知らなくてはならなかった。敵の強みと弱点を、正確に見極めなければならなかった。なのに、「おまえの母さんデベソ」と言っていれば勝てるかのような態度を取り続けた。
私がこんなことを言うのは恐ろしいが、維新やN党や参政党の台頭するなか、政党政治が崩壊していくことの歯止めは安倍元首相となってしまっていた。その意味がどれほど深刻か、民主党は受け止められなかった。この人が亡くなった今、自民党はどこまで持ちこたえられるか。ほどなく、より最悪な政治家が権力を持つことになるかもしれない。それは政党政治のふりをしながら、実際はそれを崩壊させる勢力となるだろう。
追記・ナチスのくだりは乱暴すぎる論でしたので、削除しました。
女子サッカー シービリーブズカップの衝撃 ― 2020-03-13
女子サッカー、シービリーブズカップは衝撃的な結果だった。
日本は対スペイン戦1-3の敗北に始まり、イングランド戦が0ー1の敗北、アメリカ戦には1-3の敗北。どの試合も完敗。
衝撃とは、日本の女子サッカーがこの2年ぐらいで欧米のサッカーに差をつけられ始め、ついには1ランク下の等級に落ちるまでに差は開いてしまったことを、完膚なきまでに見せつけられたこと。優勝争いをするレベルではなく、ベスト8を争うレベルだろうか。
キーパーの山下が初戦の後で言っていたが、去年のワールドカップで体験した失敗がまったく生かせていない。むしろ、致命的なミスが増えた。そしてそれを3戦に渡って繰り返した。
素人のファンとして私が感じたことは大きく2つの点。
まず、サッカーの基礎の差が埋めがたいまでに露わになってしまったこと。ボールスピード、走るスピード、ボールの飛距離、一対一での勝負弱さ、判断力の遅さ。今の女子サッカーの最先端は、それらが日本の女子サッカーよりずっと早い。だから、ダイナミックで迫力のあるサッカーを展開するけれど、日本代表はどうしても小さく非力でチマチマして見えてしまう。
この原因ははっきりしている、と私は思う。なでしこリーグが、欧米のリーグよりゆるいからだ。普段からスピードの速い、判断の速さも強いフィジカルも求められる中で試合をしているのと、洗練されたサッカーはしているが、ゆるいパススピードでもそれが通ってしまうリーグでプレーしているのとでは、その蓄積の差は思っているより大きいものとなる。強いプレスを受けると何もできなくなってしまうのは、日常の環境の違いから来ると思うので、もはや一朝一夕では変えられない。
若い世代の才能を、私はつゆも疑っていない。でも、彼女たちは挑戦をしていないと思う。ホームの東京五輪に狙いを定めているせいで、なでしこリーグから欧米のリーグに挑戦する選手がほとんどいない。日本にいたほうが代表に定着しやすいからだ。
そうしてリスクを負わないでいるうち、基礎的な部分での差がどんどん拡大してしまった。その結果、強豪相手に戦術を実現できないほどに、個々のプレーがレベルダウンしてしまった。日本の女子サッカーは、いわば鎖国状態にあると思う。
田中美南はベレーザ で活躍できても代表ではそのポテンシャルを発揮しきれなかった。だから今季からINAC神戸に移籍した。お互いがわかりあいすぎている中でのサッカーだけでは、世界に通用しないから。私はその気持ちを、世界への挑戦に向けてほしかった。
海外に出て代表から消える例が多いから(横山とか猶本とか)、出ていくことにためらってしまうのかもしれない。でもそれは、日本のサッカーを停滞させる大きな要因になる。
もう一点も、それと関係するが、戦術の不足である。今回対戦した3チームは、今の世界のベスト3と言ってもいいと思うが、最先端の緻密な戦術が徹底されていた。男子のリヴァプールみたいなサッカーを、女子もするような時代になったのである。日本女子のお株であるパスサッカーは、その最先端の戦術の前で、ほとんど機能しなかった。
高倉監督は、局面局面での選手個々の自主的な判断を重視し、それができるようになるよう求めてきた、という。男子サッカーでの課題とまったく一緒だが、それが日本のサッカーに最も欠けている部分であり、育てたい気持ちはよくわかる。けれど、思考や判断も、フィジカルや駆け引きも、すべてひっくるめて個の強さを学ぶには、やはり欧米のリーグに挑戦する以外に道はないと思う。日本のなでしこリーグ環境で可能だと思えるなら、それは世界を甘く見ている。
そういう自主性を持つ選手に、高度な最先端の戦術を仕込んでいるのが、今の世界の女子サッカーの現在だ。日本の位置はそれよりも少し過去にいる。
五輪までにできることはし尽くして、本番では今の力を発揮し尽くしてほしい。そのうえで、代表レベルの若手は五輪後、リスクをかけて容赦のない欧米のリーグ環境に挑んでほしい。田中美南、杉田、長谷川、遠藤、三浦、清水、南、籾木、高橋はなあたりが率先して。そして、代表監督もスペインで今活躍している選手たちを呼んでほしい。
『マスコミ・セクハラ白書』 ― 2020-03-03
AppleTV +(アップル版のNetflixみたいなもの)で、鳴り物入りで作られたドラマ『ザ・モーニングショー』がすごく良かった。アメリカのドラマの底力を見せられた。
大手テレビ局の報道番組の看板キャスターである男性が、複数の女性スタッフからセクハラで訴えられ、降板させられるところから始まる。#MeTooをテーマにした作品だが、優れているのは、その告発にとどまらず、被害者加害者傍観者それぞれの人物の立場から出来事を描いている点だ。それぞれの言い分、見え方、振舞う理由があり、それらを丁寧に押さえている。誰の中にも悪人と善人の要素があり、出来事には複雑な過程があり、シングルストーリーで決めつけられるわけではないのだ。
そうであっても、このドラマは振るわれた暴力に理解や達観を示すような真似はしない。ドラマ終盤で詳らかにされていくセクハラの実態は、あまりにもおぞましい。そして、その恐怖と痛みが加害者の世界像には入ってこない様子まで描いて、出来事を徹底して批判する。
リアルすぎて私は自分が被害者の被害を追体験している気分になり、震えがきて、涙が止まらなくなった。レイプのノンフィクション『ミズーラ』を読んでいる時と同じ状態になった。
AppleTV +は1週間は無料体験できるので、ぜひ見てほしい。
内部が圧倒的男社会である日本のメディアで、このレベルのドラマが作られるのはまだ当分先だろうが、じつはこのドラマに匹敵する本が先ごろ刊行された。
『マスコミ・セクハラ白書』(文藝春秋)で、新聞社や出版社、テレビ局などで働く女性社員や、フリーランスの女性ライターらが、これまで受けてきたセクハラを明らかにした本である。WiMN「メディアで働く女性ネットワーク」が企画刊行した。
セクハラ・性暴力を報じる側にいたメディアの女性たちが、自分たちの組織・業界に蔓延するセクハラ・性暴力の被害の当事者として、自分たちを語ったわけである。
これが、どれほど勇気と気力のいることか、自分の傷がまた化膿するような行為か、前書きと後書きを読むだけでずしんと伝わってくる。
この本を私自身も無傷では読めない。
私は大学を卒業してから、まず新聞社に記者として就職した。
研修の段階で、私はすでにつまずいていた。同期の男同士で交わす会話は、女性体験(恋愛話とは異なる)や品評や風俗などの手柄話がかなりの割合を占めていたのである。そのありさまは、本書第1章の「『おっさんクラブ』ノリという魔物」で詳細に書かれているのと同じだ。記者になる男たちは、大学時代の男友達より、そういうことにより積極的な人が多かった。こういう経験に満ちていないと、一人前の記者にはなれないんだ、と私は思い込んだ。日々、苦痛の連続だった。
結局、私はなじめず、脱落した。それだけが理由ではないが、私は会社を辞めた(バブル時代だったから簡単に辞める決断ができたのは確か)。
その後曲折を経て小説家デビューし、今度は文学業界で生きることになった。ところが、ここもまったく同じ文化だったのである。尊敬していた男の書き手たちの、そのような言動を見るにつけ、心砕かれた。それで私は、業界の端にはいるけれど、その人間関係からは離れた。
そして、背を向ける態度をとってきたことに、ずっと苦しい思いをしているわけである。『マスコミ・セクハラ白書』を、被害を受けた当の女性たちに語らしめている大きな動機に、その被害をなかったことのようにして黙って流してきてしまった、そのために温存に加担してしまったという罪の意識がある。ヘテロ男性である私がそれ読むとき、耐え切れないほどの責任を感じる。
この本に書かれていることは、メディアの中だけでなく、日本中に満遍なく行き渡っていることだ。ただ、メディアはそれを報じ、批判してきた。だからこそ、自分たちの現場を明らかにする使命を、この語り手たちは感じたのだろう。
お互いに聞き合って記事にする、という方法からは、相互に語ることがその先へ進む力になるという、回復のあり方もほの見える。
本書は、何と、メディアからは黙殺に近い扱われ方をしている、とも聞く。挙げられた声に応えて、声の命を止めずに生きさせるのは、言葉を受け取って読む側の役割だ。
例えば安倍首相の会見の横暴さを変えたいなら、メディアを支配する権力性を批判できる体質にかえていかなければならない。そのためにも、このセクハラの実態を尊厳を持って語った本が、もっと広く読まれる必要があると思う。
大手テレビ局の報道番組の看板キャスターである男性が、複数の女性スタッフからセクハラで訴えられ、降板させられるところから始まる。#MeTooをテーマにした作品だが、優れているのは、その告発にとどまらず、被害者加害者傍観者それぞれの人物の立場から出来事を描いている点だ。それぞれの言い分、見え方、振舞う理由があり、それらを丁寧に押さえている。誰の中にも悪人と善人の要素があり、出来事には複雑な過程があり、シングルストーリーで決めつけられるわけではないのだ。
そうであっても、このドラマは振るわれた暴力に理解や達観を示すような真似はしない。ドラマ終盤で詳らかにされていくセクハラの実態は、あまりにもおぞましい。そして、その恐怖と痛みが加害者の世界像には入ってこない様子まで描いて、出来事を徹底して批判する。
リアルすぎて私は自分が被害者の被害を追体験している気分になり、震えがきて、涙が止まらなくなった。レイプのノンフィクション『ミズーラ』を読んでいる時と同じ状態になった。
AppleTV +は1週間は無料体験できるので、ぜひ見てほしい。
内部が圧倒的男社会である日本のメディアで、このレベルのドラマが作られるのはまだ当分先だろうが、じつはこのドラマに匹敵する本が先ごろ刊行された。
『マスコミ・セクハラ白書』(文藝春秋)で、新聞社や出版社、テレビ局などで働く女性社員や、フリーランスの女性ライターらが、これまで受けてきたセクハラを明らかにした本である。WiMN「メディアで働く女性ネットワーク」が企画刊行した。
セクハラ・性暴力を報じる側にいたメディアの女性たちが、自分たちの組織・業界に蔓延するセクハラ・性暴力の被害の当事者として、自分たちを語ったわけである。
これが、どれほど勇気と気力のいることか、自分の傷がまた化膿するような行為か、前書きと後書きを読むだけでずしんと伝わってくる。
この本を私自身も無傷では読めない。
私は大学を卒業してから、まず新聞社に記者として就職した。
研修の段階で、私はすでにつまずいていた。同期の男同士で交わす会話は、女性体験(恋愛話とは異なる)や品評や風俗などの手柄話がかなりの割合を占めていたのである。そのありさまは、本書第1章の「『おっさんクラブ』ノリという魔物」で詳細に書かれているのと同じだ。記者になる男たちは、大学時代の男友達より、そういうことにより積極的な人が多かった。こういう経験に満ちていないと、一人前の記者にはなれないんだ、と私は思い込んだ。日々、苦痛の連続だった。
結局、私はなじめず、脱落した。それだけが理由ではないが、私は会社を辞めた(バブル時代だったから簡単に辞める決断ができたのは確か)。
その後曲折を経て小説家デビューし、今度は文学業界で生きることになった。ところが、ここもまったく同じ文化だったのである。尊敬していた男の書き手たちの、そのような言動を見るにつけ、心砕かれた。それで私は、業界の端にはいるけれど、その人間関係からは離れた。
そして、背を向ける態度をとってきたことに、ずっと苦しい思いをしているわけである。『マスコミ・セクハラ白書』を、被害を受けた当の女性たちに語らしめている大きな動機に、その被害をなかったことのようにして黙って流してきてしまった、そのために温存に加担してしまったという罪の意識がある。ヘテロ男性である私がそれ読むとき、耐え切れないほどの責任を感じる。
この本に書かれていることは、メディアの中だけでなく、日本中に満遍なく行き渡っていることだ。ただ、メディアはそれを報じ、批判してきた。だからこそ、自分たちの現場を明らかにする使命を、この語り手たちは感じたのだろう。
お互いに聞き合って記事にする、という方法からは、相互に語ることがその先へ進む力になるという、回復のあり方もほの見える。
本書は、何と、メディアからは黙殺に近い扱われ方をしている、とも聞く。挙げられた声に応えて、声の命を止めずに生きさせるのは、言葉を受け取って読む側の役割だ。
例えば安倍首相の会見の横暴さを変えたいなら、メディアを支配する権力性を批判できる体質にかえていかなければならない。そのためにも、このセクハラの実態を尊厳を持って語った本が、もっと広く読まれる必要があると思う。
ラピノー ― 2019-07-12
メーガン・ラピノーがあんなに素敵な人間になったのには、アメリカの女子サッカー選手である、という環境もすごく大きいと思う。というか、まさに女子サッカーが育てた人材。
私が初めて女子サッカーを見たのは、2002年の、日本代表対メキシコ代表。翌年のワールカップ予選、プレーオフだった。それで出場権を勝ち取り、私は女子サッカーをコンスタントに見るようになった。
そこで気がついたのは、強豪国に共通の要素があることだった。当時の強豪は、不動のチャンピオンのアメリカ、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、中国、北朝鮮。いずれも、フェミニズムが発達しているか、共産主義国で男女同権がある程度実現されている国(国家主義だという要素も大きいが)だ。
その要素を代表していたのが、圧倒的な存在だったアメリカだ。女子サッカーは、アメリカの女子スポーツの中でも断トツの人気を誇るだけでなく、アメリカの男子サッカーがマイノリティのマイナーなスポーツなのに対し、アメリカ中でもメジャーな競技だった。
報道でアメリカの女子サッカーのリーグ戦が写り、そのスタジアムの応援を初めて見た時、鳥肌が立った。それは女子プロレス以外ではほぼ目にしない、未来の光景だった。
澤穂希も宮間あやも小林弥生も、そのトップリーグの中でプレーし、アメリカの女子サッカーが作り出すまったく新しい社会の文化を胸いっぱいに吸って育っていた。
それは、男性優位というジェンダーの線引きが消え、女性が優位でもなく、つまりジェンダーという線引きの力学が消えた社会だった。それがアメリカの女性、セクシュアルマイノリティの中ではモデルケースとして強烈なメッセージを放っていたのである。
私はこの未来像こそが、当時の日本の小泉純一郎首相が体現する、強権とポピュリズムでマイナーな声を押し殺す社会への、最も力強く確実な選択肢だと信じ、のめり込んだ。それで『ファンタジスタ』という選挙(首相公選制)とサッカーを扱った小説を書いた(人文書院の『星野智幸コレクション Ⅰ スクエア』所収)。ワカノという澤を思わせる登場人物は、未来を体現しているが、その未来像がどのようなものかは示されない。それは、自分たちで作るもの、というのが、小説テクスト向かうところではあるのだが、私には書けなかった、ということもある。なぜなら、ヘテロ男性の私は女子サッカーに能動的に関わるという仕方でコミットすることはできないし、その当時は、ではどうしたらいいのかわからなかったから。
その女子サッカーの文化は、アメリカが引っ張りながら、世界中の女子サッカーに広まっている。これはフェミニズムが作り出したスポーツであり、実現させた社会像なのだ。
そしてその中からラピノーは生まれ育ったのだと思う。
ラピノーのことは代表になったころから見てきたけれど、アメリカ代表のキャプテンを担う系譜とはまたタイプが違うと思っていた。ミア・ハム、ボックス、ワンバック、ロイド、モーガンという「正統派」に対し、跳ね上がりのトンガリまくった急先鋒、という印象だった。
ラピノーはそのトンガリまくりそのままで、そのキャプテンたちのさらに先の時代へと、女子サッカーを進めて見せた。澤や宮間たち、その先達たちも含め、女子サッカーを担った人たちの闘いと歴史を思うと、ラピノーのスピーチには沢山の声が重なって聴こえて、涙が出る。
ラピノーは、私たちの代表チームは誰にとっても手本になる、と言った。自分の外に出て、少しでも前の日より大きな自分になろうと努めてほしい、と。だからラピノーは、若手たちの成長を泣いて寿いだのだ。まさに、それを実現してくれているから。未来は続いていると、示してくれたから。
圧倒的な優勝には、そういう豊かな意味がある。
今年もなでしこリーグを見にスタジアムに行こうと思い直した。女子サッカーの体現する社会を、ピッチの外にも広げるためにも。でもたんになでしこリーグ、面白いんだよね
入管政策 ― 2019-03-24
在留特別許可が10年で8割減となっていることについて、私の信頼する、外国人ビザの件を長年手がけてきた弁護士の友人は、下に引用する見解を述べています。
入管政策については、入管の特質をよく見極めている人の分析を知らないと、的外れな批判になってしまうし、そうであるかぎり入管の思うツボです。痛くもかゆくもないでしょう。
友人の弁護士は、入管について、個々人の役人の性格や思惑を超えた、さらには政党の政策さえ超えた、より大きな流れと「管理行政なるものの意思」みたいなものに動かされていることを、現場からずっと指摘しています。それを理解しないと、入管政策を動かしうるほどの批判は成立しないでしょう。
以下、友人の弁護士の見解です。
「理由はいくつかある。1つ目は入国管理の厳格化で不法滞在者そのものが激減したこと、2つめはそれに伴い異議申出をする件数が激減したこと、3つめはそのような状況のもとで単純な婚姻在特等が減り、実刑判決を受けた者など難易度が高い事件の割合が増えたこと、4つめは約10,000件が許可されていた時代は不法滞在者半減計画遂行中で目標達成のために在特のバーゲンセールを行っていたこと、5つめは2009年の改正ガイドラインがもともと不法入国者を不法残留者と違って不利に扱うなど厳格化を施行していたこと、6つめは2012年改正の在留管理の厳格化で在特に消極的な入管の態度が優勢になったこと、7つめは出国命令制度と仮放免中の就労禁止で単純な婚姻在特なら帰国して再入国の方が合理的になったこと。単純に数が減った、許可率が低くなったというのであれば、1~4のインパクトは明確。厳格化は5~7だけど、こちらは影響はなかなか判定しにくい。」
「「五輪がどうの」って、基本的に入管にそういうトピカルなネタに反応する発想はないよ。だから五輪が終わっても元には戻らない。入管制度は、入管にとどまらないより大きな「管理の厳格化、非人間化」という思想のもとで理解しなければならない。」
「背景にはこの20年で劇的に進化したテクノロジーの進歩と、そうした進歩のために可能になり、それゆえに強化された管理の思想がある。外国人登録証が紙で作られていた時代には、摘発しきれないがゆえにお目こぼしされていた部分が、今はなくなってしまったが、それに抗う思想がない。そこを一番強く感じる。」