稀勢の里と横綱昇進の基準について2016-09-11

 稀勢の里は相撲エリートで、若いときから将来の圧倒的な横綱候補と目されていた。私も、その素質には目をみはり、間違いなく横綱になるだろうと思っていた。ファンにはならなかったが、普通に応援していた。
 けれど、稀勢も弱点はメンタルだった。ここぞという一番になると弱い。その原因は、稀勢の相撲のスケールに対して、稀勢のメンタリティがあまりにも小さいためだ。かつて稀勢はしばしば、格下相手に圧勝すると、ドヤ顔で見下ろしたりしていた。大関にもなって、何でそんな駆け出しのヤンキーみたいなことするんだ、と思うが、これを長らくやめられないでいた。
 これで思い出すのが、双羽黒である。これまた大鵬クラスの素質とうまさを持ち、番付を駆け上がっていった。当時、大関ばかりで横綱が空位になるのを恐れていた協会は、ハードルを下げて双羽黒を横綱にした。優勝していないのに、その経験もないのに。横綱に上がった当初の双羽黒は、思い上がっていた。平幕の利子相手に、勝った後「どうだ!」という顔で睨みつけるようになった。横綱の気分だけ先走って、本当の横綱の責任と重圧を勘違いしたのだ。そのまま優勝できず、窮地に追い込まれたとき、例の暴力的な失踪事件を起こして、廃業となった。
 この事件により、横綱昇進の基準は、大変厳しく、厳密になった。2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績で、曖昧だった「順ずる成績」の解釈を、優勝+優勝決定戦での敗北などに限定したのである。
 以後の横綱は、北勝海、大乃国はそれなりの基準で、旭富士以降は鶴竜に至るまでほぼ確実に連続優勝を果たしている。
 中でも最も厳しかったのは、貴乃花に対してだ。優勝した翌場所、優勝決定戦で敗れたのだが、これを「連続優勝ではない」として、昇進を見送られた。その後も、1場所おきに優勝、年3回の優勝をして、さらに全勝優勝をしたが、それでも「連続」ではないとして見送られた。
 ここからがすごかった。貴乃花は翌場所も全勝優勝をして、「2場所連続全勝」という文句のつけようのない成績を、協会に叩きつけたのである。
 これだけのハードルを越えないと、横綱はやっていけない。優勝を義務付けられ、番付の落ちない横綱は、毎場所がボクシングの防衛戦みたいなもの。その重圧は、綱取りの比ではない。だから、ハードルを下げてはいけないのだ。
 いくら準優勝を続けているからといって、稀勢の準優勝は、相星決戦で勝ったほうが優勝、みたいな形での準優勝ではない。数字の上での準優勝ばかり。私から言わせると、準優勝さえ掴み取っていない。ましてや優勝をや。それなのに1回優勝すれば横綱にするという。
 ただでさえ、メンタルが小さく弱く、綱の責任を背負い切れるのか心もとない稀勢の里が、ハードルを下げて横綱にしてもらって、成功すると思えるだろうか。同じようにメンタルの小さい双羽黒で、あまりにも苦い失敗をしたから、ハードルを上げたのに、あの教訓を忘れて甘い基準で横綱にしたら、同じ過ちを繰り返すことになりかねない。
 稀勢のためにも、ちゃんと2場所連続優勝、そのうち1回は決定戦でも可、ぐらいにしておかないと、潰すためだけに横綱に上げることになる。それはあんまりだろ。
 真面目な相撲ファンよりも、日本人日本人とそっちのほうが重要な浮薄な観客たちに、ブームのおかげで手拍子とコールをもらって、立ち合いの集中したときまで手拍子とコールは続いて、無心の立ち合いなんかできないよね。協会にも下駄を履かせてもらって、だらだらといつまでも綱取りの場所が続いて、もう緊張も持たないよね。稀勢の心は疲れきってボロホロなんじゃないかと思う。こんな消費のされ方は、稀勢にとっても相撲にとってもよくないだろう。
 何だか同情して、もう横綱にしてあげてもいいいんじゃない、と白鵬の投げやりな嫌味ともいたわりともつかない言葉に、私も同意したくなる。

短歌のトークイベントに行ってきた2016-09-17

 紀伊国屋書店で行われた、瀬戸夏子さんと伊舎堂仁さんの短歌のトークイベントに行ってきた。ユリイカの8月号で特集「新しい短歌、ここにあります」が組まれたことを受けてのイベント。
 短歌の世界はほとんど何も知らない。縁遠かっただけでなく、小説や批評の「業界」では、短歌は極めて保守的な表現媒体だと見なす言説が多く、特に私が若い時分の現代思想全盛期はその傾向が強く、私もその影響を受けて、近寄らないようにしてきたのだ。そもそも、私には文学的素質は少なく、詩が苦手なため、韻文全体に疎いということもあるが。
 けれど、この1、2年、短歌が私に近づいてきた。西崎憲さん(フラワーしげるさん)と知り合ったことがまず大きい。それから、路上文学賞をしていて、第3回で鳥居さんを知った。路上文学賞の大賞受賞作は散文詩のような短編小説だったけれど、鳥居さんの本領は短歌だ。また、字幕の師匠のお母様が短歌を詠んでらしていて、亡くなられた後にまとめた歌集を送ってくださった。さらに、私が大学で教えていたときに学生だった瀬戸夏子さんが短歌で活躍していて、新しい歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』(書肆侃侃房)に帯を書くことになった。
 この瀬戸さんの短歌が、爆弾だった。どこが保守的な表現媒体なのだ! ここまで自我を吹き飛ばし、極北へ突っ込んでいく言語表現は、小説ではもう絶滅寸前である。ここに紹介はできないが、ぜひ歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』を読んでみてほしい。短歌の概念も印象も激変するから。
 そうして見渡してみれば、短歌の新しい書き手たちがうじゃうじゃしていることに気づく。確かに、なんだか名付けようのない妙な短歌の書き手たちが次々と現れているようだ。
 短歌をわかりたいとか自分で書いてみたいとは思わないのだけど、瀬戸さんの短歌を読んで、この言葉には触れていたい、と思った。それで、イベントに行ってみた次第。
 伊舎堂さんの短歌も初めて読んだが、通念としての文学から遠くあろうという意識を強く感じるものだった。硬く言えば、世の言葉の言説批判ということになるか。批判と言っても糾弾するのではなくて、自然で自明のように思われている巷の言い方や表現を、自然とは感じられなくさせてしまうというもの。お二人の対談はその意味で、スリリングだった。
 短歌の「私(わたくし)性」についての話は、ああ、私小説のことと共通するなあ、と思いながら聞いた。短歌はアマチュアの裾野も広いので、「わたくし性」を詠うものが本流をなすという事情もあるのに対し、小説ではそのようなことがほとんどないため、さすがに私小説作家はもはや少数だが、私の感覚からすれば、形を変えた私小説はまだまだ主流をなしている。ここが最も厄介な支配的言語の領域であり、マジョリティである人の意識をマイナーな自己意識に変えてしまうという、正当化の装置なのだ。これは日本社会の精神風土と化しているのだろうなと思う。
 現実には、同じ「短歌」のくくりに収まりきらないぐらい、多様になっているようだ。例えば鳥居さんの短歌と瀬戸さんの短歌では、両極にも、違う言語にも思える。今日のトークでは、小説には純文学だとかミステリーだとかラノベだとかジャンルがあるが、短歌も本当はそうできるぐらいなのに、読者の規模が小さいから「短歌」だけでくくられる、という話が出た。
 そんなわけで、短歌への警戒感はほとんど消えた。むろん、天皇の言語というルーツを持つ以上、無防備にはなりようがないのは、変わらない。でも、私には背負うところは何もないので、気楽に読むことを楽しみたい。


大相撲9月場所雑感7日目2016-09-17

 今のところ、今場所の大相撲中継で最も興奮したのは、嘉風の取組以外では、今日放送された白鵬対朝青龍の一番。むろん、過去の映像。8年前の朝青龍との決戦。ものすごい睨み合いの後、強烈な引き付け合いの応酬から、白鵬が優勝を決めた。引き付け合いながら、白鵬が朝青龍を引きずり、絶対動くもんかと渾身の力で引き付け返し踏ん張る朝青龍の足が土俵の土を削っていくさまは、見ているほうが昏倒しそうだった。土俵の土はカッチカチで、砂場じゃないのにだよ!
 こんな壮絶な相撲、もう何年もないのではないか。相星決戦もずっとないし、睨み合いもない。時間前に立つこともない。朝青龍を見ると、白鵬が越えてきた山は巨大だったなと思う。大関は誰もそれより小さな山でさえ越えることはできていない。
 その中で、昨日、今日の豪栄道は強いと思った。これで豪栄道が優勝したら、横綱大関で優勝経験のないのはただ一人稀勢の里だけってことになるなあ、なんてね。12勝3敗ぐらいで豪栄道が優勝して、稀勢は11勝4敗で、一応準優勝だから来場所もまた綱取りね、豪栄道と一緒に綱取りレースで、いやー盛り上がるねえ、なんちゃってね。あーあ。
 実際のところ、今場所はまだまだわからない。遠藤を含め、平幕や三役の優勝もあると思っている。でも結局は日馬富士なんだろうな、とも思う。メンタルが違うのでねえ。
 それにしても、今日のゲストの柔道100キロ超級リオ五輪銀メダリスト、原沢さんの好感度、やたら高かった! 相撲好きなこと、勝負に対して本当に真摯であることが伝わってきて、ああ、大相撲に入っていたらなあ、と可能世界を夢想してしまった。きっと横綱になったよ。舞の海ではなく、白鵬に似ている。白眼の感じとか、あの落ち着きとか。

モンゴル人横綱を応援しない空気2016-09-19

 今日の相撲は満足だった。なんてたって、両国国技館に行ってきたんだもんね。升席でラテンの友だちと。
 すでに全日完売の今場所のチケットを取るのはなかなか大変だった。発売日に、私はメキシコからネットでアクセスしたのだが、幾度もの失敗を経て、何とか祝日のチケットを獲得できるまでに2時間近くかかった。おかげでいい席だった。
 今年は初場所も行く予定ていたのが、我が字幕の師匠のご葬儀と重なり、断念したので、今年初である。
 祝日のせいもあるが、日ごろあまり相撲に触れていない方も多いように、小耳にはさむ会話から感じられた。つまり、これまで相撲に来たことのない人が足を運ぶようになったということだろう。それが、全日満員御礼という結果だ。
 私にとって痛快だったのは、隠岐の海の敗北だ。負けて痛快なのではなく、安易に勝ち馬に乗る会場のムードが裏切られたことに、痛快だったのだ。館内は隠岐の海への声援で埋まっていたし、対する魁聖が今の隠岐の海に勝つのは難しいかな、と私も思ってはいた。隠岐の海の左を差させずに先手を取る以外には。
 けれど魁聖は素晴らしい立ち合いから、隠岐の海の左を強烈な押っつけで殺した。左を誇示入れられない隠岐の海は万事休す。魁聖の続けざまの寄りに、あっさりと土俵を割った。横綱大関戦を終えて6勝1敗と絶好調だっただけに、優勝のためにはこれからの下位力士、役力士との対戦に勝ち続けないと、本物であることを証明できない。
 だが、隠岐の海は、結局いつもの隠岐の海の本領を発揮して、ここで硬くなって、動きの悪いまま、負けた。まったくもって、いつもの隠岐の海。まだ2敗だけどね。
 会場はため息だらけ、無念だという空気が支配したが、私はありうる結果だったでしょ、と思った。真剣に隠岐の海を応援したければ、この理不尽さを耐えなければならない。本物の稀勢の里ファンは、その点で人生の深い苦しみを理解している。本当に苦しい時に応援し続けてくれるのが本物のファンだし、力士に力を与えてくれるものだ。
 最も頭に来たのは、結びの一番、日馬富士対栃煌山戦。日馬富士への声援もあったが、7割がたは栃煌山だった。その理由は、日本人力士の優勝や綱取りのためには、モンゴル人横綱には負けてほしいから。白鵬を始め、このパターンになった時は必ず、相手力士への声援が増す。さすがに、以前のような「日本人力士がんばれー」みたいなあからさまな差別声援は聞こえなかったけれど、意味は同じだ。
 本当に栃煌山のファンならよい。でも、これが例えば琴奨菊相手だったら、栃煌山をみんな応援するか、と問いたい。優勝する可能性があるのが日本人力士ならば、素直に応援するのだ。それがモンゴル勢だと、とたんに日本力士のほうに声援を送る。いつだったか、日馬富士へアンチの声援が飛んだ翌日、日馬富士が優勝をかけている白鵬と対戦する時になったら、日馬富士を会場中が応援したこともあった。胸糞が悪くなった。
 この2年ぐらい、いつも味わっていることだ。これが嫌で嫌で仕方ないので、私はいま相撲を見ている。そうでないファンが一人でも増えればいいなと思って。
 強い横綱に、アンチの声援が飛ぶのは昔からあることだ。これは構わない。でも、そこに出身国や国籍や人種を結びつけると、たんなるレイシズムになる。相撲の場で起こっているレイシズムはこのような形をとっている。問題は、大半の人が、この状況を問題だと感じていないことだ。これは日本人の自然な感情であって差別感情などではない、と思い込んでいることだ。
 日馬富士は、栃煌山をまったく相手にしなかった。ザマアミロ、と私は内心で毒づいた。
 日本人力士優勝とかにばかり気を取られていると、来場所は高安の大関取りに話題をさらわれるかもしれない。照ノ富士に、相手のお株を奪うスケールのでかい相撲を取った。照も膝が万全なら、勝ったかもしれないが、それ以上に高安の急成長ぶりが印象的だった。器の大きさがいよいよ開花してきた。来年には、稀勢と高安が同じ番付になってしまうかもよ。

豪栄道全勝優勝2016-09-25

 賞賛に値する優勝だった。引いたり叩いたりせず、下がらずに相撲を取りきろうとしての全勝は文句ない。長い間苦しかった胸の内は、本人とファンにしかわからないだろう。
 遠藤の技能賞も嬉しい。白鵬に次ぐ、美しい相撲を見せた。この力士は見目麗しいから女性ファンの厚さが目立つが、実は相撲好きにはたまらない才能を持っている。足腰の柔らかさ、絶対に引こうとしない姿勢、前さばきのうまさ、勝負勘の良さ、まったく無駄のない相撲の美しさ、調子に乗らず求道的な態度。加えて今場所は、よく喋った。寡黙だった遠藤が、ざっくばらんに胸の内を明かすようになった。何か心構えを変えたのだろう。それがあの平常心につながったのかもしれない。豪栄道の優勝を14日目まで引っ張ったのは、ひとえに遠藤の頑張りのおかげである。13勝2敗で準優勝なのだから、技能賞だけでなく敢闘賞もあげろよ、ケチくさい相撲協会と相撲記者ども。
 ところで、解説の舞の海さんが、豪栄道が大関昇進の時のコメント「大和魂でがんばる」といったことを引き合いに出し、ようやく大和魂を見せてくれた、と言ったが、逆ではないか。大和魂なんかにこだわっていたから、あの不甲斐ない成績だったのだろう。今場所は、豪栄道自身が言うように、「自分の相撲」に徹したから、うまくいったのだ。人のことなんか考える余裕がないところまで追い込まれて、自分に集中したから、情けない自分を封印できた。「大和魂」を見せてやる、なんて思っていたら、大関陥落していただろう。「大和」以前に、どこの人間だとかは関係なく、自分自身であることこそが自分を支えることを知ったのではないか。勝負の時は気持ちで負けないように闘志を燃え立たせたろうが、それは相手が誰でも同じ。特に、優勝の鍵を握る稀勢の里戦、両横綱戦は、すごい気迫だった。これは大和魂でもなんでもなく、大関豪栄道という力士の闘志だ。それを大和魂などというチンケな言葉で一般化して消費するのは、個人として戦っている力士に失礼だろう。国家や民族のために戦っているわけでも何でもない。自分と、それを支えて応援してくれる人のためであって、それは個人の関係性の問題だ。稀勢が、何場所も続くプレッシャーに崩れていったのは、まさに大和魂的な期待を背負わされたからだ。稀勢の里という力士の個性や人格や相撲を応援されたわけではないから、もたなかったのだ。