2014年12月11日(木)2014-12-11

     シニカルな沿道

 ヘイトスピーチの氾濫を沈静化させたいという意思を表明するため、11月2日の「東京大行進」に参加した。昨年に続いて2回目の実施であるが、参加者は昨年の倍以上の約2800人(主催者発表)。実際に2回とも歩いた私にも、去年より爆発的に増えたという実感がある。
 新宿の中心を練り歩くコースだったのだが、街頭の反応はなかなかよかった。特に、外国人やセクシュアル・マイノリティー、路上生活者たちに、何らかの賛意を表明する人が多かった。飛び込みで行進に加わる人も少なくない。
 差別的な暴力が野放しで、まわりも見て見ぬふりをするような状態だった昨年から比べると、異を唱えようとする人々が増えているのは確かだろう。
 だが、社会全体がそれとは逆方向へ動いていることも感じた。ヘイトに無関心である人たちの反応の仕方に、ある傾向が見られたのだ。
 例えば、行進が大きな交差点に差しかかったとき。信号待ちの通行人が、「いつまで道ふさいでんだよ、迷惑なんだよな」とつぶやくのが聞こえた。私の知人は別の場所で、「道路占拠してまですることか」という声を聞いたという。
 おそらく、その人たちはヘイトスピーチに賛同というわけではないが、反対デモにも関心はないといったところだろう。無関心なら、無関心なりの態度を取ればよいと思う。だが、そこでシニカルな拒絶反応を示してしまう。私はここに、日本社会の性格がよく表れていると思うのである。
 世界中どこでも、デモは行われている。韓国でもメキシコでもブラジルでもアルゼンチンでも、私はデモを見た。そのデモに反対する人々が、カウンター行動をするのも見た。無関心な通行人もむろんいる。だが、その通行人がシニカルで軽蔑的な態度を取る様子は、見たことがない。
 要は、他人のすることを、そこまでいちいち気にしていないのだ。同調圧力が常態となっている日本では、「迷惑」という言葉のもとに、いちいち気にして難癖をつけないと気がすまない。特に、政治的社会的な言動に対しては、激しいアレルギー反応を示す。
 これは私の現場である純文学の業界でも同様である。小説が政治的だったり社会派的だったりする題材を扱っていると、図式的な紋切り型と見なして強い拒絶を示す書き手が少なくない。だが、世界の小説に目を向ければ、政治が小説の中に描かれるのはごく普通のことである。なぜなら、政治は生活の一部だから。政治的主張を小説で行ったのなら批判されるべきだが、政治を描くことにまで拒否反応を示すのでは、たんに政治をタブー視しているだけになってしまう。沿道のシニカルな態度とあまり変わらない。
 そしてさらに憂うべき事態も進行している。活字メディアによる、自粛である。この原稿を書いている間に、私はとても看過できない事例を二つも知った。一つはリベラルな出版社のケースで、右派に攻撃されかねないという判断により、刊行予定の本から一部の文章を削除したというのである。私の聞いた限りでは、そのくだりは事実誤認を含んだりするものではなく、何の問題もないように感じられた。もう一つは新聞社が原稿をボツにしたケースで、やはり内容的に問題にならないばかりか、むしろ新聞社としては載せて当然の記事だと思えた。いずれも、直接の圧力があって屈したわけではなく、メディアが自ら自由な言論を放棄している。世の空気に進んで同調しているという意味で、自粛というよりもはや自己検閲の領域に入りつつある。これは氷山の一角であろう。
 このように、日本社会はさまざまな領域にいたるまで、虚無的な態度が染み渡っている。ヘイトの衝動をもたらす源は、この虚無だと私は思うのである。
      (北海道新聞2014年11月14日朝刊 各自核論)