2013年8月19日(月) ― 2013-08-19
中島岳志さんの新刊『血盟団事件』を、渇きを癒やすように読んだ。昭和初期の白色テロを克明に追ったノンフィクションでありながら、私はもう間もなく訪れる近未来を先取りして読んでいるような気分だった。私の感覚としては、きわめてリアルな近未来小説だった。
私は中島さんがこの本の執筆を公にしてから、ずっと刊行を待ち続けていた。私も10年前に血盟団事件に深い関心を持ち、『ロンリー・ハーツ・キラー』という小説を書くためにいろいろと調べたからだ。
期待に違わないどころか、10年前に出ていたらとため息すらついてしまう。膨大な証言と資料と実地調査を重ねた、とてつもない労作である。中島さんのノンフィクションの書き方は、まず、その当事者の言葉を徹底的に読み込み、さらに他の資料にもあたり、同時に当事者の関係した場所を実際に訪ね歩き、あたかも中島さんがその当人であるかのように、目にした光景を幻視しようとする。当人が憑依したかのような書き方が、中島さんのノンフィクションを限りなく文学に近づけている。想像で補って物語を作るのではない。書かれるのはほとんど、当事者たちの言葉や資料にある言葉だが、それを正確な文脈に還元するために、中島さんは当事者に成り代わってみようとする。この書き方とそっくりなのは、伊藤整の『日本文壇史』だ。あの作品が小説以上に小説であり、時空を読む場に再生してしまうのは、伊藤整が消えて、当事者たちの言葉がよみがえっているからだ。
『血盟団事件』も、そのように書かれている。それがこの異様なリアリティの理由である。
私が血盟団事件に興味を持ったのは、「先鋭化」「純化」ということにずっとこだわっていたためだった。なぜ動機は正しいはずの行いが、おぞましい結果をもたらすことがありうるのか。オウム真理教のことなども考えながら、正しさがおぞましい暴力に転化する原理として、「先鋭化」「純化」があると思った。血盟団事件は、まさに先鋭化のもたらした悲劇だった。
事件を起こした青年たちのまじめさ、一途さ、正義感は、オウム真理教の信者たちと通ずるものがある。麻原彰晃同様、血盟団事件の中心、井上日召も、地味で目立たない平凡な者たちと、エリートの学生たちを、ともに惹きつけた。麻原と井上日召が異なるのは、世俗的な権勢欲だろうか。
両者とも、それなりの修業を経て、仏教を媒介にした世界観に覚醒した。その経験に裏打ちされた教義は、外部の者がいかにいかがわしい目で見ようが、それをはじき返すだけの強さがある。その強さに青年たちは惹きつけられ、信仰を持つにいたる。
そこに先鋭化の萌芽がある。信仰は、それ以上は理屈で解体できないという絶対性の感覚に基づくものだからだ。それが純粋であるほど、相対化が難しくなる。自分のしていること、信じていることを、立ち止まって考えることはなくなる。絶対性の感覚に支えられて、迷いは消える。
『血盟団事件』では、井上日召が覚醒する様子、青年たちが井上日召を絶対的に信じていく様子が、克明に描かれる。その過程を私には批判などできない。なぜなら、そのようなある種究極の信用を求める強い気持ちは、私の中にもあるからだ。おそらく誰でも飢えているものだと思う。でもそこにたどり着けるのは、厳しさに耐えうる少数の者なのだ。
宮内勝典さんが『善悪の彼岸』で、オウム真理教の教義を徹底的に論破し尽くしたように、『血盟団事件』は、彼らを支えた井上日召の世界観、教義を、徹底的に読み込んでいく。この作業はきわめて重要である。かれらの絶対性の感覚を支えていたのは、その教義の内容自体なのだから。これを見落としたり軽視したら、かれらのテロ行為の中に存在する道理を見失う。そしてその道理自体は、何人たりとも軽々しく否定はできない。それがかれらの存在を賭けた、この社会への批判そのものである以上。
絶対性の感覚をもたらすのは、血盟団の時代では天皇である。「現人神」であったのだから、疑いえない存在として信仰の対象であったのはいうまでもないが、面白いのは、血盟団の者たちの中にも、その絶対性への信仰を相対化する視点を持った者たちがいたことだ。農本主義者、権藤成卿の『自治民範』で説かれた社稷自治に共鳴した者たちである。この部分には非常に驚いた。
青年たちの「純化」を促進した要素の一つは、「男たちの絆」である。これもあの時代には特別なことではなかっただろうが、かれらの中の取り決めとして、どんなに優秀でも女性は同志に加盟させない、という一項があった。
私が『ロンリー・ハーツ・キラー』で考えたのは、先鋭化、純化に歯止めをかけるために「男たちの絆」を放棄すること、だった。女性が平和主義者だと言いたいのではなく、「純」=一様になっていくことが、危うさを高めるということである。『血盟団事件』でも、井上日召の娘の証言などから、その構造は垣間見られるようになっている。
現代と昭和初期の、過酷で不平等な社会環境の驚くほどの類似を前に、中島さんは青年たちの心持ちに寄り添い限りなく共感しながらも、それが虚しい暴力となり、さらには批判していたはずの国家に収奪されていってしまった原因を、しっかり見つめている。本文の中で説明されるわけではないが、読んだ者がそれを考えるよう、周到に準備されている。先鋭化、純化を立ち止まらせ、なおかつその志を失わないためにはどうしたらいいのか。そのヒントは、例えば中島さんの『「リベラル保守」宣言』を読めば、見えてくるかもしれない。