2013年5月6日(月) ― 2013-05-06
なぜ右傾化するのか
先月の総選挙の後、私はさまざまな友人知人と会うたびに、「こんな選挙結果になるとは思わなかった。信じられない」といった言葉を何度も耳にした。こんな結果になってほしくなかったという気持ちは私も同じだが、「信じられない」とは思えなかった。社会はこの結果の予兆となるようなサインで満ちあふれていたのだから。
年末年始に読んだ本を並べてみる。在特会(在日特権を許さない市民の会)を追ったルポ『ネットと愛国』(安田浩一著)、木嶋佳苗裁判の記録『木嶋佳苗劇場』と傍聴記『毒婦』(北原みのり著)、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告の手記『解』。どれも気が滅入る本ばかりだが、まとめて読むと、なぜあのような選挙結果になったのか、非常によく納得できる。特に『ネットと愛国』は、あの総選挙の特色であった「気分としての右傾化」を扱っており、選挙結果の予言の書といってもいい。
列挙した本に共通するのは、登場するのがいずれも「他人との関係が苦手な人たち」であることだ。それも大半が男性。在特会には本質的に孤立感を抱えた、気の弱そうな者たちが集う。木嶋佳苗被告の事件の被害者たちも、女性との関係はおろか、一般的に人との関係を深いレベルで築くことに難を抱えている。加藤智大は友人は普通にいたが、本当に信頼している相手はほとんどいなかった。ここに例えばオウム真理教の信者を加えることもできよう。
存在が等閑視されているような孤独感から、在特会はきわめて差別的な暴言を叫んでデモをする。それは、自分たちの存在を認めろという承認欲求であり、本当は人と関わりたい欲望のきわめていびつな表現である。加藤智大の凶行も、私にはほぼ同様に思える。木嶋佳苗事件の被害者たちは、木嶋との絆に異様な執着を見せている。冷静に考えれば詐欺とわかりそうな事態に陥っても、木嶋との関係はかれらの存在の根幹を支える大切なものであり、失うことは考えられなかった。在特会の男性たちがもし木嶋佳苗と出会っていたら、街宣活動より木嶋とのつきあいを優先するのではないか、とさえ想像した。
このように信頼関係から疎外された人たちは、いまや日本社会のマジョリティーだと、私は感じている。それが見えにくいのは、存在が最初から消されているからだ。その中でも特に経済的に抑圧されていたり、地味で目立たない者たちが、「下への平等」を求める行動に出始めた、というのが先の選挙ではないか。そんな選択をしたら自分たちが苦しむ、と考えるより、「いい目にあっている(とかれらが見なしている)連中が傷つく選択をすることで、自分たちと同じ地平に落ちればいい」という衝動のほうが勝っているということだ。それほどまでに、他人を信じる可能性から見放されているのだ。
在特会はメディアを、かれらなりの侮蔑語である「左翼」と罵る。メディアは、いい目にあっている連中の既得権益にかなった報道でゆがんでおり、真実はネット上の情報でこそ明らかになると信じているからだ。だが、この傾向は在特会だけではない。例えば、放射能をめぐる情報でも、原発に反対する人たちの一部で似たような傾向が強く見られる。福島で自民党議員が全勝したのはとてつもない不正が行われたため、といった主張を信じるなど。私も新聞をはじめ今のメディアのものの見え方には深刻な疑念を感じているが、既存のメディアとネット上の情報を二項対立的に捉えることにも危険を感じる。
つまり、社会中に不信感がつのるあまり、俗説や謀略論に飛びつきがちなメンタリティが醸成されているのだ。それが、現実とは異なる想像上の敵を作り出し、攻撃してよいのだという気分にゴーサインを与える。不毛な対立構造だが、それが今の社会の構図である。
「こんな選挙結果になることが信じられない」のは、そのような人たちの存在に関心を向けてこなかったせいでもあるかもしれない。対立的な批判より、向き合うことが求められている。
(北海道新聞2013年1月18日朝刊 各自核論)
2013年5月31日(金) ― 2013-05-31
私は文学は表現としては臨界に達し、ただ、その時代時代での切実さを言葉にすることに意義が残るのだと考えていたけれど、いとうせいこうさんの文学はその狭い見方をあっさりと破ってくれた。東京にいると南十字星は見えないが、沖縄ぐらいまで移動すれば見える。そこではそれは普通のことである。見えないからといって、存在しないわけではない。いとうさんは、文学と言われている領域とは違う領域での移動を重ね、あちこちにまだ発見されていない文学があることを確かめてきた。文学とはいとうさんにとって移動する領域の一つにすぎないが、そのことが、文学の人には見えない文学を見ることを可能にしてきた。そうして発見したあちこちの文学なるものに、いとうさんは虚心坦懐に感銘を受け、自分の生に還元し、自分を媒介として、文学へ移し替えようとした。それはいとうさんにとって自然なことだっただろう。だから、私は見たこともない、けれどとても普通に存在している『想像ラジオ』という文学に、驚愕してしまったのだ。初めて南十字星のある夜空を見たような状態だったわけだ。でもそれは普通に存在している空なのだ。
いとうさんは、日本語の近現代文学について、きわめて原理的に考えてきた作家である。また、作品のテーマについても、徹底して考え調べ詰めないと書かない人である。何でも突き詰めてしまう性格なのかもしれないが、ともかく、一時の思いつきやひらめきで書く人ではない。徹底してきつき詰めた後での思いつきしか信用しない書き手だ。
一方で、いとうさんは
ヒップホップミュージックの地平も切り開き、DJ、テレビや舞台、笑い、仏像を見ること、植物を見ること、編集すること、その他私の知らない言葉の領域で活動をしてきた。小説とは、その中から出てきた表現形態の一つである。ヒップホップに疎い私はそれについてコメントする能力がないが、いとうさんのラップについてのインタビューを読んだときは鳥肌が立った。日本語の極北まで行った人なのだということを、痛感した。小説は詩的言語で成り立っているが、いとうさんは小説のベースとなる詩的言語を、ラップで開拓し尽くしているのだと感じた。そこで渉猟された日本語は、浄瑠璃や文楽や歌舞伎といった、今でも生きている伝統芸能の領域にまで及ぶ。伝統だろうが今生まれたものであろうが、生きて流通している言葉の可能性と限界を突き詰めたのである。
こういったところで見つけた文学を、いとうさんは小説として表した。それは、小説とは異ジャンルの人、例えば劇作家等が小説を書いてみるとか、小説家が他の表現者とコラボレーションするとかいった試みとは、根本的に異なる。なぜなら、いとうさんは小説を原理的に突き詰めてもいるから。特に、もう20年近くになるであろう文芸漫談は、その研究のなまなましい現場だ。
こうしていとうさんは、人が文学だと思っている輪郭を破り、見たこともない大きな文学を表した。しかもいとうさんの文学には、輪郭がない。さまざまな文学なるものが表現の形態としても内容としても取り入れられ、なおかつ輪郭は曖昧だ。きわめて風通しがよくて心地よい。
私はここに倫理を見る。まだその言葉の外側に文学なるものがあり、それが入ってくる余地があるから、閉じない、という倫理。その「外側にある文学なるもの」とは、読み手の側にもある。また読み手のほうも、自分の輪郭(無意識)を突破されうる。それは『想像ラジオ』の表す生死観そのもののあり方である。
このあり方は、文学とはかくかくしかじかなるものだと信じている人には、許しがたいかもしれない。あるいは恐怖を、あるいは軽蔑を感じるかもしれない。だからその人たちは境界をはっきりさせたがる。「読者の好きなように読んでほしい」と作家が言うのは、たいてい、境界を突破されることの恐怖をあらかじめ取り除くため自分へのまじないをかけているようなものである。だが、いとうさんの小説は、本当に境界が曖昧であることを存在理由としている。それが倫理である。この倫理が、日本語社会に豊穣さをもたらす。
私は、小説の存在意義は倫理にあると思っている。どれほど素晴らしい分析ができようと、倫理で逃げている作品は、今や存在する意味を失っていると私は感じている。いとう文学にはその倫理があるから、読む人の切実さに響き、その人の無意識に作用するのだと思う。その読み手の可能性を引き出すのだ。
『想像ラジオ』は、震災後の日本語の表現として、世界で読まれるべきだと私は思っている。この言葉なら、形式的な物語や紋切り型の表現を通さずに、ナマで伝わる。なぜなら、ここで書かれた言葉は、読む人個人の言葉を発動させて置き換わるから。私としては、何としてでもラテンアメリカで読まれてほしい。
私のいとう文学像は、
多分に私の文学観に引きつけられているだろう。でも、身勝手な像ではない。どこからどう見ても、これもまごうかたなきいとう作品の姿の一つなのだ。変な言い方だが、『想像ラジオ』を読んで、文学はどこにでもあり誰でもできる、ということを確信することができた。それは誰の生命、生き方も等価だということを意味する。