2012年3月1日(木)2012-03-01

「指導者」を求める空気

 その青年は苛立っていた。
 子どものころから地味で目立たず、誰かから重要な人間だとみなされることもなかった。自分の価値のなさに絶望する一方で、自分を認めない社会にも恨みを募らせていた。
 特に、すべてが金とセックスに換算されてしまう傾向に、憎しみを感じていた。自分の価値も究極的には、要するにいくらの金を生むのか、という一点で決められてしまう。私生活ではその価値が、男の場合は、どれだけモテるかと連動してくる。女の場合は、若さや容貌で計られる。同じ程度の金を生む人間であるなら、自分である必要はなく、誰でもよいのだ。
 そんな尺度だけで自分が判断され、一生を決める仕事に就くのだと思うと、いっそ道を外れてしまったほうが楽だとさえ思う。けれど、凡庸な自分では、外れる勇気さえ持てない。
 こんな社会は腐っていると思う。他ならぬこの「私」が生きているという最低限の実感すら持てないのだから。
 しかし、そんな気分を誰も理解してくれない。何とかしないと誰も普通に生きられなくなる、と危機感を訴えるが、ネガティブな暗い人間として退けられる。
 孤独だった。この異様さに気づかず、のほほんと生きているやつらに、目にもの見せてやりたかった。
 そんなときだった、彼に出会ったのは。
 彼はまず、目指すべき未来をわかりやすく描いてくれた。さらに重要なことに、誰のせいでこんな腐った社会になっているかを、明確に示してくれた。それは彼が憎んでいたのと同じ連中、つまり、自己保身ばかり考えてうまい汁を吸っている、「一般の人々」だった。
 指導者は、一般の無知な人々の過ちを、きわめて苛烈な言葉で批判した。罵倒と呼んでもよいその強烈な怒りの言葉は、まるで破壊神を思わせ、聞いているだけで震え上がった。
 その震えには、武者震いも含まれていた。過てる者たちを、われわれ使命を帯びた者が罰することが、最終的には過てる者を正しく導くことになるのだ。破壊することが、この腐って澱んだ社会を新しく作り直すことになるのだ。自分の苛立ちは憎悪などではなく、正義の怒りなのだ。怒るのは、正しいからだ。
 青年の心は理想で熱くなり、過てる一般人への優越感で膨らんだ。指導者や仲間たちとの一体感に陶酔し、世直しという目的に熱狂した。自分が求めていたのはまさにこんな指導者なのだと思い、彼に自分をゆだねた。そうして青年は、自分たち正しい人間と、一般社会の間違っている無知な人々とを分けて考えることに慣れていった……。
 この青年は特定の誰かではない。例えば、現代の大阪に生きる若い世代かもしれない。指導者とは、首長を務める政治家かもしれない。あるいは私が青年だった時代で言えば、オウム真理教に入信した若者かもしれない。
 昨年の大晦日に自首した、元オウム真理教信者の平田信容疑者は、私と同じ年齢である。彼がオウムに入信したころ、私も時代の異様さに窒息しそうになって苛立っていた。私は文学の領域に脱出したが、彼はオウムへ逃れた。
 オウムにいた者たちに共通するのは、その融通が利かないまでのまじめさや正義感である。かれらは、誰もが無責任を謳歌していたバブル時代に、世の病理を感じ、社会を新しく作り直したいという気持ちを人一倍強く持っていた。その意志が、なぜ、あのようなおぞましい事件へ結びついたのか。
 私は昨年に行われた大阪のダブル選挙の熱や、その後の日本の空気を感じるにつけ、そのことを考えてしまう。それは、指導者を求める側の問題なのだ。

(初出:北海道新聞2012年1月13日付朝刊 各自核論)

2012年3月5日(月)2012-03-05

居場所を削り合う社会

 少し以前、「便所メシ」という言葉があった。大学生が、一人で食事をしているところを誰かに見られたら、寂しい人として地位が下がるから、トイレの個室にこもって食事を済ませるのだ。
 他人の目線が、自分の評価のすべてになっているのである。自分の価値とは、自分で決めることではないのだ。そんな息苦しさは、自由気ままでいいはずの大学生ですら追いつめ、居場所を奪っている。
 先日、ビッグイシュー基金の主催で行われた「若者ホームレス支援会議」に参加したとき、若い人の自己肯定感をいかにしたら育てられるかという話になった。今は若年層のホームレス化と自殺が急増しているが、その根本の原因に、うまくいかないのはすべてダメな自分のせい、という自尊感情の低さがある。
 キーワードは「居場所」。自分がそこにいてもよく、周りの基準に合わせずとも存在を認めて受け入れてくれる場所があれば、自尊感情も育ってくる、というわけだ。
 いったいいつから居場所は奪われたのだろうか。それは突然に進行したことではない。
 サリン事件以前にオウム真理教に入信した者たちも、あの時代、居場所のなさに苦しんだ者たちだったと私は思う。まじめにものを考えようとする人間が「ネクラ」として嘲笑されたバブル期とは、要領のよさ、ノリのよさを身につけろ、という強迫観念に取り憑かれた時代だった。祭りに乗り遅れないよう必死で流行に引きずられていく生き方に、自由があったとはとても言えない。
 そんな風潮に違和感を覚える者に、行き場はなかった。私は外部があると思い、メキシコへ脱出したが、より生真面目な者たちは、セクトしか選択肢がなかったのかもしれない。
 サリン事件の後、私たちはかれらがなぜ入信し、先鋭化していったのか、虚心坦懐に耳を傾けるべきだった。そうすれば、かれらの中に自分と共通する部分があることを、知っただろう。私たちも、自分を放棄しているという意味では、本当の居場所を持っていないことに、気づけただろう。
 だが、社会とメディアが行ったことは、かれらの居場所をさらに奪うことだった。かれらを追放することで、自分たちの居場所を確保しようとしたのだ。自分たちとは異なる異常者として切り分けることで、私たち誰もの内に潜むオウム的なるもの、つまり自分らしさが肯定される居場所を持てずに生きているという不安と絶望から、目をそらしてしまった。
 以来、この社会では、集団で誰かをバッシングをすることで自分を守ろうとする生き方が、標準となった。行き着く先は、すべての人間が完全に居場所を失う社会である。
 原発から目を背けて原発を増やしてしまったように、オウム的なるものから目を背ければ、それはどんどん増殖する。例えば加藤智大の事件は、その一例だろう。
 自分が社会から排除されて居場所がないと感じている者にとって、タブーなど存在しない。オウムのころ以上に居場所のなさが極まっている現在、さまざまな形で暴力を肯定する宗教的なセクトに人が集まっていくと、私は危惧している。

(初出:共同通信2011年11月配信)

2012年3月7日(水)2012-03-07

この社会で表現は成り立つか

 二〇一一年九月に東京で行われた脱原発の六万人デモに参加した。そのとき歩きながら考えたのは、「この社会で表現は可能か?」ということだった。一般参加のコースは、初めてデモに参加しているらしき年輩の方々や家族連れが多く、シュプレヒコールもなく、ただ黙々とのんびり散歩しているような歩き方だった。私にはそれが新鮮であり、心地よかった。デモは声を張り上げることだけが表現ではない。むしろ、人間の集団そのものの存在感がその表現力の核心だ。ありきたりなスローガンをいかにもデモっぽい口調で連呼するよりも、押し黙って大量の人が歩いていることの表現力のほうが、ずっと強い。なぜならそれは見慣れない光景だからだ。
 私が、この社会で表現が成り立つのだろうか、と懐疑的になるのは、「見慣れない光景」へ踏み出すことの恐怖が社会に蔓延していると感じるためである。逆に言うと、現状は、「見慣れた光景」へ身をゆだねるようにしか表現がなされていない。「見慣れた光景」「聞き慣れた言葉」から逸脱することへの恐怖が、この社会を縛っている。
 ちょうど今、私は「路上文学賞」という賞の選考をしている。昨年に有志と手作りで始めた、路上生活者を対象とした賞で、今年で二回目だ。書く文章は、小説でもノンフィクションでも何でもいい。
 創設にあたって最も懸念したのは、書き手たちが世間の目線を気にし、世間の抱くホームレス像から逸脱してバッシングされることを恐れるあまり、世の通念となっている悲惨なホームレス生活を「見慣れた光景」の物語として書いてしまうのではないか、ということだった。自分たちが社会の攻撃性を誘発しやすい存在であることに、ものすごく敏感なのだ。
 ふたを開けてみれば杞憂に終わった。そこには、自分たちのこなれない言葉で、自分たちの現実が描かれていた。とてつもないユーモアさえ含んでいた。まぎれもない個人の表現で、それを受けとめている読み手の私は、確かに人間とやりとりしている手応えを感じることができた。
 一方で私は、文芸誌の新人賞の選考委員も務めている。最終選考に残る作品のレベルは高く、どの書き手も書く力については申し分ない。にもかかわらず、いつも一抹の空しさを覚えるのは、「見慣れない光景」へ踏み込むことの恐怖に屈し、どこか「見慣れた光景」を書いてしまっているからだ。
 それは数年前に大学で創作を教えているときにも感じ続けていた。短篇を書いてお互いに批評し合う授業だったのだが、評価の高い作品が現れると、次回からその作品に準ずるような形の習作が増える傾向があった。
 そのときの評価としてよく使われるのが、「わかりやすくて良い」という言葉だった。「見慣れているから理解できる」という意味に、私には聞こえた。書き手たちは、ここで「わかりにくい」と批判されることを極度に恐れていた。「見慣れないものは理解できない」として、拒絶されるのだ。
 おそらく、創作をしたい人たちは、どこかでそのような息苦しさに抗いたくて書いているはず。なのに抗いきれず、「見慣れる」ことで受け入れられるほうへ折れてしまう。路上にいる人たちは、書き慣れず、折り合いの付け方が少し不得手であるがゆえに、表現できてしまうのかもしれない。
 相手の目線、他人の考えを生きることで、かろうじて受け入れられる。だが、そこには個人としてのやりとりはなく、ただ踏み絵のように見慣れた光景を背負う孤独な姿しかない。自分の真の気持ちも存在も表す表現が、成り立たない。
 六万デモが意義深かったのは、それだけの人数の人が、「見慣れない光景」へ一歩を踏み出そうとしたからだ。本当に表現してみようと、勇気を出したからだ。これは誰にでもできることなのだ。

(初出:北海道新聞2011年10月14日朝刊 各自核論「社会における表現」)

2012年3月11日(日)2012-03-11

『ロンリー・ハーツ・キラー』韓国語版読者の皆様へ

 2000年に行われた韓日文学シンポジウムに参加したとき、私はまだデビューから3年未満の新人作家でした。まだ自分の書いているものに自信が持てないでいました。
 その自信を与えてくれたのは、韓国の作家・詩人たちです。シンポジウムで私の短篇小説を読んだ韓国側の参加者たちが、その作品について、熱く論評し、こういう作品をどんどん書いていきなさいと、肯定してくれたのです。
 以来、私はさまざまな韓国の作家と交流してきました。語りあいながら、文学に対するきわめて誠実なその姿勢に、深く影響を受けてきました。今書き続けていられるのも、そうして出逢った韓国の作家・詩人たちのおかげだという思いを強く持っています。
 その韓国で、私の最も思い入れの強い長編小説である『ロンリー・ハーツ・キラー』を翻訳出版していただけることに、今、非常な感慨を覚えています。

 日本と韓国が抱えている共通の問題に、自殺があります。21世紀になるころから、日本も韓国も、世界でも有数の自殺大国となってしまいました。日本の場合は、13年連続で、毎年の自殺者が3万人を超えています。3万人という数は、3月11日に東日本を襲った大震災と津波で命を落とされた・行方不明になられた方々の数を上回っています。それほど多くの死に囲まれて生き続けるのは、つらいことです。
 なぜこれほど多くの人が、自ら死を選択していくのでしょう?
 私は今、「死を選択」と書きました。じつは、この表現自体に違和感を覚えます。自殺する人は、本当に自分の意思で死を選んでいるのだろうか?
 自殺未遂者やご遺族の話などを知ると、ほとんどの自殺は、自ら望んだものなどではない、ということがはっきりします。何かに追いつめられて、もはや目の前には死しかないような状況になって、消耗しきって判断力を失い、死のほうへ転んでいくのが大半です。それは「自分で選択した死」などではなく、「選択させられた死」です。
 では何に追いつめられていくのでしょう?
 それを、きわめて抽象的な、無意識のレベルにまで降りていって探ったのが、『ロンリー・ハーツ・キラー』です。
 日本も韓国も自殺者が多いということは、「人を死に追いつめる何か」について、共通したものがあるのではないでしょうか。私は、それがときに過剰なナショナリズムをあおり立てる力にもなるような気がしています。
 私は、韓国社会の何が人を自死に追いつめるのかについて、同じ問題を抱えている日本社会に生きる人間として、自分の問題として考えたいと思っています。ですから、この小説を読んで、皆さんがどのように感じ、何を考えるか、気になっています。
 いつか、そんなことを、この本を読んでくださった方々と話すのが、今の私の望みです。

            2011年8月  星野智幸
(初出:金京媛・訳『ロンリー・ハーツ・キラー』 韓国語版、)

2012年3月11日(日)2012-03-11

change of role

 震災や原発事故について、それが小説の言葉となるにはまだまだ時間がかかる、なぜなら小説は最も遅れる表現媒体で、対症療法的なメディアではないからだ、と、作家の多くは実感していることだろう。自らがある種、失語症的な状態に陥っているのを、もどかしく感じている人も少なくないだろう。そのように語っている言葉もたくさん目にした。それは9.11のときもそうだったし、地下鉄サリン事件のときもそうだったし、湾岸戦争のときもそうだった。
 にもかかわらず、小説自体は書かれている。文学業界の光景が一変することもない。一見、何もなかったかのようにそれ以前と同じ調子で小説は書かれ、たまにいち早く震災・原発事故を扱っている作品が現れても、それは本質的に震災・原発事故を扱っているというより、視界に入ったものが映ってしまったというような感じだ。
 かくいう私自身、震災前から準備していた長篇を、震災の少し後に連載としてスタートさせた。震災を受けて書き換えたり、テーマや内容を変更したりもしていない。震災直後は心が乱れて書けなくなったが、締切に追われて、自分でも意外なほど早く、執筆は再開できた。あたかも何ごともなかったかのように、連載は始まった。
 けれど私は自分がやはり言葉を書けないでいると感じている。それまで私は、社会的、政治的テーマについて、自分の考えや感情を主にネットを通してできるだけ書くようにしてきた。個人として社会的な態度を言葉で表明し続けることは、言論が消費財化していく世の中で重要だと思ってきたからだ。
 震災からしばらくは、それまでどおりツイッターで盛んに書いた。けれども、ひと月、ふた月とたつうち、言葉を発するのが難しくなっていった。
 最大の理由は、原発のことを始めとして、何かを語れば、どこかの立場に与してしまうことだった。どこかの立場に与すれば、そうでない立場を攻撃することになってしまう。自分にはその気はないのに、自分の言葉は何らかの立場に回収され、その立場の威力を増すことに荷担する。
 震災の前も、事情は同じだった。発言をする、言葉を表明するとは、そのような関係性に巻き込まれることの責任を引き受けることだからだ。震災後に変わったのは、私がその責任を引き受けられないと感じ始めた点である。
 もうたくさんなのだ。言論が、現実から離陸し、現実を脅かさない領域で力関係を作り上げ、白熱していくことは。そのような言葉のあり方が原発事故の起こるこの社会を作った、という後悔が私から言葉を奪う。
 言論は、真に必要とするべき言葉を締め出してきたような気がする。例えば原発の件であれば、なぜ原発を誘致する土地がこれほど存在し、その土地の人たちがどんな気持ちで生活しているのか、知らないままでいた。原発事故で顕在化したのは、そのような人たちの存在だ。そして、そのような人たちが私と無縁ではないことが、目をそらせないほどに明らかになった。
 今は、自分が語るときではない。深く関係していたのに知らないつもりでいた声を、聞くべきときなのだ。むろん、精緻に報道し、分析し、告発する言論は、これまで以上に必要だ。けれど、同時に、言論を発することができる者は、もっと耳を澄まし、目をこらし、五感を世にさらすべきときでもある。さもないと、対立構造を作り出して怒りをぶつけることで自らの不満を晴らすだけに終わってしまう。そしてそれは、これまでも繰り返されてきた、言論の消費財化だ。
 このところ、change of roleという言葉が頭を離れない。二〇〇五年に山形でインドの作家と交流したとき、劇作家のマヘーシュ・ダッターニが何度も口にした言葉だ。「役割の交換」ということだが、マヘーシュは作品の中で9.11後のイスラムとヒンディーが対立するインド社会を反映させ、宗教、カースト、性差、経済格差といった差異に分断された者たちが、はからずも自分とは違うはずの立場に置かれることで、絶対的だと思っていた差異に理由がないことを知っていく、という過程を描いた。
 言葉を発する側と受けるだけの側という役割を、交替するときなのだ。単に声を聞くだけではない。この場合の役割の交換は、言論を持つ者が現地の言葉を聞いてやる、という現在の力関係を維持したようなものではあり得ず、言論を持つ者が言論を手放して、自らの無力さをさらして言葉が発せられるのを待つ、という、力関係までもが交換されたものでなければならない。そのことで、これまで言論を作ってきた者たちの言語が、組み変わる必要がある。そして、小説もそのような言語を求めている。

(初出:すばる2012年1月号)