2011年6月1日(水) ― 2011-06-01
言論業界にいて仕事をしていると、書いた文章や発言に共感して信用していた人について、実際に知り合って普段の言動に接したとたん、ええ!こんな人だったの? あまり信用できない、と感じることがしばしばある。それでも、言葉を書くのが仕事の場合は、書かれた文章こそが肝心なのだ、だから人柄には目をつむることも大いにありうるのだ、と思ってきた。
だが、最近はそうは思わない。書かれた言葉よりも、態度こそが肝心だと思っている。なぜなら、それなりに影響力のある人間が、言葉ではいいことを言っておいて、態度ではそれを裏切るということが、今の日本の体質を作ってきたと感じるからだ。つまり、個々人の信頼関係よりも、空気や流れが重視される社会はそうしてできあがった。原発事故後の情報の公開をめぐって、社会が成り立たないほどに信用が崩壊しているのも、空気や流れを作ればすべてがコントロールできると権限のある者たちが考える、という体質に原因がある。
だから、震災や原発をめぐる、言論人や文化人、学者らの発言でも、私は内容より態度を重視している。本当にこの社会状況を変え、立て直せるのは、信用を構築できるのは、態度において他人を裏切らない人たちだと思うのだ。言行が完全に一致すべきだとは思わないが、最低限の筋を通さないと、言葉は役割を失う。言論を自分の存在価値の証明にばかり使うような言論人は、切れ者であろうが巧みな話者であろうが、リベラルであろうが保守的であろうが、この社会の信用を低下させている。
被災地へ行って、ちょっと見聞して、まるでこの震災の全体がつかめたかのように、あれこれ語る人。原発や放射能について、人とは違った独自の視点を誇示する人。そういう言論は、根本的に被災とは無縁でしかない。
かつて新聞記者もしていたような人間だから、私は現場を見聞したい気持ちは強く持っているし、現場に身を置かなければわからないことが無数にあることも承知しているけれど、何かを語るために被災地へ行くことはできない。自分の被災ですら語る言葉を持たないのに、他人の被災を語る言葉など、遠く手が届かない。まして、土地との結びつきの強さゆえにその土地と離れることの苦しみなど、どこででも生きられる人間であることをひたすら目指してきた自分には、理解さえ届かない。
理解は届かないけれど、生き残ることの苦しみ・やましさなら、ほんの少し想像することはできる。それは私自身の体験とも重なるから。そこを手がかりに、被災者の幾重にも矛盾した苦しみ、矛盾した要求がどんな感触なのか、想像するばかりだ。想像は、その矛盾した苦しみから逃れられずに自ら命を絶っていく者の感覚に及び、その感覚をかすかにでも追体験することで、私自身がひどくダメージを受けている。
文学を仕事とする者としてできることは、それだけだ。そのためなら、多くの現場の言葉に耳を澄ませたいと思う。考え語るためではなく、感じて少しでも届くために、現場から言葉が発せられるなら、ただひたすら聞きたい。
あとは、文学とは関係なく、一個人として、できることをする。一個人として行うことは、公に語る必要のないことだ。
なぜ、このようなことを書いているかというと、政治がもはや信用を捨ててしまったからだ。言っていることなんかはもうどうでもいい。言葉尻で揚げ足を取る気にもならない。それぞれの政治家の態度を見れば、自分たちが統治するはずの民からの信用を、形だけでも求めようという人すら、政界にはほぼ皆無となったと知れる。
不信任案、民主党内の造反、可決されたら解散総選挙。なぜこれほどくだらない悪夢を見ているのだろう? 直接の被災者、間接の震災被害者、さらには経済的な苦境のあおりを食らっている失業者らを放置してでも、やることか? 今の内閣が機能不全に陥りかけている状態に対し、与党であれ野党であれ、打つ手がこれなのか? こんな状態で喜ぶのは、より主導権を握れる官僚なんじゃないか? どさくさに紛れて、官僚は勝手に自分たちの脳内にある計画を完成させていくんじゃないのか。原発事故だって、いわばそのように官僚が政策を進めてきたツケだ。
まだその言動を信用できる人は、社会にたくさんいる。私はその人たちの言論を読み、行いを知り、少しでも自分も参加できないかと考える。でもその人たちの大半は、有力者でもないし、影響力のある言論人でもない。それで構わない。個人的な信頼のネットワークを築いておくこと、その人たちから自分も信頼をされるように生きること。それだけが、自分の今後の生存を助けてくれるだろう。
だが、最近はそうは思わない。書かれた言葉よりも、態度こそが肝心だと思っている。なぜなら、それなりに影響力のある人間が、言葉ではいいことを言っておいて、態度ではそれを裏切るということが、今の日本の体質を作ってきたと感じるからだ。つまり、個々人の信頼関係よりも、空気や流れが重視される社会はそうしてできあがった。原発事故後の情報の公開をめぐって、社会が成り立たないほどに信用が崩壊しているのも、空気や流れを作ればすべてがコントロールできると権限のある者たちが考える、という体質に原因がある。
だから、震災や原発をめぐる、言論人や文化人、学者らの発言でも、私は内容より態度を重視している。本当にこの社会状況を変え、立て直せるのは、信用を構築できるのは、態度において他人を裏切らない人たちだと思うのだ。言行が完全に一致すべきだとは思わないが、最低限の筋を通さないと、言葉は役割を失う。言論を自分の存在価値の証明にばかり使うような言論人は、切れ者であろうが巧みな話者であろうが、リベラルであろうが保守的であろうが、この社会の信用を低下させている。
被災地へ行って、ちょっと見聞して、まるでこの震災の全体がつかめたかのように、あれこれ語る人。原発や放射能について、人とは違った独自の視点を誇示する人。そういう言論は、根本的に被災とは無縁でしかない。
かつて新聞記者もしていたような人間だから、私は現場を見聞したい気持ちは強く持っているし、現場に身を置かなければわからないことが無数にあることも承知しているけれど、何かを語るために被災地へ行くことはできない。自分の被災ですら語る言葉を持たないのに、他人の被災を語る言葉など、遠く手が届かない。まして、土地との結びつきの強さゆえにその土地と離れることの苦しみなど、どこででも生きられる人間であることをひたすら目指してきた自分には、理解さえ届かない。
理解は届かないけれど、生き残ることの苦しみ・やましさなら、ほんの少し想像することはできる。それは私自身の体験とも重なるから。そこを手がかりに、被災者の幾重にも矛盾した苦しみ、矛盾した要求がどんな感触なのか、想像するばかりだ。想像は、その矛盾した苦しみから逃れられずに自ら命を絶っていく者の感覚に及び、その感覚をかすかにでも追体験することで、私自身がひどくダメージを受けている。
文学を仕事とする者としてできることは、それだけだ。そのためなら、多くの現場の言葉に耳を澄ませたいと思う。考え語るためではなく、感じて少しでも届くために、現場から言葉が発せられるなら、ただひたすら聞きたい。
あとは、文学とは関係なく、一個人として、できることをする。一個人として行うことは、公に語る必要のないことだ。
なぜ、このようなことを書いているかというと、政治がもはや信用を捨ててしまったからだ。言っていることなんかはもうどうでもいい。言葉尻で揚げ足を取る気にもならない。それぞれの政治家の態度を見れば、自分たちが統治するはずの民からの信用を、形だけでも求めようという人すら、政界にはほぼ皆無となったと知れる。
不信任案、民主党内の造反、可決されたら解散総選挙。なぜこれほどくだらない悪夢を見ているのだろう? 直接の被災者、間接の震災被害者、さらには経済的な苦境のあおりを食らっている失業者らを放置してでも、やることか? 今の内閣が機能不全に陥りかけている状態に対し、与党であれ野党であれ、打つ手がこれなのか? こんな状態で喜ぶのは、より主導権を握れる官僚なんじゃないか? どさくさに紛れて、官僚は勝手に自分たちの脳内にある計画を完成させていくんじゃないのか。原発事故だって、いわばそのように官僚が政策を進めてきたツケだ。
まだその言動を信用できる人は、社会にたくさんいる。私はその人たちの言論を読み、行いを知り、少しでも自分も参加できないかと考える。でもその人たちの大半は、有力者でもないし、影響力のある言論人でもない。それで構わない。個人的な信頼のネットワークを築いておくこと、その人たちから自分も信頼をされるように生きること。それだけが、自分の今後の生存を助けてくれるだろう。
2011年6月5日(日) ― 2011-06-05
首相になりたい病患者の菅直人首相を、私は就任当初から支持などしていなかったが、今、他の人に首相が交代することはもっと支持しない。こんな消極的な態度でしか政治に向き合うことはできないことが、悲しいが。
菅内閣のよい点は、自分たちのコントロールを失った失敗が、かなりの程度まで一般の目にはっきり見えていることである。放射能をめぐる情報を出さなかった過程が、今の時点でもう明らかになっていることである。
どういう形にせよ、小沢一郎や自民党・公明党が関わって内閣が作られれば、こういう事情が明るみに出ることは激減するだろう。菅内閣が倒れれば、隠蔽が、隠蔽だとわからないような形で行われることになるだろう。その結果、被災地にいない人間は、政治的な秩序が回復したかのような印象を持つことができる。被災地については、復興のために切り捨てられる部分が、目に見えなくなるだろう。その結果、順調に復興しているかのような印象を、被災地にいない人々は抱くことできる。
つまり、旧に復するのである。自民党や公明党、そして民主党の一部が望んでいるのは、そのような権力のあり方だろう。震災で突きつけられた問題はなかったことにすることで、以前の日常を取り戻したかのように見せる。電力会社や中央官庁があらゆる手を使って求めているのも、そのような政府のあり方だろう。
原発がこれだけ増えて、安全対策もなおざりにされてきたのに、日本社会の住民の目にそれが見えてこなかったのは、権力のあり方が、そのように「自然」だったからだろう。隠蔽というのは、隠蔽していることがわかるような形で行われては、隠蔽にならない。そんなことは存在していないかのように自然に隠すことで、初めて機能する。
私たちはそんな社会を本当に望んでいるのだろうか? そんな旧への復し方を模索しようという動きには、はっきりと拒否の意志を示さなくてはならない。一連の「内閣不信任騒動」をまともに支持する人など、きわめて少数だろうが、夏には内閣が替わることになったようなので、その点を監視する必要がある。
今の内閣で問題なのは、復興の名の陰で着々と進められている、福祉の縮小である。復興の財源を確保するためと称して、この社会の概念を、「自助努力」へ再び変えようとしている。情報を受けとめることに疲れている私は一次資料で確認しているわけではないが、自分が信頼している人たちの発信する情報を見ていると、この社会の唯一のセイフティネットである生活保護を、支給の期限を設ける形で縮小しようとしているだとか、医療福祉を、その受け皿の具体的な設計もないままに、「在宅」支援ベースにしようとしている(つまり、はした金をやるから自分たちでどうにかしろ、医療機関に来たければ自分で金を出せ、という方針)だとかいったことを、あまり注目されないのをいいことに、広く意見の集約をはかることもなく決めてしまおうとしている。自民党時代の「自己責任」よりもひどい切り捨て社会が、出現しようとしている。原発の現状のようないい加減な安全対策が、人の目に触れない間にまかり通っていったように、個人ではどうにもできない原因で困難に陥った人たちを「復興」のための犠牲にするような無責任な社会が、人の目に触れない間に作られつつある。これは、菅内閣が「政治主導」をすっかり失って、官僚らの見えないコントロールに盲目的に従っていることの、最悪の例だろう。
政治が社会のためでなく自らの権力のための施策を行おうとするときは、何かを隠れ蓑にする。最悪のことを進めるために、大問題が他にあるかのように情報をばらまいて注意をそらす。
今見えていないところで何が行われているのかを、気にする必要がある。そのすべてを一有権者が自力でチェックし続けることなど不可能だが、それぞれの分野でそれをチェックし問題点を指摘している専門家や当事者は存在している。大きなメディアがそこに関心を向けないことは、一種の共犯だが、現代ではそれらの情報発信を個人が行うことができ、私たちはそれをなにがしかの権力の妨害なしに受け取ることができる。そのような形で意識には留めて、肝心なときには意思表示をしておく必要がある。
菅内閣のよい点は、自分たちのコントロールを失った失敗が、かなりの程度まで一般の目にはっきり見えていることである。放射能をめぐる情報を出さなかった過程が、今の時点でもう明らかになっていることである。
どういう形にせよ、小沢一郎や自民党・公明党が関わって内閣が作られれば、こういう事情が明るみに出ることは激減するだろう。菅内閣が倒れれば、隠蔽が、隠蔽だとわからないような形で行われることになるだろう。その結果、被災地にいない人間は、政治的な秩序が回復したかのような印象を持つことができる。被災地については、復興のために切り捨てられる部分が、目に見えなくなるだろう。その結果、順調に復興しているかのような印象を、被災地にいない人々は抱くことできる。
つまり、旧に復するのである。自民党や公明党、そして民主党の一部が望んでいるのは、そのような権力のあり方だろう。震災で突きつけられた問題はなかったことにすることで、以前の日常を取り戻したかのように見せる。電力会社や中央官庁があらゆる手を使って求めているのも、そのような政府のあり方だろう。
原発がこれだけ増えて、安全対策もなおざりにされてきたのに、日本社会の住民の目にそれが見えてこなかったのは、権力のあり方が、そのように「自然」だったからだろう。隠蔽というのは、隠蔽していることがわかるような形で行われては、隠蔽にならない。そんなことは存在していないかのように自然に隠すことで、初めて機能する。
私たちはそんな社会を本当に望んでいるのだろうか? そんな旧への復し方を模索しようという動きには、はっきりと拒否の意志を示さなくてはならない。一連の「内閣不信任騒動」をまともに支持する人など、きわめて少数だろうが、夏には内閣が替わることになったようなので、その点を監視する必要がある。
今の内閣で問題なのは、復興の名の陰で着々と進められている、福祉の縮小である。復興の財源を確保するためと称して、この社会の概念を、「自助努力」へ再び変えようとしている。情報を受けとめることに疲れている私は一次資料で確認しているわけではないが、自分が信頼している人たちの発信する情報を見ていると、この社会の唯一のセイフティネットである生活保護を、支給の期限を設ける形で縮小しようとしているだとか、医療福祉を、その受け皿の具体的な設計もないままに、「在宅」支援ベースにしようとしている(つまり、はした金をやるから自分たちでどうにかしろ、医療機関に来たければ自分で金を出せ、という方針)だとかいったことを、あまり注目されないのをいいことに、広く意見の集約をはかることもなく決めてしまおうとしている。自民党時代の「自己責任」よりもひどい切り捨て社会が、出現しようとしている。原発の現状のようないい加減な安全対策が、人の目に触れない間にまかり通っていったように、個人ではどうにもできない原因で困難に陥った人たちを「復興」のための犠牲にするような無責任な社会が、人の目に触れない間に作られつつある。これは、菅内閣が「政治主導」をすっかり失って、官僚らの見えないコントロールに盲目的に従っていることの、最悪の例だろう。
政治が社会のためでなく自らの権力のための施策を行おうとするときは、何かを隠れ蓑にする。最悪のことを進めるために、大問題が他にあるかのように情報をばらまいて注意をそらす。
今見えていないところで何が行われているのかを、気にする必要がある。そのすべてを一有権者が自力でチェックし続けることなど不可能だが、それぞれの分野でそれをチェックし問題点を指摘している専門家や当事者は存在している。大きなメディアがそこに関心を向けないことは、一種の共犯だが、現代ではそれらの情報発信を個人が行うことができ、私たちはそれをなにがしかの権力の妨害なしに受け取ることができる。そのような形で意識には留めて、肝心なときには意思表示をしておく必要がある。
2011年6月8日(水) ― 2011-06-08
自民党の不信任案や、それに民主党の小沢系議員が乗ろうとしたことや、今の大連立話に、非常な違和感を覚えるわけだが、その理由のひとつには、現内閣を批判する議員が、では震災に対して死にものぐるいの努力をしてきたのか、ということがある。
私は菅内閣を支持しないが、こんな状況で政権が交代することも支持しない。震災時の内閣が力量不足をあからさまに呈しているなら、まずは民主党の他の議員が持てる能力を出し切ってサポートに回るべきだったし、さらには野党ももっと建設的な助言や提案を行うべきだった。そんなことをした国会議員が、どれほどいたことだろうか。小沢氏は岩手が地元だが、どれだけ東北のために奔走したのだろうか。別に地元でボランティアをしろというのではない。だが、東北の自治体を助けるような施策や法案の実現に全力を尽くすぐらいできるだろう。
だが、現実に行われたことは、誰もが早く倒れてほしい菅内閣が失敗するために、わざと手を貸さず、傍観し、次々と明るみに出る失態を理由に、自分たちがろくに何もしてないことは棚に上げて、信用できない、辞任しろと迫るという、利己主義の極地のような行為だった。少なくとも民主党は、菅直人をお飾りにしてしまうぐらいに、他の議員が全力を出し切るべきだった。浜岡原発を停止したことで菅内閣の支持が持ち直すことを恐れた原発利権擁護派の議員や官僚たちが、その後、どのような情報操作をしたのか、知りたいものだ。
苦境にある人がこれほどたくさんいるのに、持てる実力(ある、と仮定して)を出し切らないのであれば、少なくともサッカーなら代表から落とされる。このような議員たちは、すべて有権者の代表から落ちるべきである。
この数日の政治状況を脇目に見ながらの(まともに見る気にはならない)、私の感想は、「独立したいな」である。独立して、あの政府、あの議会、あの官僚とは違う国家組織を持つ国に住みたいな、という気分である。一番いいのは、あの連中に、どこかひとつ、無人の島でも与えて、そこで今の政治をしてもらい、それ以外の地域が独立して、新たに統治組織を持つことだ。でも、有権者が同じだと、結局同じ結果になるのかな、とも思うけれど。
私は菅内閣を支持しないが、こんな状況で政権が交代することも支持しない。震災時の内閣が力量不足をあからさまに呈しているなら、まずは民主党の他の議員が持てる能力を出し切ってサポートに回るべきだったし、さらには野党ももっと建設的な助言や提案を行うべきだった。そんなことをした国会議員が、どれほどいたことだろうか。小沢氏は岩手が地元だが、どれだけ東北のために奔走したのだろうか。別に地元でボランティアをしろというのではない。だが、東北の自治体を助けるような施策や法案の実現に全力を尽くすぐらいできるだろう。
だが、現実に行われたことは、誰もが早く倒れてほしい菅内閣が失敗するために、わざと手を貸さず、傍観し、次々と明るみに出る失態を理由に、自分たちがろくに何もしてないことは棚に上げて、信用できない、辞任しろと迫るという、利己主義の極地のような行為だった。少なくとも民主党は、菅直人をお飾りにしてしまうぐらいに、他の議員が全力を出し切るべきだった。浜岡原発を停止したことで菅内閣の支持が持ち直すことを恐れた原発利権擁護派の議員や官僚たちが、その後、どのような情報操作をしたのか、知りたいものだ。
苦境にある人がこれほどたくさんいるのに、持てる実力(ある、と仮定して)を出し切らないのであれば、少なくともサッカーなら代表から落とされる。このような議員たちは、すべて有権者の代表から落ちるべきである。
この数日の政治状況を脇目に見ながらの(まともに見る気にはならない)、私の感想は、「独立したいな」である。独立して、あの政府、あの議会、あの官僚とは違う国家組織を持つ国に住みたいな、という気分である。一番いいのは、あの連中に、どこかひとつ、無人の島でも与えて、そこで今の政治をしてもらい、それ以外の地域が独立して、新たに統治組織を持つことだ。でも、有権者が同じだと、結局同じ結果になるのかな、とも思うけれど。