2011年5月7日(土)2011-05-07

 ブラジル在住の記録映像作家、岡村淳さんの新作『南回帰行』。この作品を見る前日、私はツイッターに「神が降りるかも」と書いたが、神は降りた。文字どおり、神は神であることを降りた。現人神が神であることをやめ、本来の情熱に身を任せ、取り憑かれたように粘菌や植物の採集と分類に没頭したら、そこには橋本梧郎先生がいた。
「橋本梧郎と水底の滝 第1部」と副題がつくように、この作品は、ブラジル移民一世にして在野の植物学者の巨人である橋本梧郎先生のドキュメンタリーである。岡村さんのライフワークともいえる橋本梧郎シリーズは、これが4本目にしておそらく最後であろう。というのも、橋本先生は2008年に95歳で他界されているからである。その直前まで撮り続けていたのが、本作なのだ。
 第2作では90歳間近で激しい風の土地パタゴニアをめぐり、3作目では最後の秘境であるギアナ高地のテーブルマウンテンを訪れ、と、決死の冒険を岡村さんたちと続けた橋本梧郎先生は、本作で最後の旅に出る。内陸の、かつてすんでいた土地を訪ねるという、前二作とは比べものにもならない小さな旅でしかない今回の行程は、心臓手術で一命をとりとめたあとの橋本先生には、前二作以上の冒険であった。
 私にとってこの作品のクライマックスは、二つ存在した。
 ひとつは、私が冒頭の段落で描いた姿である。この作品には、「天皇」の主題がベース音のように響き続ける。ブラジルに渡ってほどないころ、まだ若き橋本先生は宮内庁からの要請で、昭和天皇のためにブラジルの粘菌を採取して贈ったことがあった。そのときのエピソードをうかがいながら、岡村さんは、橋本先生の天皇観に切り込んでいく。同じ博物学者として、同時代人として、そこから身を引きはがそうとした皇民化教育を受けた人間として、昭和天皇への複雑な思いが、元来、口の重い橋本先生からかつてないほど率直に語られていく。戦争を嫌悪し、日本が戦争へ突入する前にブラジルへ移民した橋本先生は、「戦争」や「日本人」がもたらす利害から身を引き、植物の世界に入り込んだ。岡村さんはその姿を、天皇ではなかったかもしれない昭和天皇の姿、ありえたかもしれないもう一つの日本の歴史として、描き出す。二つに分かれた粘菌の変形体が、また一つになって子実体を形成しているかのような、不思議な感覚にとらわれる、橋本先生と岡村さんの対話の時間だった。
 もうひとつのクライマックスは、橋本先生のおつれあいであるユキさんである。これまでの作品ではあまり映し出されることのなかった橋本先生の日常生活の姿が、今度の作品では前面でとらえられる。病み上がりである94歳の橋本先生の生活が、85歳のユキさんに支えてられているさまが、容赦なく描かれる。カメラの目線が次第にユキさんに同化するまでに。
 ユキさんが友だちとのゲートボールに興じる場面。気むずかしい橋本先生から開放される時間にあって、映画を見る私の目からしてもユキさんは生き生きとしている。
 そして、ゲートボール後に、淡い光の日陰で同年代の女友だちたちと3人並んで石段に腰掛け、おしゃべりをしながらおせんべいを食べるシーンの、何と美しいこと! 岡村作品史上で最も美しいシーンといっても過言ではないほどの名場面だ。ユキさんは、日ごろの橋本先生の難しさについて、淡々と愚痴る。それにユーモラスに同情しながら、おせんべいを堪能するオバたち。中上健次の路地で、若い女やオバたちが交わした挨拶の言葉、「イネ、つらいね」と声を掛け合うさまが、まず私の想像空間に浮かび上がった。さらに、小津安二郎の「小早川家の秋」で、喪服姿の原節子と司葉子が川べりに並んでしゃがみ、会話を交わす場面、アルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』で、女たちがアパートでおしゃべりに興じる場面。それらの、楽ではない人生の小さなひだまりに、その楽でなさを無心に共有し合える者同士だけが手にすることのできる、かけがえのない幸福のひとときが、それを撮る岡村さんの共感のごく控えめな表明とともに、カメラに収められているのだ。
 この場面を境に、観客の反応が変わったのを私は感じた。見ている者たちがこの作品に心を開いたのを、感じた。幸福は伝染し、以後、橋本先生の偏屈をあしらうユキさん、それを楽しむ岡村さんのナレーションのたびに、この人たちをいとおしむような笑いが葉ずれの音のように起こり続けた。岡村作品で、これほど笑いが絶えない作品も初めての経験だった。人間の複雑さ、感情の奥行きの豊かさをとらえる岡村さんの手つきは、ここまで繊細で自然なあり方へと到達した。
 旅の途中で第一部は終わる。だが、この作品はこれで完成だとも言える。あるいは、終わることがないのが岡村作品だとも言える。7月には、横浜の特筆すべき映画館「ジャック&ベティ」で再映されるという、何と「グラウベル・ローシャ特集」の一環として! 映画館の深い闇と柔らかい音でこの作品と出会える機会を、逃してはならない。

2011年5月19日(木)2011-05-19

 大江健三郎さんとの公開対談で、会場では話せなかったが、控え室でやりとりしていて興味深かったことを書いておく。
 会場でも大江さんは引用されていたが、朝日新聞のインタビュー中に書かれていた、「ネット上のなりすましによって自分の居場所を奪われた」という加藤智大の言葉に、非常に関心を示された。そして、次のようなことをおっしゃられた。
 ぼくの時代は、アイデンティティの喪失や、失われたアイデンティティの回復・探求というのが、文学の重要なテーマだったけれど、今ではアイデンティティではなくて、居場所なんだねえ。
 じつは、私は今回の対談に当たって、少し大江さんの小説を読んでおこうと思って、『個人的な体験』『空の怪物アグイー』『沖縄ノート』を再読、未読だった『水死』を読んだ。そして、『個人的な体験』を読み直して、大江さんの感想と同様のことを思ったのである。
「個人的な体験」が書かれたのは、まだ政治の時代でもあった1960年代中ごろである。ある意味で日常のすべてが政治の言説に回収されてしまう(特に「知識人」としての作家の言動は)中で、その言説に還元しえないものとして、「個人的な体験」という言葉が、挑発的にも自嘲的にも表明される。そこでは、戦後の希望でもあると同時に、醜い現実でもある「個人」が、指向されている。そういうものを引き受ける主体としてのアイデンティティ確立が、目指されている。
 けれど、私が現代に感じるのは、「個人的体験」の消滅である。「個人」自体が成立せず、目指されもしない中で、固有の体験は成り立ちようがない。個々人に固有のはずの体験は、交換可能な、誰が体験しても同じものでしかない、という認識が共有されているからだ。
「自己責任」という言葉が、それをよく示している。社会的政治的な構造の産物である経験までが、「自己責任」という言葉で、個人のせいにされる。本当は自分のせいではないことまで、それは「個人的な体験」なのだと言われてしまう。それはつまり、本当にプライベートなことの消滅を意味している。
『個人的な体験』では、主人公は自分の赤ん坊の問題で頭がいっぱいになり、それまで重大問題だった核実験の問題にまったく関心を示せなくなっている。自分が赤ん坊の問題に対して卑劣な態度を取るのは、核だとか冷戦だとかのせいではないのだ。そこで必要とされているのは、赤ん坊の問題を引き受ける主体であり、その主体が成立することが、核問題を自分のこととして考えることにつながる。それは個人の内面の問題だった。すなわち、アイデンティティの探求だった。
 けれど現在の個人とは、内面の問題ではない。学校で例えれば、40人のクラスがあるとして、39人が教室内の空間を分割し、余ったひとり分のところが、自分なのである。誰もが、他の39人の領域にはならなかったところが自分、なのである。自分がその領域を占めることに、必然的な理由は何もない。たんにほかの39人が占めなかった、余った場所でしかない。そのようにして、40人分の領域が相対的に分担され、キャラクター付けされる。キャラクターとは、ただたんにそれぞれの領域に割り振られた番号(記号)にすぎない。だから交換可能だ。もし39人で教室空間がすべて分割されれば、残りの1人は居場所を失う。残りの1人になる可能性は、40人すべてに存在している。
 つまり、自分である、ということ自体が、「個人的な体験」ではないのだ。他人でないから自分、というだけのこと。
 にもかかわらず、社会の様々な責任が、「個人的な体験」として個々人に背負わされている。それが、現代の個人だと思う。そのような個人がアイデンティティをいくら探求しても、取り替え可能であることは変わらない。自分のアイデンティティを強靭にすることでは、交換可能性を乗り越えることはできないのだ。
 大江さんがぽつんと漏らされた言葉は、そのような意味を含んでいたのだと、私は思っている。